第16話 練習試合⑦ 新たな約束
春の風は、汗と涙を混ぜて吹き抜ける。
勝利の味を知ったとき、人はようやく“次”を見つけるのかもしれない。
これは、タイチが初めて掴んだ勝利と、再び動き出した約束の物語。
最後のアウトを取った瞬間、ベンチから歓声が弾けた。
春の陽射しがグラウンドを照らし、白いユニフォームがまぶしく光る。
仲間の笑い声、土の匂い、乾いた風――その全部が、胸の奥に焼きついていく。
(……勝った)
オレはマウンドに立ち尽くしていた。
スコアボードには「6―2」。
煌桜の名前の横に、初めての“勝利”の文字が並んでいる。
照りつける太陽の下、ヒカル先輩がマスクを外して笑い、
ユーリとヒロがハイタッチを交わす。
その光景が、夢みたいに眩しかった。
(これが……“勝つ”ってことなんだな)
紅白戦では味わえなかった達成感。
悔しさも涙も、全部この瞬間のためにあった気がした。
でも、心の中には一つだけ引っかかるものが残っていた。
ーーあの一打。
空へと吸い込まれていった白球の軌道。
風に乗って遠くまで飛んでいった“ホームラン”の音が、まだ耳に残っている。
(……レン。やっぱりお前はすげぇよ)
悔しさよりも、なぜか清々しい気持ちがあった。
ずっと探していた“本気でぶつかり合える相手”が、
今ここに立っている。そう実感した。
監督が近づいてきて、オレの背中を軽く叩いた。
「よくやったな、タイチ」
「……ありがとうございます!」
その言葉に、胸が熱くなった。
勝ったのに、泣きそうだった。
ベンチに戻る途中、ヒロが帽子を振って笑い、
ユーリが小さくガッツポーズをしてみせる。
そのどれもが、オレには眩しかった。
(……やっと。やっと、みんなの中で戦えた気がする)
グラウンドを春の風が吹き抜けた。
砂が舞い、汗ばんだ頬をそっと撫でていく。
風の匂いの中に、どこか懐かしい声が混ざった気がした。
ーー「ナイスピッチ!」
振り向くと、陽光を背に立つひとつの影。
グラブを肩に担ぎ、こちらをまっすぐ見ていた。
レンだった。
レンが歩み寄ってくる。
「タイチ。今日はウチの連中が色々すまなかったな。……負けて悔しい奴もいる。俺様だって、悔しい」
そう言いながらも、顔を上げる。
「ーーだけど! 今日、俺様はお前からホームランを打った! 初めて勝てた! ガキの頃からずっと、お前に会えると信じて野球を続けてきたんだ! 次こそはチームごと勝つ!!」
その声は、まっすぐで、どこか清々しかった。
まるで、雲の隙間から光が差し込むように。
その瞬間、風が吹いた。
グラウンドの砂が舞い、ユニフォームの裾がふわりと揺れる。
オレは息をのんだ。
(……そんなことを、ずっと思っていたのか、レン)
子どもの頃。
あの昼下がりのグラウンド。
互いに泥だらけでキャッチボールしていた背中が脳裏に浮かぶ。
“いつか、甲子園で戦おうぜ”
そう笑っていたレンの声。
あの約束の記憶が、風と一緒に蘇った。
(……お前は、ちゃんと覚えてたんだな、レン。
そして、オレが投げた渾身の球を、約束の証として、フェンスの向こうに叩き込んだんだ)
レンはオレに背を向け、帽子を被り直す。
そして、もう一度だけ振り返った。
「タイチ。また必ず会おうぜ」
短い言葉。けれど、心に響いた。
オレは何も言えなかった。
ただ、頷くことしかできなかった。
昼の風が、レンの背中を押していく。
遠ざかる足音の向こうで、春の陽射しがまぶしく光っていた。
風が頬を撫でた。
少し暖かくて、不思議と心地よい。
(試合には勝った。けど、レンとの勝負には負けた……)
オレは帽子のつばを握った。
風がその手を包み込む。
(……次は、絶対に、負けない。お前にも。そして、甲子園の約束にも)
その誓いが、風と一緒に空へと溶けていった。
胸の奥が熱くなる。
それは悔しさでも、悲しさでもない。
ーー約束を思い出した“懐かしさ”だった。
初めての勝利。
それは、終わりではなく、始まりの風だった。
レンとタイチ、二つの約束をつなぐ風は、
これから“仲間の風”へと形を変えていく。