32杯目「佐藤美優の話5」
漠然とした不安に包まれる夜を幾度となく経験してきた。
突き刺さるような静寂の中、私は未来を生きていく姿を想像することができなかった。
いつかすべてを投げ出して命を絶つことを想像していた。
そこに思いきれなかったは、大切な人が悲しむ姿や、やり残したことがある後悔などではなく、ひとえに勇気が出なかっただけなのだ。
深淵の闇に響く踏切の警報音を前に、ここに飛び込めばすべてが終わるという高揚感を抱えながら息を詰まらせてきた。
『その気持ち、わからないわけでもないです』
季節は流れ、外は肌寒さを超えて寒さが襲い、外に雪が降る景色も珍しくなくなった。
今日はまなかさんが不在でこの通話空間には私と瑞樹さんしかいなかった。
机に突っ伏したまま、私の気持ちを受け止めた彼はそんなことを言った。
私が欲しかった言葉は決してそんな慰めではなかった。共感してほしいわけでもなかった。
落ち着いた声で語る彼は、私よりも数段も人生経験が多く、私のことをすべて見透かしているようだった。
「——瑞樹さんもそういう気持ちを持つことがあるのですね」
『————リサさんほどではないです』
落ち着いているというよりも落ち込んでいるに等しい彼の声が弱弱しかった。
「では瑞樹さんは心の底から死にたいと思ったときに、どうやってその気持ちを抑えてるのですか」
生きている意味なんて何も見いだせない。こんな気持ちになるくらいなら、死んだほうがいい。そうでしょう、あなたもきっとそうなのでしょう。
『それは、難しい質問です。僕は心から死にたいと思ったことがないので』
「そんなことないでしょう」
私はとっさに否定した。やっぱりこの人は私のことを何もわかってない。
何にも理解してくれない。人が経験してきたことと私が経験してきたことは同じじゃないのだから、理解してくれなくて当然か。
でも、この人なら……そう思っていたのに。
『一度死にたいと思ってしまえば、本当に死んでしまいます。そうならないようにいくつも予防線を張っているのです』
「……」
『リサさんは、死なないでくださいね』
「なぜですか」
『リサさんも、僕にとっての重要な予防線のひとつですから』
「————約束しかねます」
私たちが求めているのは、依存関係でもなければ、お互いが共存する関係でもない。そこにあるのは傷を舐めあって延命しているだけの醜い人のなれの果て。いつか死んでしまう命の抜け殻。
私が欲しかったのは、私が死ぬことの承認だけだった。
時期は12月になり、年末に向けて仕事の忙しさが増していく日々だった。
今年中には死んでしまいたいとまで思っていたこの一年がもう残り一か月となり、多忙からか溜息をつく日が増えていった。
「今日もまなかさんはいらっしゃらないんですね」
これで彼女が顔を見せなくなったのは5日に上った。もともと現実世界でも学生をしながらアルバイトもこなす多忙な生活をしている彼女なので、無理に私に付き合って話を聞いてほしいなどとわがままは言えないが、心のどこかで心配が止まらなかった。
『なかなか忙しいみたいですね』
「そうなんですね」
今日も特に何かをするわけでもなく、ただパソコンを眺めるだけの夜。通話越しに一人の男と話をして夜が更けるのを待つ。
『———リサさんは人間関係を定期的にリセットしたいという感情がありますか?』
人間関係リセット症候群。これまでの交友関係を遮断、リセットすることによって新しい人間関係の構築を進めるとともに、以前知り合っていた人との連絡を断ち切ることにより、新しい環境に移れるように無理やり気分を変える。それが癖になり何度も何度も繰り返してしまうこと。
「高校生の頃に一度だけありました」
高校生の頃に知り合っていた友達とは今では全く連絡を取っていない。仲の良い友達が全くいなかったわけではなく、わざと関係性を遮断したのだ。
『それは、結局どんな気分でしたか』
「——やってもやらなくても、結局同じですよ」
人間関係なんて、あえて切ろうとしなくても、学校生活なんていう限られた空間に押し込められただけの関係なら、無理やり関係を切らなくても勝手になくなってしまうだけの間柄だったのに、わざと消してしまった。
後悔や反省などという言葉ではなく、労力を無駄にしたという感想しか生まれない。
『ネットで知り合った関係なんて、そういう人間関係としてすぐ切れてしまうだけのものじゃないですか。世の中にはそこに深い関係になることを望む人もいるもんです』
人間関係リセット症候群は、ここ数年において飛躍的に注目されるようになった。それはインターネットやSNSの普及により、人と人とが出会うことが日常的になったことだった。例えば……
「例えば、私たちの関係も、たった一つの『ブロック』という機能を使えばそれだけですべて関係が終わってしまいますからね」
『本当に友達かどうかすら怪しいこんな関係に、信頼を置くなんて言う方が間違ってるんですよね』
彼の言うことはまさに的を射ている。
「私たちの関係も、そんな簡単に壊れてしまうものなのですか」
少し冗談交じりに、けれど少しだけ語気に強さを乗せていった。
『ええ。だって、おそらくまなかさんは消えますよ』
数日後、まなかさんのアカウントは消去された。
私たちとの連絡手段は何一つとして残らなかった。




