第9話 紅白戦 そうだ……この人たちは①
誰もが諦めかけていた。
それでも、誰かひとりが“前を向く”だけでチームは少しだけ動き出す。
これは、そんな一瞬の物語。
三回表。
スコアボードには、容赦のない数字「0ー6」。
ベンチに座る一年生たちは、まるで通夜の席だった。
誰も声を出さない。
誰かを責めることもできない。
ただ、圧倒的な格差を前に、目を伏せるしかなかった。
子猫が熊に挑む。
それが、今のオレたちを一番正確に表す比喩だった。
(……これが、俺たちの“全力”なのか)
勝利のイメージすら浮かばない。
それでもーーせめて一矢報いたい。
その想いだけが、胸を焼いていた。
マウンドの上に立つのは、リュウジ先輩。
二年生のエース。
グラウンドの支配者。
一球ごとに空気が震え、
球筋は雷鳴のように鋭く、
ミットに収まる音はまるで銃声だった。
その瞬間、グラウンドが小さく見える。
あまりの存在感に、ただ見上げることしかできなかった。
(……あの人の投球、完璧すぎる。だけどーー)
オレは息を止めて見つめた。
そのフォームの中に、ほんの一瞬の“揺らぎ”を見つける。
(……力、抜いてる)
リュウジ先輩は、明らかに一年生相手に手を抜いている。
さっき、ほぼ初心者の三輪でさえ当てていた。
ーーアウトにはなったけど。
ほんのわずか、コンマ一秒。
けれど、そこにしかオレたちの“勝機”はなかった。
(リュウジ先輩……少し、気が緩んでるのか?)
隙を突けるとしたら、今しかない。
「ユーリ、次はお前だ。頼む」
「む、ムリだよぅ……ボクなんかが、あの先輩の球を打てるわけ……」
震えるユーリの肩に、オレは静かに手を置いた。
「これまでの打席から見て、リュウジ先輩はオレたちを“甘く見てる”。
だから……狙える。
甘い球が来たら、全力で二塁まで走れ」
ユーリは一瞬、顔を上げた。
唇を噛みしめたまま、何かを飲み込むように頷く。
「……そこまでタイチが言うなら、やってみるよ」
そして、ゆっくりとーー
ユーリはバットを握りしめ、バッターボックスへと歩き出した。
その背中は、小さくて、細い。
けれど、確かに前へ進んでいた。
春風がグラウンドを抜けていく。
スパイクの音がコツ、コツと響くたび、
その一歩に「怖い」と「でもやる」が同居していた。
ベンチに残るオレの手にも、自然と力が入る。
(大丈夫だ、ユーリ。お前ならやれる)
心の中で呟いた瞬間、
どこからか一陣の風が吹き抜けた。
まるでーー
じいちゃんが背中を押してくれたみたいに。
その瞬間、予感は的中した。
リュウジ先輩が放った一球。
いつもより、わずかに球が高い。
たったそれだけの“隙”を、ユーリは見逃さなかった。
ーーカキィンッ!!
乾いた音が、春の空を裂いた。
白球は左中間を抜け、芝の上を滑るように転がっていく。
その軌跡は、まるで光の線だった。
「走れ、ユーリ!」
ベンチの声が重なる。
ユーリは軽やかに一塁を蹴り、迷いなく二塁へ。
スライディング!
砂煙が舞い、スパイク跡がきらりと光る。
「セーフ!!」
塁審の手が横に広がった瞬間、ベンチが爆発した。
叫び声でも、笑いでもない。
それは、全員の心が“やれる”と信じた音だった。
胸が熱くなる。
指先が震える。
(やった……! ユーリ、ナイスバッティング!)
目の奥が、じんと熱くなった。
そして、オレの打順が回ってくる。
最初の打席では何もできなかった。
ただ速さに圧倒され、バットを振ることすらできなかった。
けど今は違う。
仲間が繋いだチャンス。
この一打で、必ず“風”を吹かせてみせる。
マウンドのリュウジ先輩が、わずかに息を吐く。
強者の余裕。けれどそのこめかみに、一筋の汗。
(外角で様子を見る……いや、違う)
直感が告げる。
あの人は攻めるタイプ。
だったらーー次もインコースだ。
構える。
呼吸を止める。
風が止まる。
打つ瞬間、腕を畳んで振り抜いた。
ーーカシュッ!!
乾いた金属音が響く。
白球がレフト線を切り裂き、一直線に転がっていく。
「ユーリ、行けぇぇぇぇっ!!」
ベンチが沸いた。
全力で走る小さな背中。
塁を回るたび、砂が舞い上がる。
ホームイン!
スコアボードの“0”が、ゆっくりと“1”に変わった。
一年ベンチが歓声に包まれる。
喜びが爆発する。
オレは握った拳を見つめながら、胸の奥で呟いた。
(……これが、チームで掴む一点か)
だが、そのとき。
キャッチャーマスクを外したヒカル先輩が、
ゆっくりとリュウジ先輩のもとへ歩み寄った。
声は聞こえない。
けれど、その口元は確かにこう動いた。
ーー(もう“本気”を出していい)
静まり返るグラウンド。
空気が、凍りつく。
“風”が吹いたあとの、静寂。
次の瞬間、
戦いは本当の意味で、始まろうとしていた。
「怖い」まま立ち向かう勇気。
それは強さじゃなく、信じる心の証。
この一打が、彼らにとって“風のはじまり”となる。




