第38話 大阪大会編④ 風、つながる
ーー夏、甲子園。
風も息も、すべてが熱を帯びていた。
これは、たった一つの勝利の記録。
だけどその一勝には、誰かの努力と、誰かの祈りが積み重なっている。
あの日、オレたちは確かに“風”を掴んだ。
それは、孤独だった少年が仲間と共に吹かせたーー最初の追い風。
五回表。
試合は一対一。
互いに譲らぬ攻防が続いていた。
マウンドに立つのは、右腕のエース切崎 陽。
多彩な変化球を自在に操る、関西屈指の技巧派。
リュウジ先輩ですら、ツーシームで芯を外されショートゴロ。
続くショート先輩も、スローカーブとシンカーでタイミングを崩された。
ーーあの投手、手強い。
フォームから球種は読める。
けれど、それを“打てる”かどうかはまったく別の話だ。
変化球なんて人の数だけある。
同じ球種でも、投げる人間によってまるで違う。
(機械じゃない。だからこそ、難しいんだ)
ベンチの片隅で唇を噛む。
どうすれば、あの切崎を打ち崩せる……?
監督が、ふと低い声で囁いた。
「次の攻撃、ピッチャーの手元をしっかり見ろ。何か“癖”があるはずだ」
心臓がドクンと跳ねる。
「自分が打てると思った球なら、ためらわず振れ。
だがーー腰より下に沈む球は捨てろ。あれは罠だ。
まずは“投げ方”を盗め。それが、この試合を制す鍵になる」
監督の目が、真っすぐ俺を射抜いていた。
「どんな小さなことでもいい。気づいたら必ず伝えろ。
情報を共有しろ。それが“チーム”ってもんだ」
「……はい!」
オレは拳を握り、深く頷いた。
(見るんだ、相手の“手元”をーー)
次の攻撃。
バッターが構えるたびに、オレは切崎の右手を目で追った。
指の角度、リリースの高さ、握りのズレ。
そしてーー気づいた。
フォークの時だけ、人差し指の先がわずかに遅れる。
まるで空を切る瞬間、指が“置き去り”になっているような動き。
「監督!」
オレは即座に声を上げた。
「フォークの時だけ、指の動きが遅れます!」
監督が頷き、スコアボード裏に指で小さく合図を送る。
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次の打者は、四宮 玲央。
ネクストサークルでバットを握る肩が小刻みに震えていた。
「お、おれが……打たないと……」
武者震い。
でも、その目は逃げていなかった。
オレとヒロで肩を叩く。
「背筋伸ばして、レオ」
「大丈夫だ。お前なら風を呼べる」
甲子園での初打席。
緊張しないほうが、嘘だ。
(レオのあの顔……夢の舞台に立つ“重圧”の中で、戦ってるんだ)
(でもオレたちはもう同じチーム。支え合うんだ)
今、オレができるのはーー相手の“手元”を見極め、この流れを掴ませること。
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切崎がセットポジションに入る。
グローブの位置、リリースの角度ーーまただ。あの“遅れ”。
(フォーク、来る……!)
次の瞬間、レオのバットが走った。
甘く入った球を弾き返し、一塁線へ強烈なゴロ。
一塁手が弾き、球は外野へ転がる。
「ナイスバッティン!」
監督が立ち上がり、ベンチがどよめく。
レオは俊足を活かして一塁へ滑り込みーーセーフ!
白いユニフォームの膝に泥がつく。
その顔は、さっきまでの“漆黒の獅子神”じゃない。
チームの一員として戦う、四宮玲央の顔だった。
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そして次打者のユーリ。
ネクストでバットを構える手が震えている。
額の汗が光り、顔は……まるで“メンダコ”ど。
(ユーリも、きっと緊張してる。オレだってそうだ)
(だけど……ここでつなぐんだ)
監督のサインが出る。
(ユーリ、落ち着いて手元を見ろ)
その瞬間、ユーリの目が変わった。
迷いが消え、集中の光だけが宿る。
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一球目、外角ボール。
二球目、力の抜けたフォーク。
(やっぱり、指の遅れ……チャンスはここだ!)
三球目ーー。
ユーリが一瞬バットを引いたあと、構えを変えた。
小柄な体をさらに沈め、左足で地面を押し出す。
カツンーー!
三塁線へ転がる完璧なセーフティバント。
白球は風に乗るように転がり、捕手も三塁手も動けない。
「セーフ!!」
球場がどよめいた。
ツーアウト一、二塁。
流れが――完全にこちらへ傾いた。
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そして、オレの番だ。
切崎の瞳は鋭い。
でも、その奥に疲労の影が見えた。
(ここだ。勝負は、この一球)
ギリギリまで引きつけたストレート。
指の遅れーーない。つまり、真球。
キィィィィィンーー!!
白球が夏の雲を突き抜け、スタンドのざわめきを切り裂いた。
一気に歓声が爆発した。
ベンチの仲間たちの声が、風のように背中を押す。
(これが……オレたちの風だ!)
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そして最終回。
リュウジ先輩がマウンドに戻る。
汗を拭いながら、にやりと笑った。
「締めはエースの仕事だろ?」
その言葉に、胸が熱くなる。
ヒカル先輩がマスク越しにサインを送る。
渾身のストレートがミットに吸い込まれた。
空振り三振。
審判の右腕が、高く、ゆっくりと上がる。
その瞬間ーー甲子園が揺れた。
スコアボードには「3―1」の数字。
煌桜学園、初戦突破。
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「勝った……!」
オレの喉が震えた。
次の瞬間、ユーリが両手を広げて叫んだ。
「やったーっ!!!」
ベンチが爆発した。
笑顔と涙と、風と歓声がごちゃまぜになって押し寄せる。
ヒロがレオの肩を叩き、ショート先輩は帽子を宙へ投げた。
監督はただ静かに空を見上げ、目を細めていた。
その視線の先には、白く輝く夏の空。
(……見てたか、じいちゃん。オレ、風を掴んだよ)
胸の中で、静かに呟く。
“煌桜”のユニフォームが、夏の風を受けて揺れた。
ネクストサークル
次の打者がスタンバイする“待機円”。
バッターが気持ちを整える場所であり、
チームの「次の風」を繋ぐ準備の場でもある。
セーフティバント
打つ代わりに、バットで軽く転がして走る戦法。
送りバントと違い“自分も生きる”のが狙いだ。
塁に出られれば流れを変える“賭けの一手”だが、
失敗すればアウト。まさにリスクと信頼の勝負。




