第26話 地区大会決勝④ 風は止まない
夏の陽射しが、まだ昇りきらない神宮のスタンドを照らしていた。
ここまで来るのに、長い時間がかかった。
負けて、悔しくて、それでももう一度バットを握ってーー。
去年の夏、止まってしまった“風”を、
もう一度吹かせるために。
いま、俺たちはその続きを取り戻しにきた
九回表、ツーアウト。
スコアは4―3。煌桜、わずか一点リード。
最後の打者はーー冥月のセカンド、海城サトシ。
かつてこのチームの主将であり、“風が止まった”と言い残して去った男だ。
マウンドのリュウジ先輩が息を吐く。
ヒカル先輩とショート先輩が固唾を飲んで見つめている。
スタンドのざわめきの中で、サトシは静かに構えた。
その瞬間、ヒカル先輩が息を呑む。
オレもレフトからその様子を見ていた。
――ヒュン。
バットが風を裂いた。
打つ前の、あの仕草。
勝負の前に、気合を込めてバットを一度だけ振る癖。
ヒカル、ショート、そして俺――三人が同時に気づいた。
あの仕草が、まだ彼の中に生きていることに。
(……先輩は、逃げたんじゃなかったんだ)
(止めてたのは、俺たちのほうだったんだ)
胸の奥で、何かがほどけていく音がした。
重たかった心の鎖が、ひとつ、外れる感覚。
俺はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸う。
喉の奥が熱い。
けれど涙じゃない。――闘うための熱だ。
(そうか、そうだったんだな。ならもう迷わねぇ)
まぶたを開けると、サトシ先輩の瞳が見えた。
真っすぐで、まるであの頃のままだ。
先輩の中で、野球はまだ燃えてる。
(先輩……俺は、もう逃げません。今の俺を見ててください)
指先に力を込め、セットポジション。
風が一瞬、止まった。
――ここからだ。
俺は渾身のストレートを放つ。
白球がうなりを上げ、稲妻のようにサード方向へ……!
だが、そこには――。
ーーパァン!!
「取ったぁぁぁぁぁッ!!」
ヒロのグラブが白球を掴み、ゲームセット。
その瞬間、球場には歓声が湧き上がった。
そして、神宮球場に勝利のサイレンが鳴り響いた。
サイレンの余韻が消える頃、風が球場を一周した。
ーーまるで、止まっていた時間を撫でていくように。
歓声と涙と抱き合う仲間たち。
「よくやった、みんな。ありがとう。ありがとう……」
監督の声が震えていた。
その目には、涙。
監督の泣き顔なんて初めて見た。
胸の奥からじわりと、勝利の実感が湧き上がる。
――勝ったんだ。
甲子園。
あの舞台へ行ける。
レン、お前のいるあの場所へ――。
心臓が破裂しそうなほど鳴り響く。
オレは胸いっぱいに勝利の味を噛みしめながら、
遠く、夏の空へと吠えた。
整列を終えたあと、サトシ選手が歩み寄ってきた。
まだユニフォームには土がついているのに、その笑顔は清々しかった。
「最高の試合だった。本当にありがとう。
……って、お前たちが泣いてどうするんだよ。勝ったんだぞ、誇りを持てよ」
ヒカル先輩、リュウジ先輩、ショート先輩。
人目もはばからず、三人とも堪えきれずに涙をこぼしていた。
「先輩……俺っ……」
いつも明るく笑っていたショート先輩が、嗚咽を噛み殺すように声を震わせる。
「僕だっで……ずっど……」
ヒカル先輩は言葉の途中で詰まり、唇を噛んだ。
マスクの跡が残る頬を、ひとすじの涙が伝う。
リュウジ先輩は何も言わない。
ただ、キャップのつばを深くかぶり、顔を隠すように俯いていた。
だけど、サングラスの隙間からこぼれる光がーー涙だとすぐに分かった。
サトシ選手はそんな三人を、そっと抱き寄せる。
まるで“止まっていた時間”を抱きしめるように。
その光景を見つめながら、胸の奥が熱くなった。
(……そうか。先輩たちにとって、この勝利は“赦し”なんだ。
去り際にサトシ選手はこう告げた。
「俺はこれからも、ずっと野球を続けるからな」
そう言って、晴れやかに笑う。
その笑顔を包むように、球場を春のような風が駆け抜けた。
真夏のはずなのに、どこか柔らかくて、あたたかい風だった。
「風はーー止まない」
その言葉が、空に溶けていった。
止まっていた時間が、ようやく動き出した。
そして風は、新しい未来へ吹き抜けていく。
止まっていた“風”が、再び流れはじめた。
リュウジの勇気、ヒカルの想い、ショートの優しさ、そしてタイチのまっすぐさ。
それらが全部重なって、ようやく煌桜の野球は前を向いた。
そして――サトシもまた、風を取り戻した。
野球が衰退しても、心の中の“風”は決して止まらない。
想いが続く限り、次の世代へ、またその次へ




