31杯目「佐藤美優の話4」
私には私がこの世を生きていて楽しいと思える存在が二人いた。
一人は兄のような存在だった。
辛く立ち直れない危機に直面した時に、何も言わずに私の頭を撫でてくれた。最初は変な人だと思った。少しの恐怖感もあった。でも——
ただ、彼は優しい人だった。
もう一人は姉のような存在だった。
生きて居たくない時間に、私の話を聞いてくれる。うんうんと頷いて話し終わると必ず笑顔で、よく頑張ったねと言ってくれる。そう————
ただ、彼女は愛おしい存在だった。
彼らと知り合ったのは、なんでもないような瞬間だった。
Twitterに合同グループ通話機能・スペースが実装されてから、今まで文章だけのやり取りだった人と通話をする機会が増えた。二人とも、そこで知り合った人だった。
最初は人の話を聞くだけだった私が、数少ない「この人と話してみたい」と思う人だった。
彼らと話しているとどこか心地よかった。
二人はいつでも私のことを気にかけてくれた。「リサさんなら大丈夫だよ」「リサさんよく頑張ったね」「リサさん偉いから」そんな他愛もない、お世辞に私は落ち着くことができたのだ。
私はリサ。リサとしての自分であれば、幸せに生きて居られる。
本物のリサになりたい。
「美優!またそうやって一人の世界に引きこもろうとするのね!」
都合と耳障りの悪い甲高い音が聞こえる。
運悪く仕事が早く終わったその日は、一人の夕食を食べ終えた後、妹と二人で見ていたテレビの前から抜け出し、自室に戻ろうとしていた。
私に声をかけたのは、母だった。ただそこに立ちすくむ母の顔は白く痩せて、ふつふつと沸き立つ憤怒から、髪が逆立っているようにすら感じる。
「……何」
「あなた最近自分の部屋で何しているのよ。たまに早く帰ってきたと思ったらそんなそそくさと自分の部屋に戻って」
「別に何もしてないわよ」
「じゃあ下に残ってなさいよ。家族団らんの時間を持とうっていう意識はないの」
そんなものあるわけないじゃない。理想ばかりを口にしても、それをかなえられなかったのは貴方でしょう。
私の生きていた19年は家庭崩壊という言葉で簡単に片づけられる代物ではない。
「うるさい」
私は母の言葉を振り切って、自室の有る二階へ向けて階段を上る。「……私のことそんなに嫌いなの」そんな言葉が一階から聞こえた気がした。
そんなの決まっているじゃない。大嫌い、いなくなってほしい。
私のことは放っておいて。
息が詰まる。苦しい。
セピアに霞む台所。母は包丁を強く持つ。
「あなたたちなんか産まなければよかった!!」
母は泣いていた。怒りと、悔しさに震えていた。
私たち姉妹も泣いていた。恐怖と頼れるものが何もないこの世界に失望していた。
訳も分からぬまま大泣きする妹の手を私は強く握ってあげることしかできなかった。
この場から消えて居なくなりたい。すぐに死んでしまいたい。でもできない。動けない。苦しい。寂しい。死にたい。
——————————ドンッ!
大きな足音が聞こえる。
そうだ、これだ。
私が最も恐れていた存在が……
怖い。来ないで。
「来ないで……怖い……」
救急車の音が聞こえる。その音はだんだん大きくなり、ついに私の目の前で赤いライトを照らしながら、私たちを照らす。
行かないで。怖い。助けて。許して。
もう私にかまわないで。私に何も言わないで。
私を許して。
私を、一人にしないで——————!!!
「……サさん!!??」
止まっていた呼吸が動き出した。
目の前には自室のデスクがあった。パソコンのワードを起動したのみで白紙の画面が映し出されている。
右手にはスマホがある。そこに映っているのは、まなかと瑞樹のアイコンと通話が繋がれている様子だった。
『リサさん、なんか急に返事なくなったけど、大丈夫?』
優しくまなかが聞いてくれる。
「う、うん。大丈夫ですよ! 私どうかしてましたか?」
『どうもなにも、急に黙りこくってしまうからびっくりしてたんだよ?』
本当はね、大丈夫じゃないの。
またあの日のことを思い出しちゃったの。苦しくて辛くて、何もかも投げ出したくなったあの日のことを。
だからね、だから今だけはこのまま私を二人と同じ世界に居させてほしいんだ。
「ありがとう。ちょっとだけ、私は二人の話を聞いていたいです」
私は、また少しだけ目を閉じた。
過去というのはもとには戻らないものです。
誰がどれだけ悔しくても、もう———すべて手遅れなのです。