裏坂十三(サーティー)
神戸にある某大学は手のほどこしようがない終末学生が、抱えきれないほど跋扈していた。大学二回生である六郎もその終末学生のひとりである。
単位取得の低迷、体内水分を揮発させるほど大量のアルコールをあおり、酩酊する頭で講義に出ればノートは何故か毎回グラビア雑誌に変わっている。おかげで講義が始まるたびに彼の性欲はごうっと燃え盛り、女体研究には一切の余念なく打ち込むことができた。その滾る色欲の情熱を買われ、もっとも美しい乳の形を数学的に研究する最前線を往く孤高のクラブ、神乳前線に入会するに至った。クラブにおいての六朗は入会して間もなく性欲によって飛躍した頭脳を遺憾無く発揮し、弾けるシナプスで神乳前線円卓十三席次の末席に食い込んだ他に類を見ない流星である。大学構内では軽蔑と同時に畏敬の念を込められた眼差しを向けられ、そして讃える者は一人もいなかった。
底冷えする十二月。六朗は今日ももうもうとお気に入りのハイライトを吹かして大学の裏門に通じる長い長い裏坂を上っていた。
「まったく、こんなに寒くては見える乳もない」
悪態を吐いて、今さら手遅れの単位を取りに心理学の講義を受けに向かっていた。蛇のようにうねる裏坂を半分ほど上れば、竹で作られた吸い殻入れが置かれたベンチが見える。「こんなおあつらい向きのベンチに灰皿がないとはなんて怠慢な大学だ」と叫んだ神乳前線第一席次の野々村先輩によってこさえられた逸品である。彼はこの裏坂を通るたび、講義に遅刻してようが悪辣准教授本堂の呼び出しがあろうが決まって休息を取った。
そしてそんな彼と同じ考えを持ったド腐れ学生のひとり、二回生の尾川も座っていた。
「尾川」
六朗の声に尾川は顔の周りに吹き出した煙草の煙を固める。
「六朗氏」
いつもハイカラなニット帽を目が隠れるまで深く被る同志の隣にドスっと腰を据える。
「そんなに深く被ってたらイイ乳も見逃すぜ」
「これは僕の熱い視線を隠すためのいわばエチケットさ。僕に見つめられた乳は決まってその果実を大きくしてしまうからね。問答無用で巨乳にさせるのは男のすることじゃない」
「恥ずかしいだけだろ。ヘタレめ」
「猥褻紳士と言ってくれる?」
ともあれ互いの生存を確認できたのはいいことだと言って、尾川は珍しく六朗に持っていた缶コーヒーをあげた。
「気前がいいじゃないか。何かあったか?」
煙草を吹かしながら尾川は神妙な声を出す。
「神乳前線崩壊の危機だ。クリスマスイブが僕たちに牙を向いた」
その言葉を聞いて六朗はハッとした。そう、世はすっかりクリスマスシーズン。今日はにっくきクリスマスイブだ。人工電飾がこれでもかとキラキラと輝き、わざとらしい煌めきが街を綺麗に照らす。その綺麗さのなんと嫌ったらしいことか。六朗はクリスマスイブを心底軽蔑しており、唾を吐きかけていた。何度も唾を吐き続けたせいで喉はカラカラ。しかし人工電飾のくせしてその輝きが翳ることは一度もなかった。無念極まる暗闇の胸の奥には、一抹の羨望が見え隠れした。
「クリスマスイブがなんだ。そんなモノに振り回されているようじゃあ到底この世界を生きていけんぞ」
「僕も同感だ。嫌いなんだよ。イブなんかに支配されてる人間は。だけどクラブ内のあちこちでクリスマスイブに追い回されてる同志が多い。まるで何かに脅されてるようで」
尾川の妄想に六朗は鼻で笑った。
「馬鹿か」
しかし、尾川によると神乳前線のメンバーたちはこぞって女性との予定を立てようと躍起になってるらしい。一体何が彼らの身に起こっているのか。犬も食わないそんなことはどうでもよかった。
「ところで彼女とはどうなんだ?」
六朗の眉がピクリと動いた。六朗の脳裏に一人の女の嘲笑う顔が浮かんだ。
「どうもこうもない。お前はホントにそういう詮索が好きだな」
「僕は疑わずにはいられないタチなんだ。それにこんな時期になればなおさら」
「医者と患者よりも薄い関係だ」
「どうだろう。君だってクリスマスイブに屈しないとは限らない。幹部たちだって今ではひどい有り様だよ」
「馬鹿馬鹿しい」
六朗はすっと立ち上がる。
「せいぜいクリスマスイブとやらとよろしくしてな」
そう吐き捨てるように言って、彼は坂を上がった。
○
しばらく歩いても大学の建物は姿を見せない。背の高い枯葉の木々に遮られて、ごおっと冬の寒風が容赦なく肌に吹きつける。
「この程度で俺を大学から遠ざけようたってそうはいかん」
冷たい大地を力みながら踏みしめて歩いていると、後ろから柔らかい声が届いた。
「先輩先輩、大学に居場所がない可哀想な六朗先輩」
小馬鹿にした言葉を嬉々と放つそいつは、事あるごとに六朗を貶す低俗な趣味を持った哀れな一回生、七瀬暮奈だった。
「こんななが〜い坂を上るなんて先輩は相変わらずですね」
六朗は不機嫌に眉を顰めた。
「それはお前も同じだろうが」
「私は人混みが嫌いなんですよ」
この裏坂は大学の裏門に通じている。しかしその途方もない長さに嫌気が差す学生たちの多くは正門を通るため、正門はいつもUSJ並みの人集りを形成していた。
「俺だってそうだ」
「先輩は自分の存在が恥ずかしいだけでしょ」
「生意気言うな」
七瀬とはしばしばこの坂で出会う。会うたびに男の心を凍てつかせる鋭い物言いは、おそらく六郎でなくば疲弊困憊になり、たちまち立っていられなくなることだろう。七瀬とまともな会話ができるのは六郎の持つ大きいか小さいかわからない不透明な器の成せる業であり、そして彼ほどの男であっても傷つくものは傷ついた。
「ところでいつまでくだらないクラブにいるつもりですか?」
「くだらないとは言ってくれるな。そのデカい目はふし穴か?」
七瀬の黒くクリリとした澄んだ目がじっと六朗を捉える。
「大学で腫れ物扱いされてるの知らないんですか。隣人が乳に狂った集団とか、しょーみキツイです」
彼女はブレイクダンスサークルの一員で、六朗たちクラブの隣に部室があった。何かといざこざがあった荒れた時期はあったが、今では互いに距離を置きできるだけ関わり合いにならないよう不可侵条約が締結された。しかし、ブレイクダンスサークルというだけあって練習着、本番着にいたるまで気合いの入ってる女性部員の存在によって、乳に狂った精鋭がさらに磨きをかけるため、条約は意味を成していなかった。
六郎は視線を落として炯々(けいけい)に怪しく光る眼で七瀬の胸を見た。
「そんな戯言を吐く暇があったらその貧相な胸を育てたらどうだ」
「あんな脂肪の塊、私には無用なものです。踊る時に邪魔だし、男子の視線も邪魔です。特に先輩みたいに胸しか見ない失明者は寄りつかないので万々歳です」
「口数が増えてるぞ。気にしてるなら素直にそう言え。その方がかわいげもあるってもんだ」
「私はすでに可愛いので、これ以上は身に余ります。あと気にしてません。そんなことも見抜けないから女も寄りつかないんですよ」
「違う。俺が寄せつけていないんだ。適当言うな」
「安い見栄ですね。食パン以下です」
「そいつはありがたい。食パンは嫌いなんだ」
六朗がそう言うと、七瀬はおもむろにメモ帳を取り出してペンを走らせた。六朗と対峙する時、彼女はこうして突然メモをとることが多かった。彼女に似合わずマメである。もやし程度の謎だが、六郎は不思議に思った。
「前から気になっていたが、そいつは何を書いてる?」
「先輩のような人類種の亜種の生態を記録しているんです。私は人類学を専攻する予定なので」
思わず、六朗は白い冷気に染まった感嘆の息を吐いた。
「確かに俺みたいな傑物は希少だ。そういった心掛けは大事だぞ」
「ありがとございます」
「ちなみに何て書いた?」
六朗が訊ねると、頬を赤らめる七瀬はメモ帳で口元を隠した。
「それは、まだ秘密です」
小さな声は恥ずかしがってるいるように聞こえた。六朗の胸の奥にむずむずと妙な痒みが走る。
「お前がこの前の文化祭でサークルで着るチームTシャツにコーラをぶちまけた件、バラしてもいいんだぞ? その処分を俺たちクラブに押し付けてきたことも」
「……わかりましまたよ」
観念した彼女はため息のあと口を開いた。
「女の子とまともな関係を築けない男子はその劣等感ゆえに現実と乖離する願望の質量によって押し潰され、女の象徴たる胸に誇大な理想を抱く、現代が抱える闇である」
「貸せ。そのメモ燃やしてやる」
喧嘩を売られて黙ってる六朗ではない。すぐに七瀬のメモを取り上げようとするが、貧相な体を持つせいか七瀬は軽やかにかわす。煙草でどろどろになった肺のせいで六朗はすぐに息があがって諦めた。
そして、しばらく沈黙が続いた。
冷たい風が吹き、彼女の短く切り揃えられた黒い髪が静かに靡く。白い息が混ざりながら耳障りなことを七瀬は言った。
「もうクリスマスですね」
「くだらん話題を言うな」
七瀬は口の端をあげて、得意そうに微笑んだ。
「どうしたんですか? クリスマスなんかに足元を掬われる先輩ではないでしょ?」
「あたりまえだ。単なる輸入文化ごときで誇りを忘れる俺ではない」
「それはそれはご立派なことで」
六郎は七瀬を訝しんだ。彼女の余裕のある態度に違和感を覚えた。いつだって彼女が冷静さと他人を見下す矮小な性根を忘れたことはない。至って今日はいつも通り。だが彼女を形どる表情に些細なほつれが垣間見えた。
「なんですか?」
「いや、今日はイブだし、予定でもあるんじゃないか?」
「はあ……別にありますけど」
七瀬のような可憐な皮を被った毒物を誘う頭のおかしい男がいることに六郎は驚いた。
「ふん、お前もクリスマスに当てられた口か」
鼻を鳴らした六郎の言葉に、七瀬はムッとした。
「私は先輩と違って真っ当な人間ですから。先輩みたいな女の子一人誘えないヘタレはぼっちでケンタッキーでも食べててください」
足早に去って行く彼女を助けるように追い風が吹いた。ぐんぐんと離れる二人の距離。彼女の背中が遠くになって行くたびに、六郎は言い知れない淋しさを感じた。自分が淋しいと感じたことに唾を吐いた。そしてついに七瀬の背中がぼんやりと薄れて消えた時、ぽつりと口からがこぼれる。
「ケンタッキーは美味いだろ」
七瀬の姿はもう見えなくなった。
○
長い坂を上り終えた頃には、三限目の講義が始まろうとしていた。
構内にある広場は大学生たちがたむろする枯れた芝生が広がっている。いつもは人で溢れ返っている広場には人影が一つしかなかった。その影は巨人のように大きく、鏡餅が親戚かのような体型をした豪傑の野々村先輩だった。
「六郎ではござらぬか」
野々村先輩がこういった言葉遣いを使う時、決まって人生最高潮と断頭台で叫んで散って行くような桜のような情緒であることが多かった。野々村先輩の顔を見ると、晴々とした彼に似つかわしくない顔をしていた。
「野々村さん。何してるんですか? こんなさもしいところで」
「俺は今、初めて味わった生の実感ってやつを噛み締めているんだよ」
ニヤニヤと何やら勝ち誇った笑みが不快で、破り捨ててふんずけてやりたかった。
「ずっと死に体でしたもんね」
「なにお前? 今日薔薇なの?」
「俺の棘は標準装備です。それで何があったんですか?」
「おいおい、今宵はクリスマスイブだぞ。何かない方があり得ない」
「さっさと言え」
野々村先輩はやれやれと言って、ポケットから煙草を取り出し火をつけた。
「実は俺にもついに転機がやって来てな。女性をデートに誘えた。相手は七瀬だ」
突然、眩暈がした。
「本気で言ってんのか」
「おい敬語使え」
気が動転する六郎は開いた口が塞がらなかった。野々村先輩は六郎の中で数少ない尊敬という名の軽蔑に値する人物だった。神乳前線第一席次、その言葉の重みを同じクラブにいた六郎は理解していた。彼の眼力はあらゆる服の上からでもその一切を看破する。サイズ、張り、形、通りすがる女性の乳を一瞬で紙に書き起こすことができる。1日に覚えられる乳の数は裕に千を超え、そのエスキース力は何故芸大にいかないのかと疑問に思うほど卓越していた。
しかし、いつの時代も人に留まらない才覚は周囲の人間を畏怖させる。当然、その中には数多の女性が含まれており、彼は天から与えられた才能に文句を言わず、己に恋人ができない運命を喜んで受け入れては、理想の乳を求めてひたすら邁進していた。「これが俺の生きる道」と彼は現状に満足していた、はずだった。その点では六郎を凌駕する歴とした大人だったのだ。
それが今ではどうだろう。
だらしくなく鼻の下を伸ばし、手にした幸福にどっぷり浸かって時間が過ぎるのを嬉々と楽しんでいる。幼稚で矮小な精神が彼の毛穴から全身に吹き出し、一途で純粋な神乳への無垢な理想は見る影もない。一体どんな卑劣な手を使い、四回生だというのに一回生の瑞々(みずみず)しい果実を剛毛に生い茂った手中に収めたのか。
有り体に言って見るに堪えない醜態ぶりである。
「彼女が四限終わりならと言っていてな。それまでここで暇つぶしだ。神乳前線はもう終わりだしな」
「一体どういうことです」
鋭い目つきの六郎に、野々村先輩は穏やかに答えた。
「そうか。お前最近クラブに顔を出してなかったもんな」
野々村先輩は静かに話した。
なんでも、神乳前線の内部で謀反が起きたらしい。
第二席次から第十席次の幹部たちが一斉に彼女を作った。それまで決して表にバレないよう隠密に活動し、二日前にクラブ内で大仰に宣言したそうだ。残りの幹部は戦々恐々とし、自分たち同様こいつらに彼女なんてできるはずないとタカを括っていた彼らの衝撃ぶりは想像に難くない。心底馬鹿にされた彼らは苦渋の涙を枯らすほど流し、仕舞いには血を流した。そして躍起になった残りの幹部は慣れないナンパを行い、それから連絡がつかなくなったという。そんな神乳前線の崩壊の機を見逃さない集団がいた。名を学生統括執行部。構内の治安と学生の理性である彼らは神乳前線と長い抗争か絶え間なく、ようやく見せた隙を突いてクラブを取り押さえ、クラブは呆気なく潰えた。野々村先輩の予想では学生統括執行部による謀略があると睨んでおり、幹部たちに女が出来るよう援護したと考えていた。固いと思われたクラブの結束はクッキーのように脆かった。残りのメンバーも散り散りになり、一人取り残された野々村先輩は思った。
「俺、何やってたんだろ」
下劣な悟りを開いた彼は前々から裏坂で見かけていた七瀬に声をかけた。
「ようやく俺もまっとうな人生を始められる。聖夜と意気込んでふんどしを締めた甲斐もあったってもんだ」
六郎は曇天に広がる暗い空を見上げた。そして過去にクラブの飲み比べの勝負で敗北した野々村先輩がその代償でふんどしを締めて以降、妙にしっくりくると言ってから愛用する純白のふんどしが脳裏をよぎり、思わず唾を吐きたくなった。そもそも人生手遅れに手遅れを重ねた手に負えない終末学生の童貞が、今さら何を始めるというのか。即打ち切りにすべきだし連載するに値しない人生だ。誰得だろう。
六郎はほとほと呆れては、野々村先輩に失望した。
そんな六郎を野々村先輩は哀れんだ。そして彼の冷え切った手に煙草を一本恵んだ。
「お前もいい加減、その重たい荷物を下ろせ。曲がりなりにも俺はお前たちの先輩。後輩の面倒を見るのは世界が定めた運命と言える。俺たちはこの世に最高の乳、神乳を作り上げるためにひたすら戦ってきた。乳というものに青春時代の全てを振り回され、そして台無しにされた。そのツケを至上の乳で清算してもらうのは当然のことだ。少なくとも俺はそう信じて来た。それは讃えるものは誰一人いない、というか女性陣からは非難轟々の嵐。大学まで来て公然猥褻とかまじキモいと言われて失踪した立花の背中は今でも忘れられない。あんな惨劇、シェイクスピアならすぐに舞台にするだろう。それでも俺たちは走ってきた。だけどな六郎……」
真っ白な雪がちらつき、野々村先輩は立ち上がってポケットに手を突っ込んだ。
「別に、彼女を作ったっていいんだぜ」
その微笑みは暗闇の中を彷徨い、ようやく答えを得た賢者のようであった。六郎はトイレに向かうらしき野々村先輩の背中を見て、屈辱的な敗北感に拳を握った。そして彼からもらった煙草に火をつける。
「見損なったよ……野々村先輩」
六郎は一人佇む。吹き荒れる寒風の風切り音が痛んだ耳にじんわり沁みた。心の底が冷えてる証拠だった。戦友といえど、所詮人の子。クリスマスイブに負けることを責めるほど六郎も鬼ではない。野々村先輩の心変わりは周りを安堵させるだろう。ようやく素直になったねと自分たちのオヌヌメデートスポットだとか彼女と過ごす時間の使い方など意気揚々と指南して、仕舞いには今後の華々しい未来に想いを馳せて乾杯したりするのだろう。素晴らしいことだ。だが釈然としない憤りが消えない。
ジリジリと燃える煙草に一粒の粉雪が落ちた。クリスマスイブが己の人生に多大な影響をもたらすことが我慢ならなかった。はっきり言って迷惑だし、ずかずかと土足で我が文化圏に踏み込んでくる礼儀知らずな不調法者を、どうして快く迎え入れてはならないのだろう。六朗の築き上げてきた意志は決してそんな軟弱なものではない。そうであってはならないのだ。鼻の奥にツンとした痛みが広がる。竜の息吹すら吐けそうなほど、喉の奥が熱かった。
六朗の背後から足音が聞こえる。ゆっくり振り返ると、ラジカセを担いだ尾川が歩いて来ていた。
「何やってんだ?」
尾川が六朗の顔を見ると、彼の目尻が赤らんでいるように見えた。
「お前こそそのラジカセはなんだ?」
「クラブに置いてたヤツだよ。学生統括執行部に持って行かれる前に回収したんだ。僕の愛用のラジカセだからね」
尾川はラジカセを芝生に置いて、ポケットからスマホを取り出す。このラジカセはBluetooth接続ができる高性能ラジカセなのだ。懐かしそうにラジカセをいじる尾川を見下ろしていると、少し離れた新サークル棟から二十人ほどの集団がぞろぞろと出てきた。一人の背の高い爽やかな男が大きな声をあげた。
「それじゃあ今から居酒屋に行くぞーー!」
「クリパやクリパっ!」
見たことのある顔ぶれはブレイクダンスサークルの面々らしく、その中にはもちろん女子もいた。過去に神乳前線でリストアップした女子もいた。きゃっきゃっと騒ぎ、正門に向かって駅前の居酒屋へと向かっていく。距離はさほどないが、誰一人として六郎と尾川に気付いた者はいなかった。
「……もうほとんど学生も帰ってるし、爆音で流しても問題ないだろ」
尾川の瞳は暗く澱んでいるようであった。彼の身のうちにある黒い炎がごおっと燃え盛るのを六郎はビンビンに感じた。そうだ、何故見落としていた。ここにもまだ六郎と同じくクリスマスイブに屈しない気高き戦士がいたことを。
尾川はスマホを操作して音楽アプリを開く。尾川が開いたプレイリストの名前には『終止符』とあった。
「なあ六郎……僕たちにとって今日はなんだ?」
「世間的にはクリスマスイブで今日は金曜日だ」
「そうだな。そうなんだろう。そして男女があからさまに遊ぶパーティー日和であり、神乳前線に至っては誇りを忘れさって祝勝気分だ」
尾川は静かに目を伏せた。固くなった再生ボタンを強く押す。するとラジカセから音楽が流れて、ステレオな音質で刻まれるビートに脳が揺さぶられた。
「だったら盛大に祝ってやろうじゃないか。今宵の僕はサンタクロース。ぽわぽわな彼らにプレゼントを贈るんだ。ただし……」
ドラムとベースの重低音が爆音で構内に響く。雪がちらつく冬空の下で8ビートのリズムで流れる。ドープなミュージックに歌詞はついてない。
「ちっとばかしディープに過ぎるプレゼントだ」
その音楽に歌詞をつけるのは尾川の魂だ。
「hey yo!!! 今宵はクリスマスイブ! 桃色神秘! 浮き足立つヘタレにかます鮮烈なアンサー! 気合い入れて臨んだ今日、異教に振り回されあえなく撃沈、意気消沈、足りてないのはゼラチン? 恋人はもう始まるぜ倦怠期、忘れてえなら食ってなケンタッキー!」
尾川はそうして叫びながらラジカセを肩に担いで正門の方に向かって歩き出した。冷たく、けれど猛々(たけだけ)しい彼の背中を見つめる。
リズムに合わせて炸裂した言葉に六郎は感極まった。何を野々村先輩や七瀬相手に気圧されていたんだろう。あそこに一人の男がいる。六郎以外誰も聞いていないしんしんと骨身まで冷えるこの時にあって、まだ戦意を失っていない。こいつを一人で往かせて、何が神乳前線円卓第十三席次だろう。
六郎はビートに耳を傾けて、冷えた空気をたっぷり吸い込んだ。そして、尾川のすぐ隣りまで小走りで駆ける。尾川の前に回り込んで、衝動のまま頭を揺さぶった。
「潰えた神乳前線、とうとう牙を剥いた諸悪の根源、美貌に騙されるオワコン童貞、イブに誘われて行く女性は渋々、泡と消えるワイフにダイブする安いラブ! 同志は泣いて叫ぶぜバブゥ!」
冷え切った白いキャンパスのなかで、二人の魂だけが響く。
尾川がつぶらな瞳を大きく開いた。
「六朗……」
「お前一人にいいカッコさせるわけないだろ」
「君ってやつは……でもこの先は死地だぞ? クリスマスは容赦なんてしない」
「あいにく、イエス様には嫌われててな」
二人は互いに熱く拳を当てた。そして、爆音のビートに乗せてクリスマスに喧嘩を売った。立ちはだかる十字架に向かって迸るリリックかマシンガンのように炸裂する。正門に向かっていたブレイクダンスサークルの会員たちがぎょっとして二人を見た。六朗はその内の一人、金髪マッシュヘアのガン開かれた両目を睨みつける。
「和気藹々(わきあいあい)とさながらワイキキビーチの面持ちの諸君!これはディープなジョーク、受けてる暇はねえぜショック、とくと味わいなマンネリボーイ!」
六朗の言葉を引き継ぐように尾川が叫んだ。
「クリスマスに翻弄され焦燥に駆られる小僧、見えてないのかな?有象無象の中に屈する俯いた心。起き上がらせるために燃える下心、が丸見えだぜチェリーボーイ!」
目が血走ったヤンキーでも見たかのように困惑するブレイクダンスサークルの面々。消え入りそうな「ヤバ」という言葉が二人りの耳に微かに聞こえる。しかし二人のドンギマりの覚悟の前では春のそよ風のごとく生優しいものだった。アンチクリスマスイズムを掲げる鬼の二体を前に、ただ茫然とする。そんな中、一人の男が雄々しい一歩を前に出した。金髪マッシュヘアの肩をぐいっと引き寄せて前に出たそいつは、ブレイクダンスサークルの若きエース、早雲だった。
「僕らのクリスマスを邪魔しないでもらえるか? 冷やかしならよそでやってくれ」
早雲は一回生ながらも上回生である六郎と尾川を前に一切怯むことなく、むしろ侮蔑にこもった鋭利な眼差しを向けた。小生意気な態度に六郎はほおっと感心して何やら良い匂いのする早雲と相対する。
「冷やかしなんぞと一緒にするな。これは高尚な政治活動だ。なぜクリスマスを無事に過ごせると思っていた。俺らに捕まったことが運の尽きだ」
「こんなのが上回生なんて、いい恥晒しだ。そこを通せ。予約時間が迫ってるんだ」
「ふん、威勢がいいのは好ましいが、お前はあの長濱に振られた男だろ? 女に振られる程度の男に俺たちが負けるものか。尾川」
手を叩き、六郎の合図で尾川は次の音源を流す。先ほどよりもテンポの速いビートだった。
「俺を打ちまかすことができたらクリパとやらに洒落込みな」
「上等だ。四小節で片をつけてやる」
スクラッチが入り、六郎が先手を取った。
「長濱に振られた早雲、悲しみから逃げて飲むだろ焼酎、それよりしろよ香水の消臭、まだまだ香るぜ未練の途中!」
「他人の足、引っ張って喜ぶ矮小な性根、骨の髄まで腐ってる、今すぐ止めるぜ息の根。モテねえ現状、懲りてねえのか劣情? もうまもなくてめえのケツが炎上!」
白熱するMCバトル。早雲の思わぬ立ち回りにブレイクダンスサークルは頼もしい目で彼を見つめ、実際に頼もしかった。なにせ今日の早雲は失意の真っ只中にいた。長濱と唐突な別れを告げられ、すぐに同じ一回生の水野さんと付き合った彼は「こんなに早く鞍替えしていいのか?」と良心の呵責に苛まれて満足にクリスマスも越せないような状態だった。もちろん贅沢な悩みで相当甘やかされて育ったぼんぼんであるのは明白。それでも早雲は傷つき、水野さんはクリスマスだというのにバイトを入れた。そのせいで早雲は勝手に落ち込み、勝手に傷つき、ビールで吐くゲコなのに飲み会に連行され、そして黒の戦士と化した六朗たちに絡まれて半ばやけっぱちになっていた。
思いのほか手強い早雲に六朗は眉を顰める。感情を嘔吐するように吐き出して続ける彼は、早雲にトドメの一撃をぶちかました。
「女に振りふられ、心は雨あられ、今のハニーも宝の持ち腐れ、苦虫噛み締めなベイビー!」
焦点が合わないほど集中砲火に没頭していた六朗が顔を上げると、目の前にはなんだかムスッとした七瀬が立っていた。
「七瀬」
きょとんとする六郎。気づけば尾川や早雲の姿がなくなっていた。
目の前にいる七瀬はひどく不機嫌そうで、六郎は何がなんだかわからんかったが、さっきまでの黒き熱意はどこへやら。今すぐ家に帰りたい気分になった。
「.......他のみんなは?」
おそるおそる六郎は尋ねる。
「え? 今の見てなかったんですか?」
「なんのこと?」
いまだにわかっていない六郎に、七瀬は突然大仰に語り出した。
「それは、あまりにも一瞬だった。正門前で突如巻き起こったMCバトルを風のごとく攫っていったのは純白のふんどしに聖夜一掃としたためた熊のような巨漢であった!」
「……つまり、なんだ?」
「今日は野々村先輩と居酒屋で飲みに行く予定でしたが、私は今日原付で来てるのを忘れていたので先ほど断ったんです。そしたら急にふんどし一つになって飛び出してしまわれて」
野々村先輩にとって悪夢以外のなにものでもなかっただろう。六朗は野々村先輩を見損なったが、希望という名の奈落に突き落とされた彼に同情を禁じ得なかった。
「哀れなり野々村よ」
六朗は静かに黙祷した。願くば彼に幸福を。そしてさらなる絶望を。
「それで先輩はまた阿保なことをしてたんですね。講義室にまで響いてましたよ。さもしい声が。迷惑だと思わないんですか?」
「お前の所業に比べたら可愛いもんだ。もっと男心を理解しろ」
「これでも私は飛び切り可愛いそこそこのレディですよ。男心なんて眼中にありません。ですが……」
しんしんと降り積もる雪の中、七瀬はおもむろに足を前に出した。背の低い彼女の顔が六朗の首もとまで迫る。七瀬は首を上げて、長いまつ毛の奥から潤った瞳がまっすぐ六朗の目を見据えた。
「先輩のことなら何でも知ってます。金魚鉢みたいに底の浅い人ですから」
六朗は目を逸らしたくなった。彼女からもこもことした綿飴のような甘く耳にしたい決定的な何かを感じた。ロマンスと呼べるその予感を信じて、自分も足を踏み入れるべきかと思われた。しかしそれは六朗のくの字に曲がった東京タワーのような誇りが許さなかった。
「……そんな浅い人間に構ってるようじゃあ七瀬の器も知れたもんだ」
「わからないよりいいでしょ?」
まるで何でもお見通しですよ言わんばかりのほくそ笑んだ顔は、六朗の心に虹の橋でも架けられたような気持ちになった。彼女は生意気で、己が歳下の後輩で六朗に対していくつかの貸しがあるはずなのに見下してくる恩知らずだ。おまけに胸も小さい。それなのに毎年のクリスマスのように六朗の心を問答無用に掻き回す。
「俺のことをそう安易とわかられてたまるか」
「意地っ張りですね」
「張る意地も胸もない奴にはわからん領域だろう」
「そんな四畳半程度の領域、こっちから願い下げです」
「俺のことをわかっているなら、俺の好きな酒でも当ててみろ」
「瓶ビール!」
カマをかけて得意に笑う六朗に、食い気味で七瀬は言い切った。そして当たっていた。
「……違う。ファジーネーブルだ」
「飲んだこともないくせによく言えますね」
「本人が言うんだから信じろ」
「先輩の言葉は信用してません。でもとっさにファジーネーブルが出てきたということは、気になっているということですね」
そう言うと、七瀬は裏に達磨のシールを貼ったスマホを取り出し、音速でフリック入力をして画面を六朗の目に突き出した。
「このお店にあるので今から一人で行ってきてはどうです?」
「なんでだ。俺は絶対に行かないぞ。ファジーネーブルだってなんとも思ってない」
「今このお店、三周年記念でかなり安く飲めますよ」
「興味はないと言っただろ……ちなみにどれくらい?」
七瀬は指を1本立てて、ニッと口の端を上げた。
「それを早く言え!」
逼迫する財布事情によってここ半年居酒屋やらバーやらに顔を出せなかった六朗は小走りで正門へ向かう。
「先輩! 場所わかるんですか?」
「わかるわけないだろ。さっさと案内しろ」
六朗にそう言われた七瀬は呆れた顔をしながらもすぐに駆け寄った。
「じゃあ私にも6杯ほど奢ってくださいね」
「図々しい奴め。それにお前は原付だろ」
「今日ぐらい奢ってください。それに原付で来たという、あれは嘘です」
「ますます野々村が可哀想だ。慈悲はないのか?」
「誰のせいでクリスマスの予定が潰れたと思ってるんですか」
「それはお前が悪いだろ」
怒る六朗は、息が漏れてしまったかのように笑った。
◯
静かな微熱を帯びて遠ざかっていく二人の背中を、もうもうとタバコを吹かしながら見守る巨漢がいた。真冬だというのにふんどし一つで壁にもたれかかり、大和魂を感じさせるその眼は少年のように輝いている。
「まったく……世話の焼ける外道ばかりだ」
それはほんの2日前のことである。
爛々と潤んだ瞳で七瀬は大学で数多の不名誉をコートを羽織るように纏う野々村に毅然と向かった。
「六朗先輩とクリスマスの予定を組みたいので、協力して下さい」
七瀬がよく遠回りだというのに大学の裏坂を通っていることを野々村は知っていた。その理由も野々村ほどの観察眼を持ってすれば薄々気づくことだった。
「いいけど、勝算はあるの?」
「先輩が私に惚れてるのはわかりきっているんです。でもあの曲がり曲がって原型を失った性根が邪魔で、恥ずかしながら苦戦してます」
「聖女上座連盟の一員でもある君もお手上げとは、六朗も救いようのない男だな」
聖女上座連盟とは大学を裏から牛耳る核兵器並みに可愛い乙女たちで構成されたサークルである。彼女たちは構内に蔓延る春のない、もしくは失った、もしくは自ら無用と叫んで後悔してるような男を標的にして、あらゆる卑劣な手で骨抜きにし奴隷にして回っている。おおよそ聖女とは程遠い女たちだ。
「六朗が惚れてるなら俺が手を貸す理由はないと思うけど」
「先輩は確実にクリスマスを嫌ってます。だからこそクリスマスに彼をモノにしたいんです。それも絶対100%で」
野々村は六朗へ悲哀に満ちた祈りを捧げた。
「なかなかにえげつないことをする。六朗が可哀想だ」
野々村の言葉に七瀬は拗ねたように口を尖らせた。
「いつも私の胸を馬鹿にする仕返しです。ちょっとくらいいいでしょ」
「そのちょっとが恐ろしいと言ってるんだレディ。作戦は任せるがどうする?」
「先輩が私のことを好き。それを利用して野々村先輩とデートに行く話をあの人にします。きっと躍起になって拗ねると思うので、その後に自分の気持ちに正直になれ!みたいなことを野々村先輩が伝えてください」
野々村は上手くいく気がしなかったが、案の定その通りになったのは言うまでもない。六朗に関するメモを開いてあらゆる行動パターンを予測したと豪語する七瀬であったが、存外に恋に必死なだけの意地悪な乙女であった。
野々村は静寂の中、タバコに身をやつす。突然現れたふんどしひとつの巨漢の襲来は、ブレイクダンスサークルはおろか同志である尾川さえも退散するほどの衝撃だった。可憐で一途で執念深い乙女の願いを叶えたふんどしのサンタクロース。MCバトルの中を突貫する直前に七瀬にそう評された。六朗がいきなりラップを始めた時の七瀬の表情は不機嫌そのものであり、あまつさえ原付で帰ろとしていた。それを止めたのも野々村なわけだが。
寒風に靡く冷たいふんどし。そこに黒く書かれた聖夜一掃という文字はひどく達筆なのも相まって一層冷たく感じる。野々村は寒さで震える体にぐっと力を込めた。
「俺はこれでいい」
踵を返して野々村は六朗たちとは反対方向に歩き出した。ふんどしが一つの裏門を通る。眼前に広がるのはうっすら白い雪を被った長い長い裏坂だった。