ある「水恐怖症」
世の中には様々な恐怖症が存在するが、その中に「水恐怖症」というものがあるをご存じだろうか。
この恐怖症はその名のとおり水が怖く、海やプールに入ることはもちろん、水を張った洗面器に顔を付けることにすら恐怖を感じるという。
原因としては、幼少期にお風呂などの水場で溺れたりして、それがトラウマとなり、水に過大な恐怖を抱くようになってしまうケースが多いようだ。
私の知人(仮にOとする)も水を極度に怖がった。
知り合って間もない頃、知人同士でプールに行くという機会があったが欠席。
海水浴にももちろん来なかった。
じゃあ、山に行こうと言うと出席はしたものの、川遊びでは絶対に川に入らず、水を掛けようとしたら全力で逃げていた。
「お前はグレムリンか」と、別の知人が笑いながらからかったものだ。
ちなみにこの「グレムリン」とは、とある洋画に登場する奇妙な生物である。
作中では「モグワイ」と呼ばれ、見た目は可愛いし利口だが、飼育する時に3つの制約があり、その中には「水をかけたり、濡らしてはいけない」というものがあった(ちなみにこれを破ると、モグワイは分裂・増殖する)。
さすがにOはそうした怪生物ではないが、過剰なまでに水に怯えるのが不思議だった。
しかも、普通に水を飲むのも抵抗があるようで、飲食店ではお冷も断るし、水分は自前の水筒からしか飲まない。
そんなある日のこと。
私とOが外で遊んでいた際、空が曇り始めた。
天気予報では夕立が近付いている予報だった。
それに知ったOは青ざめた顔になり、
「降り出す前に早く帰ろう」
と、私を急かし始めた。
そこそこ遊べたし、土砂降りに遭ってびしょ濡れになるのも厄介だ。
私はOと共に帰路についた。
が、空気が湿っぽくなり、大雨前の特有の雰囲気になったので、私達は足を速めた。
しかし、私の下宿するアパート付近でやはり雨が降り始めた。
私は助かったが、家が離れていたOは尋常ではないほどに怯え始めた。
その様子にさずがにただならないものを感じたが、放っておくのも寝覚めが悪い。
私はOを連れて下宿先に戻った。
ずぶ濡れまでにはいかなかったが、二人共、服は濡れてしまっていたので、私は風呂を沸かし、Oに先に入るよう勧めた。
が、Oは遠慮しているのか、かたくなに風呂に入ろうとしない。
そのままだと風邪をひくかもしれないので、私は少し強くOに風呂を勧めた。
すると、Oは激しく首を横に振って「どうか勘弁して欲しい」と哀願する。
そこまでいくと私も強く出られない。
Oにはドライヤーを渡し、自分は風呂に入って温まった。
そうして風呂から上がると、Oは降り続ける雨が見えないようにカーテンを閉め切った部屋の中で、ドライヤーで暖を取っていた。
水恐怖症もここまでくると異常である。
しかし、その見るも哀れな様子に可哀そうになった私は、温かいコーヒーを煎れて勧めた。
Oは最初躊躇っていたが、おずおずとコーヒーを飲み始める。
その時、私は何気なく、
「同じ液体でも、コーヒーは大丈夫で水はダメなんだ?」
と尋ねた。
すると、Oは少し無言になった後、頷いた。
「…コーヒーとかマグカップは透けて見えないから」
その言葉に首をひねる私。
不思議そうな私に、Oはポツリと言った。
「水とかガラスのコップってさ…透明だし、見えちゃうんだよね」
「見えるって…何が?」
そう尋ねる私に、Oは小さく言った。
「死んだ人の顔がびっしり。ああいうの、マジでキツイよ」
俗に「霊は水辺に集う」という。
そのOの話を聞いてから、浴槽に蠢く死者の顔の群れを想像し、私はしばらくシャワーを使うようにした。