第36話 甲子園大阪編② 風、通り抜けるベンチ
ようやく迎えたーー甲子園の初戦。
舞台は“聖地”と呼ばれたあの球場。
けれど、時代が変わった今では、その土も少し色を失っている。
それでも、オレたちにとっては夢の舞台だ。
俺たちが先制した瞬間、スタンドは一気に沸いた。
ーー流れは完全にこっちだ。
ヒカルが鋭い当たりで一塁へ。
続くリュウジも二塁へ滑り込み、ノーアウト一・二塁。
最高のチャンスーーだった。
だが、俺の打球は遊撃手の真正面。
(しまった)
ダブルプレー。
球場の熱気が一瞬で冷める。
その時相手チームのキャッチャー・辻がマスクを外し笑った。
「ショート君、やっけ? 俺等かて、なかなかやるやろ」
軽くウインクまでしてくるもんだから、
俺は肩をすくめてにやりと返す。
「確かに〜。切崎君うちのリュウジと同じくらいの
実力者かな」
「はは、言うなぁ。うちらも連合ゆうても負けへんで。
時間が短くても、その分“質”に気ぃつこうてんねん。
名門相手でも、負ける気せえへんよ?」
辻選手の口調は穏やかだったが、その笑顔の奥にほんの一瞬、鋭い光が走った。
キャッチャーマスクの奥から“勝負の匂い”がする。
俺はバットを肩に担ぎながら、
少しだけ意地悪そうに笑ってみせた。
「……もしかして、俺が“指パーン”したの、気にしてたり?」
辻選手が吹き出す。
「あはは、まさか〜〜。まあ確かに?俺こう見えて意外と繊細なんやで」
そこへマウンドからピッチャーの陽が声を飛ばす。
「またなんか言ってんのか〜〜、ハヤト。
またお前のせいで大阪人の印象悪なるやんか!」
「ちゃうわ、アホ!」
二人の漫才みたいなやり取りに、
俺は思わず笑ってしまった。
「漫才みたいだね〜」
「誰がや!!」
スタンドから笑いがこぼれる。
ほんの一瞬、甲子園の空気が柔らかくなった
だけど「もっと行けたはず」という悔しさが残った。
ベンチに戻ると、ショート先輩がいつもの調子で笑っていた。
「なかなかやるね、あのバッテリー」
グラウンドを見つめたまま、リュウジ先輩が腕を組んで言う。
「……お前、なんかやり取りしてなかったか? ショート」
「うん、俺があの時“指パーン”したの、根に持ってるみた〜〜い♡」
「おい……お前のせいか、ショート」
リュウジ先輩の声が低くなる。
頬がピクリと引きつっている。
「だって〜〜、まさか本気で倒れるとは思わなかったんだもん」
「思わなくてもやるな!」
そんなやり取りに、ベンチの空気が少しだけ明るくなった。
「ショート先輩……怖いもの知らずだょぅ……」
ユーリが小声で怯えるようにつぶやく。
両手で自分の腕を抱えながら、そっとショート先輩から距離を取る。
一方ヒロは、顎に手を当てて珍しく黙り込んでいた。
「ヒロ、どうした?」
オレが問いかけると、ヒロは真面目な顔のまま呟く。
「……ショート先輩って、天然で相手のメンタル削ってきますよね」
「確かに……」
ベンチの何人かが同時にうなずいた。
ショート先輩は首をかしげながら笑っている。
「え、褒められてる?」
「褒めてねぇ!」
リュウジ先輩のツッコミが飛び、
再びベンチに笑いが広がった。
ほんの短い時間だったけれど、
重くなりかけた空気に風が通り抜けるような一瞬だった。
「確かに手強いね。だけどこっちにもいるじゃないか、彼が」
ヒカル先輩がにこりと笑いオレを見た
そう今日はいつもとは違うんだ。
ーー試合前のシートノック前に、監督に呼ばれた。
「タイチ、今日はお前を先発でいく」
「えっ……オレが、ですか?」
ベンチの空気が一瞬止まる。
リュウジ先輩もヒカル先輩も、思わずこちらを見た。
監督は腕を組み、淡々と続けた。
「理由は相手が“変化球”を得意としているからだ」
「?あの、監督それだと何が……」
ヒロが首をかしげる。
「いい質問だ、ヒロ。だが問題は逆だ。
相手は“変化球を打つ”のを得意としている。つまり、変化球に見慣れているんだ」
「でも……いくら慣れてるって言っても、人によって球筋は違うんじゃないでしょうかぁ……監督」
ユーリが控えめに手を挙げて言う。
「確かにその通りだ、ユーリ。リュウジだって負けてはいない。
だが見てみろ、あのスタンドを」
監督の指の先ーー観客席には見慣れないユニフォームが並んでいた。
他地区の選手たち。偵察目的で訪れている強豪チームだ。
「情報を得る機会が少ない今、少しでも見て研究するために来ているんだ」
(そういえば……監督が言ってたな。今の時代、情報を得るのが難しいって)
なるほど、そういうことか。
「つまり……リュウジ先輩を“隠す”ためですね」
監督はうなずく。
「さすが我が監督……その判断力、まさに“守護神”と呼ぶべきか」
レオだった。
いつものポーズを決め、顎に手を当てながら真顔で言い放つ。
「……レオ、それ今言う?」
ユーリが小声で苦笑いする。
「? 守護神?」
監督が少し首をかしげた。
「あ、いえっ……! “流石監督だな”って意味です!」
慌ててオレがフォローする。
監督は一瞬きょとんとしたが、すぐに微笑んだ
「……まあ、悪い気はしないな」
ベンチに小さな笑いが広がる。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
そして監督は再び真剣な表情に戻った。
「タイチ。だがなーーそれだけじゃない」
「お前も実力をつけてきた。
もう“守られる側”じゃない。
この甲子園で、自分の風を吹かせてこい」
監督のその言葉に胸が熱くなる。
「自信をもて。お前の球なら絶対に抑えられる」
「……監督がそう言うなら、しょうがねぇな。
今回は譲ってやる! 見せてこい、お前の姿を。ここにいる全員に!」
「リュウジ先輩……!」
「エースの俺が認めてんだ。ビビんなよ」
リュウジ先輩が笑って立ち上がった。
「僕もリードで全力を尽くすよ」
ヒカル先輩がミットを軽く叩いて微笑む
「楽しみだな〜〜。タイチ君のピッチング姿♡」
ショート先輩は髪をくるくるしながらおどけて見せた。
仲間たちの笑顔が、不思議と力になる。
緊張よりも、ワクワクのほうが勝っていた。
(甲子園初のマウンドがーーオレを待ってる)
帽子のつばを握り、深く息を吸う。
土の匂いがする。
観客席から吹く風が、指先をかすめる。
ーー行こう。
“風を掴む”この手で。
「シートノックの心得」
試合前の“シートノック”は、ただの守備練習ではない。
一球ごとに仲間の呼吸を合わせ、風の流れを読む“儀式”だ。
焦るな、浮かれるな。
静かに、確かに、己の“間”を取り戻せ。
心が整えば、球も走る。
野球は“心の準備”から始まる。
ーー虎の巻より一部抜粋




