第10話 談話室のはなし②
叱られるよりも、優しい言葉の方が刺さる夜がある。
それは、敗北の中にまだ“希望”が残っている証拠だった。
監督が最後に湯呑みを置くと、部屋の空気が少しだけやわらいだ。
けれど、その眼差しはまっすぐ俺たちを見ていた。
「タイチ。今日はリュウジ相手によく投げきった。
打たれたのは辛かったろう。逃げ出したくもなったはずだ」
その言葉に、オレの胸がズキンと痛む。
ーーそうだ、逃げ出したくなった。
あの時、力の差を見せつけられて、何もできない自分が悔しくて。
それでも投げるしかなかった。
逃げたら、きっと終わると思ったから。
指先に残るマウンドの感触が、まだ熱を持っている気がした。
「でも最後まで投げた。それが大事だ。
今日の悔しさを忘れなければ、お前はもっと強くなる」
静かな声だった。
けれど、その言葉は火のように胸に染みていった。
源監督の声が、心の奥に届く。
監督は、今度はユーリへと目を向けた。
「ユーリ。お前の脚の速さには驚いた。
性格を否定するつもりはないが、少し卑屈すぎる。
もっと自信を持て。……ほら、泣くな。ハンカチやるから」
布団の中から、ひょいっと手だけ出してハンカチをひったくるユーリ。
顔は出さない。泣き顔なんて、絶対見せたくないらしい。
その不器用さに、思わず口元が緩む。
「三輪。お前も最初の打席でリュウジの球をよく飛ばした。
あのパワーは天性だ。練習次第でまだ伸びる。
努力は、嘘をつかない」
三輪は一瞬きょとんとしたあと、
うつむきながらも、口元にわずかに笑みを浮かべた。
「……努力は、嘘をつかない」
その言葉を何度も繰り返して、かすかに拳を握る。
監督は立ち上がり、ゆっくりと窓の外を見た。
夜風がカーテンを揺らし、月明かりが差し込む。
「今回は、あいつらの執念が上回った。
後半のリュウジは本気だった。
だが、これからが本番だ。
お前たちは、ようやくスタートラインに立ったばかりだ」
静かに、けれど確かに響く言葉。
誰も返事はしなかった。
ただ、全員の胸に同じ火が灯ったのが分かった。
(……そうだ。ここからだ。
落ち込んでる暇なんかない)
湯呑みの底に残ったお茶を飲み干すと、
心の奥がほんの少しだけ、温かくなった気がした。
監督がふと思い出したようにオレを見た。
「そういえばタイチ。リュウジ相手によくインコースを打てたな。知識があるな」
「実は、ずっと勉強してたんです。家にこんな本があったから……」
言いながら、オレは思い出すように立ち上がった。
そして部屋の棚から、あの古びたノートを取り出してきた。
「これです。『虎の巻』って書いてあって……でも、じいちゃんの字と見慣れない字が混ざってるんです。誰が書いたのか、ずっと分からなくて」
監督はページをめくった瞬間、息をのんだ。
指先が、微かに震えていた。
「……こいつは、まさか……」
時計のカチカチとした音だけが響いていた。
やがて、低く懐かしそうな声が落ちた。
「ーー“兄弟の虎の巻”か。まさか現存していたとはな」
「兄弟……?」
「そうだ。お前のじいさん、一条 大虎は俺の現役時代のヒーローだった。
豪快で、直感と根性の塊みたいな選手だった。
だが、理論はからっきしでな」
そうだ、じいちゃんの野球はいつも根性と気合で出来ていた気がする。
そのことを思い出すと懐かしくなる。
「代わりに、頭脳派の兄ーー、一条 剛が理屈をまとめてやっていたんだ」
監督はページをなぞりながら、遠い目をした。
「この『虎の巻』は、現場叩き上げの“大虎”と、理論派の“剛”。
二人が力を合わせて書き上げた“実戦と理論の融合書”だ。
まさに“血と知”の結晶だよ」
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ページの端には、確かに二つの筆跡がある。
太く荒い字と、細く整った字。
どちらも“野球を愛した者”の跡だった。
「じいちゃん……お兄さんと、一緒に……」
監督は静かにうなずく。
「俺が若い頃、大虎さんはよく言ってた。
“剛の理屈は面倒くせぇが、いつか俺の後ろを継ぐ奴には必要になる”ってな」
「そう、お前が打ったインコースを打つ技術も剛さんの理論だ」
その言葉に、胸が熱くなる。
「タイチって、あの一条 大虎の孫!? ボクでも知ってるよ! 昔の映像で見たことある!」
「すげぇ……その血筋だったのか……」
ユーリと三輪が身を乗り出す。
「いや、そんな大したもんじゃ……」
慌てて否定しかけたが、ページの中の文字がオレの胸を叩く。
(じいちゃんと、じいちゃんの兄貴の想いがここにあるんだ)
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監督は最後に、静かに笑った。
「タイチ。この本を継ぐ資格があるのは、お前だけだ。
一条兄弟の“血”と“知”が、お前の中に流れてる。
その二つが重なれば――必ず新しい野球が生まれる」
オレはページを閉じ、そっと胸に抱いた。
「……絶対に、無駄にしません。
二人の想いを、グラウンドで証明します」
監督は満足げに頷いたが、ふとオレは顔を上げた。
「監督……この“虎の巻”、実はピッチャー以外にも色んなポジションのことが書いてあるんです。
だから、オレだけじゃなくてーーチームのみんなにも伝えたいです」
その言葉に、監督の目が少しだけ見開かれた。
「……そうか。そういう考え方ができるようになったか」
柔らかく笑って、監督は頷いた。
「いいだろう。ならこの本を参考に、他のメンバーにも合わせた練習メニューを組もう。
特に三輪。お前はほぼ素人だから、こういう基礎理論は役に立つはずだ」
名前を呼ばれた三輪が、反射的に顔を上げる。
「頑張ったら、ご飯増えるかな?」
監督が思わず頭を抱えた。
「……まあ、かまわんが……ほどほどにな?」
「やった!」
三輪が小さくガッツポーズ。
その横でユーリが布団の中から声を上げた。
「……ふふっ、三輪らしいや。……でも、ボクも負けてられないね」
ようやく顔を出したユーリの頬には、まだ少し涙の跡が残っている。
けれどその瞳は、確かに前を向いていた。
後日ーー
「最初の練習試合の相手が決まった。
私立『神威岬高校』だ。二週間後だぞ」
一瞬、時間が止まった。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
神威岬ーー
北海道の頂点に立つ、あの強豪。
そして、“アイツ”がいる学校。
ざわめく心を押さえ込みながら、オレは拳を握りめた。
この試合が、オレたちの運命を大きく動かすことになるとはーー
まだ、誰も知らなかった。




