第10話 談話室のはなし
叱られるよりも、優しい言葉の方が刺さる夜がある。
それは、敗北の中にまだ“希望”が残っている証拠だった。
紅白戦が終わったあと。
談話室には、どんよりとした空気が沈んでいた。
電気は消えたまま、誰も動かない。
オレはテーブルに顔を突っ伏し、
ユーリは、持ち込んだ布団にくるまって、完全に“ダンゴムシ”状態。
あの底なし胃袋の三輪でさえ、今は何も食べていなかった。
その静けさが、余計に部屋を重くしていた。
(……話しかける勇気なんて、誰にもない)
負けた悔しさが、まだ胸を焼いている。
言葉にすれば、泣いてしまいそうだった。
どれくらい時間が経ったのか。
突然、パッと灯りがつく。
思わず顔を上げると、入口には監督が立っていた。
「お前ら、こんな暗い中で何してる。他の連中は部屋に戻ったぞ。まもなく消灯だ」
その声にハッとして時計を見る。
もうそんな時間……?
立ち上がろうとしたけど、力が入らず、椅子に逆戻り。
横を見ると、二人は岩のように固まったままだ。
監督はため息をひとつつき、
小さなポットを取り出して、お茶を淹れはじめた。
「今日の試合、お前らはよくやったよ」
監督の低い声が、湯気の向こうから聞こえる。
「……上級生との力の差、分かっただろ?」
静かな言葉。
責めてはいない。でも、誤魔化しもない。
オレは唇を噛みしめながら、絞り出すように言った。
「……悔しさが、骨身に染みました。
先輩たちは想像以上に強かった。
今日負けたのはオレのせいです。打たれなければーー」
その瞬間、布団の塊がすごい速さで転がってきた。
「うわっ!?」
中身はもちろん、ユーリ。
叫び声が聞こえる。
「ボクだって!ボク、全然打てなかった……!
もうダメなんだよぅ……ツライ……」
布団の中から、鼻をすする音が響く。
それにつられるように、三輪も小さくつぶやいた。
「……負けて、悔しい」
その声が、かすかに震えていた。
(……そうか。オレだけじゃない。みんな、同じ気持ちなんだ)
監督は三人を見渡し、
黙って湯呑みを三つ並べた。
「そこまで自分を卑下するな」
ゆっくりとお茶を注ぎながら、
源監督は穏やかに言葉をつづけた。
「今日の悔しさを忘れなきゃ、それでいい。
それが“成長の種”になる。
……ほら、春先とはいえ夜は冷える。
そんな半袖で体を冷やすなよ」
湯気の立つ湯呑みを受け取ると、
じんわりと手のひらが温まっていく。
苦いけれど、不思議と優しい味がした。
ユーリも三輪も、おずおずと口をつける。
その顔が、少しだけやわらいだ。
静かな時間。
窓の外では、夜風がカーテンを揺らしている。
ほんの少しだけどーー
たしかに、“風”が吹いた気がした。
監督が最後に湯呑みを置くと、部屋の空気が少しだけやわらいだ。
けれど、その眼差しはまっすぐ俺たちを見ていた。
「タイチ。今日はリュウジ相手によく投げきった。
打たれたのは辛かったろう。逃げ出したくもなったはずだ」
その言葉に、オレの胸がズキンと痛む。
ーーそうだ、逃げ出したくなった。
あの時、力の差を見せつけられて、何もできない自分が悔しくて。
それでも投げるしかなかった。
逃げたら、きっと終わると思ったから。
指先に残るマウンドの感触が、まだ熱を持っている気がした。
「でも最後まで投げた。それが大事だ。
今日の悔しさを忘れなければ、お前はもっと強くなる」
静かな声だった。
けれど、その言葉は火のように胸に染みていった。
監督の声が、心の奥に届く。
そして、今度はユーリへと目を向けた。
「ユーリ。お前の脚の速さには驚いた。
性格を否定するつもりはないが、少し卑屈すぎる。
もっと自信を持て。……ほら、泣くな。ハンカチやるから」
布団の中から、ひょいっと手だけ出してハンカチをひったくるユーリ。
顔は出さない。泣き顔なんて、絶対見せたくないらしい。
その不器用さに、思わず口元が緩む。
「三輪。お前も最初の打席でリュウジの球をよく飛ばした。
あのパワーは天性だ。練習次第でまだ伸びる。
努力は、嘘をつかない」
三輪は一瞬きょとんとしたあと、
うつむきながらも、口元にわずかに笑みを浮かべた。
「……努力は、嘘をつかない」
その言葉を何度も繰り返して、かすかに拳を握る。
監督は立ち上がり、ゆっくりと窓の外を見た。
夜風がカーテンを揺らし、月明かりが差し込む。
「今回は、あいつらの執念が上回った。
後半のリュウジは本気だった。
だが、これからが本番だ。
お前たちは、ようやくスタートラインに立ったばかりだ」
静かに、けれど確かに響く言葉。
誰も返事はしなかった。
ただ、全員の胸に同じ火が灯ったのが分かった。
(……そうだ。ここからだ。
落ち込んでる暇なんかない)
湯呑みの底に残ったお茶を飲み干すと、
心の奥がほんの少しだけ、温かくなった気がした。
ーー監督がふと思い出したようにオレを見た。
「そういえばタイチ。リュウジ相手によくインコースを打てたな。知識があるな」
「実は、ずっと勉強してたんです。家にこんなノートがあったから……」
言いながら、オレは思い出すように立ち上がった。そして部屋の棚から、あの古びたノートを取り出してきた。
「これです。『虎の巻』って書いてあって……でも、じいちゃんの字と見慣れない字が混ざってるんです。誰が書いたのか、ずっと分からなくて」
監督はページをめくった瞬間、息をのんだ。
指先が、微かに震えていた。
「……こいつは、まさか……」
時計のカチカチとした音だけが響いていた。
やがて、低く懐かしそうな声が落ちた。
「ーー“兄弟の虎の巻”か。まさか現存していたとはな」
「兄弟……?」
「そうだ。お前のじいさん、一条 大虎は俺の現役時代のヒーローだった。
豪快で、直感と根性の塊みたいな選手だった。
だが、理論はからっきしでな」
そうだ、じいちゃんの野球はいつも根性と気合で出来ていた気がする。
そのことを思い出すと懐かしくなる。
「代わりに、頭脳派の兄、一条 剛が理屈をまとめてやっていたんだ」
監督はページをなぞりながら、遠い目をした。
「この『虎の巻』は、現場叩き上げの“大虎”と、理論派の“剛”。
二人が力を合わせて書き上げた“実戦と理論の融合書”だ。
まさに“血と知”の結晶だよ」
ページの端には、確かに二つの筆跡がある。
太く荒い字と、細く整った字。
どちらも“野球を愛した者”の跡だった。
「じいちゃん……お兄さんと、一緒に……」
監督は静かにうなずく。
「俺が若い頃、大虎さんはよく言ってた。
“剛の理屈は面倒くせぇが、いつか俺の後ろを継ぐ奴には必要になる”ってな」
「そう、お前が打ったインコースを打つ技術も剛さんの理論だ」
その言葉に、胸が熱くなる。
「タイチって、あの一条 大虎の孫!? ボクでも知ってるよ!昔の映像で見たことある!」
「すごいな……その血筋だったのか……」
ユーリと三輪が身を乗り出す。
「いや、そんな大したもんじゃ……」
慌てて否定しかけたが、ページの中の文字がオレの胸を叩く。
(じいちゃんと、じいちゃんの兄貴の想いがここにあるんだ)
監督は最後に、静かに笑った。
「タイチ。この本を継ぐ資格があるのは、お前だけだ。
一条兄弟の“血”と“知”が、お前の中に流れてる。
その二つが重なれば――必ず新しい野球が生まれる」
オレはページを閉じ、そっと胸に抱いた。
「……絶対に、無駄にしません。
二人の想いを、グラウンドで証明します」
監督は満足げに頷いたが、ふとオレは顔を上げた。
「監督……この“虎の巻”、実はピッチャー以外にも色んなポジションのことが書いてあるんです。
だから、オレだけじゃなくてーーチームのみんなにも伝えたいです」
その言葉に、監督の目が少しだけ見開かれた。
「……そうか。そういう考え方ができるようになったか」
柔らかく笑って、監督は頷いた。
「いいだろう。ならこの本を参考に、他のメンバーにも合わせた練習メニューを組もう。
特に三輪。お前はほぼ素人だから、こういう基礎理論は役に立つはずだ」
名前を呼ばれた三輪が、反射的に顔を上げる。
「頑張ったら、ご飯増えるかな?」
監督が思わず頭を抱えた。
「……まあ、かまわんが……ほどほどにな?」
「やった!」
三輪が小さくガッツポーズをした。
その横でユーリが布団の中から声を上げた。
「……ふふっ、三輪らしいや。……でも、ボクも負けてられないね」
ようやく顔を出したユーリの頬には、まだ少し涙の跡が残っている。
けれどその瞳は、確かに前を向いていた。
後日ーー
「最初の練習試合の相手が決まった。
私立『神威岬高校』だ。二週間後だぞ」
一瞬、時間が止まった。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
神威岬ーー
北海道の頂点に立つ、あの強豪。
そして、“アイツ”がいる学校。
ざわめく心を押さえ込みながら、オレは拳を握りめた。
この試合が、オレたちの運命を大きく動かすことになるとはーー
まだ、誰も知らなかった。




