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5杯目「伊藤早紀の話1」

「あら、いらっしゃいませ」

 30代も後半に差し掛かってきた私には、今となっては自分の外見を気にするような素振りはなくなった。それが決して良いことだとは思わないが、一人で生きていくことを決心した女は意外と強く、しっかりとした貯金も相まってある程度理想的な生活が送られている。

遙さんは違った。前回来た時とは違い、サイドテールからわずかに見えるメッシュが、遙さん自身の大人しい雰囲気とのギャップを生み出していた。

「こんにちは、また来ちゃいました」

 あれから1週間も経たない日だった。この日もお客さんは独りもいなかった。

「いえいえ、来てくださってうれしいです。今日もカフェモカでよろしいですか?」

 私はこういった喫茶店の常連になることは人生で一度もなかった。ドラマや映画でよくある「マスター、いつもの」と言える日が近いのでは、と少し心が躍った。

「また、遙さんの話が聞きたくなって来たんです」

「あまり面白い話ばかりじゃないかもしれませんよ?」

 遙さんは微笑みながらカフェラテを淹れてくれる。慣れた手つきで用意されたのは、今度はホットだった。この日は雨が降っていて、湿度も高く外を歩くのにも不快な日だった。喫茶店の中は強めの冷房をかけて湿度を下げているせいか、必要以上に室温が低い気がしていた。

「そういうおもてなしの心があるから、また来たくなるんですよ」

「そうですか……それでは」

 これは私がこの店を出してすぐの頃のお客さんの話です、と遙さんが切り出す。


「カフェモカが飲み終わる頃におかえりください」


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『早紀、美希のことをよろしく頼む……』

 集中治療室に鳴り響くのは、彼の心拍が止まったことを知らせる警報音。

 私の隣にいる娘は大声で泣いている。

 私は、今の目の前の現状をただ受け止めることができなかった。


 私、伊藤早紀は昨年、主人を病気で亡くした。

 主人が多数の借金を抱えていたことを知ったのは、相続の承認期限である3か月を過ぎてからだった。家族三人で楽しく暮らしていた一軒家は差し押さえられ、私と娘の美希は路頭に迷っていた。

「ごめんね、美希……ほんとうにごめんね」

 決して体が強いわけではなかった私は、主人の借金の返済と娘のために昼夜を問わず働いた。無理がたたった私は体を壊し、住んでいたアパートの家賃も払えなくなった。

娘には本当につらい思いをさせている。

 中学生になった娘は、本当はもっと友達と遊びに行ったり、勉強や部活もしたいはずなのに、何もさせてあげられなかった。

「……」

 娘は何も話さない。

 娘の表情は日に日に失われていた。

私のことを恨んでいるのか。亡き主人のことを恨んでいるのか。それとも自分の運命に絶望しているのか。

たった一人の娘の味方に、私はなれなかったのか。

 幾度となく、心中を決意した。

 それを娘の前で口に出すことはしなかったが、娘も感づいてくれた時もあったようだ。

「お母さんと一緒なら大丈夫だよ」

 しかし、私はその言葉がトラウマになった。


 その日暮らしの生活の中、私たちが最後に行きついたのはとある公園のベンチだった。

 虚ろな意識の中、私は眠るように、あるいは気を失うように目を閉じた。


 私たちの人生が変わったのは、その一瞬だった。

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