第15話 練習試合④ 荒れる3回裏
風は、時に優しく、時に冷たい。
ほんの一言で、人の心を揺らす。
ーーそれは、強がりの奥にある「本音」を引き出すために吹く風。
それはーー3回裏の始まりだった。
ユーリがセカンド方向に飛んだ打球を弾いた。
小さな音。けれど、その瞬間、空気が変わった。
二遊間での送球ミスが続き、グラウンドの風が重たく淀んでいく。
“いつものユーリじゃない”。
背中を見ながら、オレは嫌な予感を覚えていた。
リュウジ先輩が、相手バッターを三振にしてどうにか切り抜け、相手の攻撃は終了。
ベンチに戻ると、オレの頭はひとつの疑問でいっぱいだった。
ーー何があったんだ?
「ユーリ、さっき……何か言われてなかったか?」
しばらく黙っていたユーリが、唇をかすかに震わせた。
手の中のグラブが、わずかに音を立てる。
「……実は、3回表の打席で言われたんだ。『九品寺家のダメ人間がいる』って」
その言葉を口にする声は、かすれていた。
強がっている。でも、その肩は微かに揺れていた。
「審判が止めてくれたけど……」
俯いたまま、視線が土の一点を彷徨っている。
指先が震えていた。
オレは拳を握り、怒りを押し殺した。
「なんだと……!?」
ベンチの空気が一瞬で張り詰めた。
ショート先輩も立ち上がり、いつもの笑みが消えている。
「俺のユーリ君をそんな風に言う奴、許せない。ちょっと抗議してくる」
「せ、先輩!?」
ヒカル先輩とリュウジ先輩が慌てて止める。監督の声も飛んだ。
「落ち着け、水城!」
まるで嵐の前触れ。
空気がピリピリと肌を刺す。
監督が深く息を吐き、ユーリに目を向けた。
「……ユーリ、一度下がるか?」
その瞬間、ユーリの肩がわずかに跳ねた。
言葉の意味を飲み込み、目線を落とす。
視界の端で、彼の拳がぎゅっと握られていくのが見えた。
小さく、短く震えていた。
(……本当は、怖いんだ)
強がりの中にある“痛み”が見えた気がした。
そして次の瞬間ーーショート先輩が静かに声をかける。
「ユーリ君、ちょっとこっちに」
ユーリは反射的に顔を上げる。
視線がぶつかる。
ショート先輩が、耳元で何かを囁いた。
「……っ!?」
一瞬で真っ赤になるユーリ。
目を丸くして叫ぶ。
「な、なに言ってるんですか、 アンタ!!こんな時にふざけないでくださいよ!!」
その声には、さっきまでの震えがもうなかった。
ショート先輩はにっこり笑い、肩を軽く叩いた。
「あはは。戻ったね、いつもの君に。大丈夫。君はもう一人じゃないよ」
その言葉が、ベンチの空気を柔らかくした。
風がそっと流れ出す。
オレは見ていた。――ユーリが、再び目線を上げた瞬間を。
彼の瞳には、もう迷いはなかった。
浅かった呼吸が整い、胸が静かに上下している。
「監督……不安はあります。でも、このままじゃ終われません。
もし本当にダメだったら、その時は下げてください」
声はまだ少し掠れていたが、言葉の芯は強かった。
監督はゆっくりと頷いた。
「……わかった。だが今回だけだ」
「はい」
風が、再び動き出した。
“風”は、目に見えない勇気だ。
人の言葉が心に触れた時、初めて吹き出す。