2. 孤独の故意
この暑いのに、よくまあこんな授業をやるもんだなと思う。蝉の声がまだ耳にうるさい校庭を、脚がくたくたになるまで走り続けるのだ。体育祭に向けての練習だ、若いんだから今のうちに苦労しておけ、と教師は言った。いやに古臭い考えだ。熱中症など考えも及ばないに違いない。
宮本綾音が来てから二週間がたった。いつの間にか彼女の取り巻きは居なくなった。たった一人である。今もトラックの反対側で、独り黙々と汗を流して走りこんでいる。とかく女子という生き物は群れたがるものだ。彼女以外は、二、三人のまとまりでもって、たらたらと歩いている。まったくもって不真面目だ。その点、文句も言わずに励む彼女はとても誠実な人柄であるようにみえる。そんな彼女を、女どもは奇異な目で見つめ、避けているのだから、たまらなく腹が立った。
体育も終わり、昼食の時間になった。いつものごとく坂ちゃんと弁当を広げると、宮本綾音はふらりと教室を出ていった。何となく目線で追っていると「宮本さん、どうやら昼休みは屋上にいるらしいぞ」と坂ちゃんが言った。「屋上? なぜ」と聞き返すと「さあ、クラスの女子がそう言ってた」と言った。
屋上に続く階段は二年生の教室に近い。去年、僕と坂ちゃんがいつも一緒に飯を食うものだから、同級生の一人が馬鹿にして、ホモだ、なんだ、と囃したてた。嫌になって人気のない、その階段へ飯の場所をうつした。無論、屋上は危険だからと、頑丈な錠前で閉められていた。屋上の扉の前には机が、倉庫代わりと言わんばかりに山と積まれてもいた。
なぜ屋上へ行ったのだろう。そもそも入れないはずだ。どうにも気になる。思案していると「行ってみるか」と坂ちゃんが言った。「案ずるより生むが易しだ」としたり顔である。
そうと決まれば急いで飯をかっ込んだ。生徒の波を抜けて階段の踊り場まで行くと、案の定だれもいない。ところがである。あれだけ扉を塞ぐように詰められた机が、ちょうど一人通れるばかりに整理されているのだ。
「鍵、かかってないぞ」
「そんな馬鹿な」
坂ちゃんが示す。覗き込むと、たしかに錆びた金属の取っ手にあった錠前がなくなっている。「入ってみるか」と坂ちゃんが言った。「いやしかし」と答えると「鍵が無いってことは、入っても良いってことだ」などと得意げに言った。馬鹿な話だ。それなら世は泥棒だらけになる。だが彼の言う事にも一理ある。などと思う間に、坂ちゃんがぎぎぎと扉を鳴かせる。存外、音が響いて、バレやしないかとひやひやした。
坂ちゃんに続いて屋上に出た。だだっ広い所だ。室外機が並ぶほか何もない。野ざらしの床は灰色にくすんでひび割れている。白をちらした空はまぶしく、目がくらんだ。「誰もいないな」と坂ちゃんが言った。周りを見渡しても、校庭から遠く喧噪が聞こえるほか、心地よい風が吹くばかりである。
「やっぱり、嘘か」と坂ちゃんが言った。僕もそう思う。誰かが嘘を言ったに違いない。素行の悪さを吹聴するのはいじめの定石だ。
「あっ」
その時、可愛らしい声が聞こえた。続いて鈍い音が響く。振り向くと、入口の近くでペットボトルが落ちている。上を見やると、塔屋の上から気まずそうに顔を覗かせる宮本綾音がいた。
「……バレちゃった?」
「うわ、ホントにいた」
「宮本さん?」
「ちょ、ちょっと待って」
慌てて宮本綾音が頭を引っ込める。がさがさと音がしたかと思うと、壁に生えた手すりに足をかけて飛び降りてきた。
「えっと、加藤君と坂本君、だよね。なんでここに?」と言って、彼女は落ちたペットボトルを拾った。
「なんでってそりゃあ、宮本さんがここにいるって聞いたから」
「誰から?」
「クラスの女子」
「あー、他にもバレてたんだ」
二人のやり取りを眺める。どうにも気になる事があった。
「前は鍵がかかってたと思うんだけど、どうやって入ったの?」
「……誰にも言わない?」
「もちろん」
「坂本君はちょっと、口が軽そう」
「え、ひどいな。体型に似合わず口が堅いので有名だぜ」
「そうなの? まあ良いけど」と言って、彼女はポケットから鍵を取り出して見せる。
「……盗んだの。職員室から、鍵を」
「盗んだ?」
「へえ」と坂ちゃんはあっけに取らている。
「普段使わないでしょ。意外と誰も、無くなっても気にならないみたい」
「なるほどね。それ先生にバレたらヤバイね」
「……言うの?」と、途端に宮本綾音は坂ちゃんを睨みつける。
「まさか。でも、その代わりに……」
「坂ちゃん、それは」
「うわ、最低」
「違う違う、ただ聞いてほしいことがあるんだよ」
「聞いてほしいこと?」
「ああ、俺じゃなくて春樹が。宮本さんに」
「え」
「ほら、春樹」
「あーっと、その」
急に気恥ずかしくて息苦しくなる。心臓が跳ねて痛い。だが、ここで言わねば男じゃない。
「み、宮本さん。ずっと前から、す、す――」
「す?」
「――す、すごい、皆を、避けてるよね? なんでかなと思って」
じろりと坂ちゃんがねめつけてくるが、そんなこと知らない。
「あー、それもバレてたか。よく分かったね」
「どうして?」
「またすぐ転校するかもしれないし、しなくても、卒業まであと半年しかないもん。友達作っても意味ないよ」
「……そう、なんだ」
「離れればすぐ忘れる。仕方ないよ」
分からない。忘れる事もあるかもしれない。だがそれでは駄目だと思った。
「宮本さん、約束しませんか?」
「約束?」
「はい。約束です。僕は宮本さんに、人とちゃんと向き合って欲しい。だから、他人を避けないこと」
「はあ?」
「できないなら、盗んだこと、先生に言います」
「おいおい春樹?」
まったく論理的ではない。自分でも何を言っているのかと思う。だが嫌われても良いと思った。
「意味わかんないし、余計なお世話だけど、加藤君に関係なくない?」
「関係あります。だって宮本さんのこと、す、す――」
「す?」
「――すぐに、忘れたく、ないから」
「……よく分かんない」
「とにかく、約束です」
授業が始まる鐘が鳴った。雰囲気にいたたまれず、僕は脱兎のごとく逃げ出したのだった。