怖いんだ
ハロンが来てから半年ほどの時が過ぎていた。最初はハロンを追い出したくて仕方なかったが、彼と毎日を過ごしていく中でアエラは少しづつ彼を受け入れていた。父が出ていき8年の時が流れ孤独にも慣れていたはずだった。しかし突然現れたハロンとの穏やかな日々が彼女の冷たい心を溶かしていった。
最近は剣の手合わせで、みるみると男が上達していき負けるようになってきた。
「ちくしょー、今のはなしだ!」
負けるのが悔しくて決まってアエラはもう一度と戦えと言う。
「うん、何回でも付き合うよ」
そんなアエラを見てハロンは朗らかに何処か愛おしそうに笑って答えた。
また、日課の本読みも続いていた。ハロンから文字の読み方を教わり、アエラは一人でも頑張れば本を読めるようになってきていた。しかしアエラが1人で読もうとするとハロンは不満げな顔をして一緒に読みたいと言った。
「君に毎晩本を読み、感想を語り合う。この時間が僕にとったら何物にも代えがたい大切な時間なんだ」
ハロンは真剣な目でアエラを見つめそう言った。
彼が来たばかりの頃のアエラであれば、鬱陶しいとはねのけただろう。けれど今は違う。アエラもまたこの時間が幸せだった。彼の声で読まれる物語が何だか好きだったからだ。
ハロンにアエラと本読む時間が大切だと伝えられてから、彼との距離感にアエラは悩むようになってきていた。
本を読む時間に彼はアエラを愛おしそうに見つめることが増えた。ハロンの目はアエラを捕らえ離さかった。そんなハロンの目を嬉しいと思うと同時に居心地の悪さも感じていた。
(このままだとまたあの時みたいに傷つくかもしれない。それだけは嫌だ)
ハロンのことを好ましいと思い、彼から向けられる愛情も嬉しいと感じている。しかし彼女にはあと一歩ハロンとの関係を踏み出せない理由があった。
――
アエラは17歳の時に町で出会った男に初めてを捧げていた。男は船人で1ヵ月かに1度大きな船に乗り町に買付に来ていた。
ある日アエラが町を歩いていたら日焼けした大柄な赤毛の船人に道を尋ねられ案内した。それがエイダンとの出会いだった。
それからアエラが町へ行くと声をかけられるようになった。最初はエイダンを警戒して無礼な態度を取ることもあった。しかし、そんなアエラ冷たい対応にも彼はめげずに何度も話しかけてくれた。次第に溌剌とした太陽の様なエイダンにアエラは惹かれていった。
アエラは寂しかったのだ。1人孤独に生きていく人生ではなく、誰かと共に人生を歩みたかった。交流を深めアエラは遂にエイダンに体を許した。
あの頃は幸せだった。それから何度かエイダンと愛を育んだ。しかしそれも長くは続かなかった。
ある時エイダンを町で偶然見かけアエラは声をかけようとした。
「エイ…」
アエラは最後まで彼の名前を呼べなかった。
彼女が呼びかけようとしていた男の胸にしなだれかかる女がいたからだ。艶やかな体つきで豊満な胸をエイダンに押し付けていた。誰が見てもエイダンと女は普通の仲には見えなかった。
「最近遊んでくれないじゃん。もしかしてあの森の女にはまったの?」
女が妖しく微笑み、アエラについてエイダンに尋ねていた。
「あんなの遊びだよ」
エイダンはフッと鼻で笑いながらそう言い女と深いキスをした。
アエラは目に涙を溜め、一心不乱に家へと帰った。
(もう二度と男なんか信用するもんか!)
それからアエラはエイダンを徹底的に避けた。エイダンは普段なら商人の店や酒場にしか行かないくせに、一時期なぜだかグレルの店に姿を見せるようになった。そのためしばらくアエラは店に近づけなかった。
久しぶりにグレルの店に行けば。エイダンはこの町での買付作業が終わり、別の港町に行くことになったとグレルから聞いた。
「アエラ、実は君にエイダンから伝言を頼まれたんだけど」
グレルはアエラの様子を伺いながら言いづらそうに眉尻を下げる。
「聞きたくない」
アエラがそう切り捨てる
「わかった、聞きたくなったらいつでも言ってね」
グレルはアエラを気遣い声をかけた。
エイダンとは短い恋だった。本当に愛していたのか今ではわからない。しかしエイダンの事があって以来アエラは誰かに心を許すことができなくなっていた。
(1人でいる方が誰にも心を傷つけられず平穏でいられる)
そう思い1人で生きていくと心に決めていた時にハロンが彼女の前に現れた。
アエラはハロンに本を読んでもらうのを避け始めていた。
いつもの様にハロンが本を読んでくれた時、アエラは日中の疲れから少しの間眠ってしまった。唇に少し湿った柔らかいものが触れた気がした。ゆっくりと目を開くと、丹精なハロンの顔が5センチほどの距離にありアエラは驚いて彼に問いただす。
「ハロンお前、あたしが寝てる時になにかした?」
「アエラ驚かせるつもりはなかったんだ。寝息が聞こえて顔を覗き込んだら丁度君が目を覚ましたんだ」
ハロンは謝り何もしていないと言った。いまいち彼を信用しきれず、その日は中断してもう寝ると伝えた。
(もうあの時間は辞めたほうがいいかもしれない)
アエラは鈍感なフリをして気づかないようにをしていたが、もう何度も前から、二人のあの時間に甘い空気が流れるのを感じていた。心地良いハロンとの関係が男女の仲になるのが怖かった。もしハロンが彼女の元を去ってしまったら。また誰かに裏切られたら耐えられる自信がアエラにはなかった。
ハロンとの大切な日々を失うのが怖かった。