第24話 地区大会決勝編② 風を信じて
去年、止まってしまった“風”がある。
信じることが怖くて、心のどこかで距離を取っていた。
でも――あの一球が、その風を呼び戻した。
神宮球場。
蒼天の下、冥月学院との決勝戦が始まろうとしていた。
マウンドにはリュウ。
そして、バッターボックスには冥月の一年生エースーー稲川 実。
短髪に焼けた肌、快活な笑顔。
堂々とした立ち姿からは、まるで長年の経験者のような余裕が漂っていた。
(こいつが、冥月の“新しい風”か……)
ヒカルはマスクを握りしめ、息を潜めた。
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三回表。ツーアウト。
球場のざわめきが一段と高まる。
稲川がバットを軽く担ぎ、リュウに視線を送る。
「――来いよ、土門さん。九州男児に逃げはなかけんばい!」
挑発ではなく、真っ向からの宣戦布告。
その福岡訛りが、風に乗ってスタンドまで響いた。
リュウは息を整え、サインを確認する。
ーー塁は空いている。
理屈でいえば、ここは申告敬遠。
だが、ヒカルのサインにリュウはゆっくりと首を振った。
「……逃げねぇよ」
唇の動きだけで、それが伝わった。
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ベンチでは、監督が腕を組んで見つめている。
そして、すぐに指を上げた。
(ーー長打警戒だ)
守備陣が一斉に後方へ下がる。
その動きと同時に、スタンドの空気がぴんと張り詰めた。
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初球、ストレート。
稲川は動かず見送る。
二球目、外角へのスライダー。
その瞬間ーー。
「ガギィィィィンッ!」
乾いた金属音が球場を震わせた。
白球がレフト線を一直線に走る。
(抜けた……!)
誰もがそう思った。
だが、レフトのタイチが動いた。
風を切るように一歩、二歩。
砂を蹴り上げ、全身を投げ出す。
ーーダイビングキャッチ。
白球がグラブに吸い込まれた瞬間、
「アウトォォォッ!!」と審判の声が響く。
スタンドが爆発するように沸き立った。
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稲川はバットを肩に戻し、笑っていた。
「はっはっはっ……ボール玉に手ぇ出してしもうたか。はぁ〜、まだまだやな俺も」
肩をすくめながらも、その表情はどこか晴れやかだ。
まるで“野球そのもの”を楽しんでいるように見えた。
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マウンドのリュウは立ち尽くしていた。
驚きと、そして何かが解けたような顔で。
「……マジかよ、捕りやがった……」
息を吐き、空を仰ぐ。
熱気の中で吹く風が、頬をやさしく撫でた。
(ーーあの紅白戦。俺はタイチに本気で投げなかった)
(どうせ、あいつらもすぐ辞めると思ってた)
(去年のサトシみたいに……本気で勝とうとして、打たれて、誰かが去るのが怖かった)
(“風が止まった”ーーあの言葉を、俺はずっと胸の奥で引きずってた)
(本気を出すことは、また裏切られることだと思ってた)
(だから、タイチの言う“風”なんて、ただの綺麗事だと笑い飛ばした)
(なのに……)
視線の先。
土の上に、泥まみれのタイチが立っていた。
グラブを高く掲げ、誇らしげに笑っている。
(この一年坊主がーー俺の風を、繋いでくれたのか)
「……信じてみてもいい、かもな」
その呟きは、真夏のはずなのに春風みたいに、やわらかく流れた。
ベンチに戻ると、リュウは帽子を外し、汗をぬぐった。
誰よりも穏やかな顔で、ぽつりと呟く。
「先輩が辞めてから、風は止まった。
本気を出すのが怖かったんだ。
どうせ、また誰かが離れてくと思ってた」
握った拳が、わずかに震えている。
「でも……あいつのキャッチ見て思った。
もう怖がるのはやめよう。信じてみようって」
僕はその横顔を見つめ、静かに頷いた。
「リュウ……風が、戻ってきたんだね」
リュウはニヤリと笑い、帽子を被り直した。
「行くぞ。今度こそ勝つ。みんなでな」
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ベンチに戻った稲川は、笑いながら言った。
「楽しかなあ……こういう勝負。やっぱ高校野球はよかばい」
九州訛りの声が風に乗って響く。
神宮の空が、止まっていた時間をやさしく揺らした
風は、止まっていたように見えても、
誰かの胸の奥では、ずっと吹き続けているのかもしれない。
その風が、次の仲間へ届いた瞬間。
物語はまた、新しい季節を迎える。




