第15話 練習試合⑤ 風の記憶、再び
風は、過去の声を運んでくる。
幼い頃に聞いた叱責も、褒められなかった記憶も。
けれど、誰かの優しい声が重なった時――
その風はもう、「痛み」じゃなくなる。
ベンチに座りながら、ボクは手のひらを見つめていた。
震えは止まっていたけれど、胸の奥がまだ熱く痛い。
(……怖かった)
本当は、怖くて仕方なかった。
あの言葉を浴びた瞬間、心のどこかが折れた気がした。
監督に「下がるか」と言われた時、
思わず視線を落とした。
グラブの縫い目ばかり見つめ、顔を上げられなかった。
(やっぱり、ボクは……)
そんな弱気が胸を覆った時、
ショート先輩の声が静かに響いた。
「ユーリ、君はもう一人じゃないよ」
風が吹いた。
その瞬間、ボクは顔を上げた。
ーー見えた。
グラウンドの隅で、帽子のつばを握りながらこちらを見ているタイチ。
あの人の目は、いつだってまっすぐだ。
(……負けられない)
サードでは、三輪がこちらを見ていた。
何も言わず、軽く親指を立てる。
その仕草だけで、不思議と背中が押された。
そして隣にはショート先輩。
いつもの笑顔で、何も言わずにうなずいてくれた。
ーーああ、そうか。
ボク、ひとりじゃなかったんだ。
誰かが見てくれている。
誰かが信じてくれている。
その想いが、ボクの中に風を起こした。
(ボクはいつも、兄の背中ばかり見ていた)
中学の頃。
トウリと二遊間を組んでいた。
完璧な兄。ミスをすれば、父の冷たい視線が突き刺さった。
「またお前か。九品寺の名を汚すな」
低く、重たい声。
その一言が、何よりも怖かった。
兄は怒られなかった。
怒鳴られるのは、いつもボクだった。
だから、風が止まった。
声を出すことも、笑うことも、できなくなった。
けれど今は違う。
この学校に来て、仲間に出会った。
ショート先輩の優しさ。
タイチのまっすぐさ。
三輪の静かな温もり。
それぞれの“風”がボクの中を通り抜けて、
いつの間にか、新しい流れになっていた。
そして今ーー打席に立つ兄が、無表情のままバットを構える。
冷たい風が吹いた。
でも、ボクはもう下を向かない。
(来る……!)
兄のスイング。
打球はセカンドへ。
体が勝手に動いた。
捕った、投げた――アウト!
歓声が上がる。
風が頬を撫でた。
あの日止まっていた風が、また吹いている。
タイチが拳を突き上げる。
三輪がサードで小さく頷く。
ショート先輩が笑う。
その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
(ボク……この風が好きだ)
まだ力は足りない。
でも、これが“ボクたちの野球”だ。
もう一度、グラウンドを見渡す。
仲間が風に揺れるユニフォームをなびかせていた。
ボクは小さく笑って、空を見上げた。
(この風を、絶やさない)
父の声は冷たくて、重かった。
でも、仲間の声はあたたかくて、軽やかだった。
誰かの言葉で止まった風も、
誰かの言葉でまた吹き出す。