第30話 伝説の握り、新しい風
その球は、風を切り裂き、空を撫でる。
真っ直ぐに見えて、最後の瞬間に「風向き」を変える。
じいちゃんが残した“虎の巻”には、ただ一言だけ書かれていた。
『球は、風を欺け。人ではなく』
七月の風が吹く。
そして、オレは“あの握り”をもう一度、この手で再現しようとしていた。
……じいちゃんのフォームは、何度やっても真似できなかった。悔しい。
だけど、映像を見返すうちに気づいたんだ。
じいちゃんの“ボールの握り方”に。あれは、オレが知っているどの変化球とも違った。
ーー七月下旬。
幸い、甲子園まではまだ時間がある。
オレは次の日から早速、ヒカル先輩に協力をお願いして練習を始めた。
パァンッ!
キャッチャーミットに響く鋭い音。
ヒカル先輩の眉が、思わず跳ね上がる。
「!? スライダーのキレが……違うよ、タイチ君! まるで、“風を切っている”みたいだ。」
ヒカル先輩が目を丸くして笑う。
その表情に、オレの胸も熱くなった。
「本当ですか、ヒカル先輩!」
オレは思わず叫んでいた。
手のひらに残る感触が、確かな手応えとして震えている。
「本当だよ、タイチ君! これは僕も練習しないと置いていかれそうだ」
「ありがとうございます。 実は、じいちゃんの映像を見て気がついたんです。」
(そう、この握りこそ、あの“風の球”の原点なんだと)
「なるほどね。ーーなら、甲子園までに“もの”にしようか」
ヒカル先輩の言葉が、まるで風のように胸の奥を通り抜けていく。
オレは、拳をぎゅっと握った。
ーー私は物陰から見ていた。
風がそっと、帽子のつばを揺らす。
(まさか、タイチが独学で『虎の巻』の真髄に触れるとはな……)
祖父である一条大虎が見せた“あの握り”を、
まさかこの少年が辿り着くとは。
(……あの大虎さんの“風”が、また吹こうとしている)
グラウンドの隅で、リュウジ先輩が腕を組んで見ていた。
やがて、短く息を吐いてオレに声をかける。
「おい、タイチ!」
「リュウジ先輩!」
「……あの時の言葉、撤回する」
「え? あの時?」
「プライドがない、なんて言ったがな。
テメェは、俺に聞くことで“プライドを捨てる覚悟”を見せた。
……俺が間違っていた」
ぶっきらぼうにそう言うと、リュウジ先輩は視線を落とした。
そして、静かに言葉を続ける。
「……俺も見てやるよ」
「えっ?」
「エースだからな。負けてらんねぇ」
その言葉は、風の音よりも優しく響いた。
地区大会の優勝を経て、リュウジ先輩の中でも何かが変わり始めていた。
「タイチ……すごい!」
ユーリが感嘆の声を上げる。
「俺たちも負けないようにしないとねユーリ君」
その横でショート先輩が髪をくるくるさせて笑顔で頷いた。
「俺もガム噛んでる場合じゃないな……」
ヒロが口をもぐもぐさせながら呟く。
「まだ噛んでたの?」
「余ってるのユーリにやるよ。ほら、いちご味にオレンジ味にーー」
ヒロがポケットから山のようにガムを出す。
「わああ、そんなにどっから出したの!?」
ユーリのツッコミに、全員が笑った。
その笑い声が、夏の空に溶けていく。
握ったボールを見つめる。
指先が覚えた“あの感触”が、風のように心を駆け抜けた。
(じいちゃん……。
オレ、じいちゃん少し近づけた気がするよ)
風が吹いた。
その風は、確かに“新しい夏”の匂いを運んでいた。
【スライダー】
スライダーとはーーまっすぐ進むように見えて、
最後の瞬間に“風の向き”を変える球。
ほんのわずか、指の角度をずらし、
風の流れに身を任せて放つ。
力ではなく、感覚で投げる球だ。
速球の皮をかぶり、心の隙を突く。
見る者には魔法のように、
打つ者には悪夢のように映るだろう。
忘れるな。
“風を支配する”とは、“力を手放す”こと。
握りを信じ、風を信じよ。
その時、球は勝手に曲がる。
ーー虎の巻より抜粋。




