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狐のマスク  作者: 直井 倖之進
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最終章 『変わらないもの、変えてはならないもの』②

 拝殿の中は里美が想像していた以上に広かった。「千畳敷」とまではいかないが、大人百人ほどならば優に寝泊まりできそうな板間である。

 それなのに、板間の中央に座布団が二枚。他には、何もなかった。

 どこから漂うのかは分からないが、辺りには甘い香の香りが微かにしていた。

「まぁ、座れ」

 稲荷神が里美に下座の座布団を勧める。

「ありがとう」

 里美がそこに正座すると、稲荷神も彼女の前に胡坐をかいて座った。

 篠突くように降っていた雨が、少しばかり穏やかになる。

 すると、ゆっくりとした口調で稲荷神は語り始めた。

「今から、もう千年も前の話じゃ。先ほどもちらりと言うたが、当時のわしはまだ神ではなく、仔狐じゃった。早くに親を亡くし、天涯孤独の身の上。わしは、人里から近い山の中に一匹で住んでおった。時折山道まで下りては、そこを通りかかる村人や旅人から食い物を恵んでもらい、何とか飢えをしのいでおったのじゃ。……あれは、今日のような雨が七日七晩に亘って降った次の日のことじゃった。待ちかねた御天道様がやっと顔を見せてくれた。わしは喜んで山を下りた。何しろ、それまでの間は、雨のせいで山道に人間なぞ通らなかったからのう。雨水を舐め、飢えをしのいでおったのじゃ。空っぽの腹を抱えて、わしは何とか山道までやってきた。空腹で霞む視界をしばたかせて見やると、ずっと遠くのほうにひとりの村人の姿があった。これまでに幾度となく食い物をくれた気のよい青年の姿じゃ。これはついておる。そう思ったわしは、脇目もふらず駆け出した。青年のほうもわしに気づいたようで、その場に立ちどまり、懐を探り始める。どうやら、与える食い物を取り出そうとしておるようじゃ。いよいよわしは浮かれてのう。それこそ必死に走った。そして、あと少しで青年の許に辿り着くという段、突如、わしの記憶は途絶えた」

「何があったの?」

「死んだのじゃ」

「死んだ?」

「あぁ。土砂が崩れおってな、その下敷きになってしもうたのじゃ。恐らくは、大雨のせいで山肌が緩んでおったのじゃろう。実にあっけない幕切れじゃった。まったく、今思い出しても笑うてしまうわ。……じゃがな、村の青年にとっては、そうではなかったらしい。本来ならば土砂崩れで死んでいたところ、狐が身代わりになってくれた。そう勘違いしおってな、わしのような仔狐ために、山道の隅に小さな塚を作ってくれたのじゃ。わしは、ただ食い物をもらいに走っただけじゃというのにな」

 ここで稲荷神は、一度小さく笑うと続けた。

「それから百年。村人や旅人らの信心によって、塚は社に、社は神社へと姿を変えた。一介の仔狐にすぎなかったこのわしが、神として祀られるようになったのじゃ。毎日のように祈願に訪れる者たちを前に、わしは誓った。“わしに救いを乞う者がひとりでもおる限り、わしは神で居続けよう”と」

「それが、九百年前の誓いなのね?」

「そうじゃ。わしに救いを求める者がおるうちは、わしは稲荷神で在り続けねばならぬ。それが、わしに課せられた使命であり、同時に、青年の礼に応えることにもなるのじゃ。じゃから、変身しなかった」

「……強いのね、稲荷神様は」

 里美の言葉に、稲荷神は首をふって答えた。

「強くはない。ただ、自分はあくまでも自分、そう思い至っただけじゃ」

「自分は、あくまでも自分?」

「左様。本当に自分を変身させたければ、先ずは自分自身を磨かねばならぬ。そう気づかされたのじゃ。ただそれだけのことよ」

 稲荷神のその言葉は、里美に、今日の勤務中の出来事を思い出させた。

 確か、紗都実も同じようなことを言っていた。「私、何もできない女だから、取り敢えずは自分を磨かなくちゃ、って思っているんです」と……。

「長々とわしの昔話を聞かせてしもうて、すまなかったのう」

 そう言うと稲荷神は、少し照れた様子で頭を掻いた。

「いいえ、いいの。私にとってもすごく大切なお話だったから」

「そうか、そうであったのならば祝着じゃ。……それはそうと、時にお主、ここへきたということは、大方、早川紗都実に変身するつもりであったのだろう?」

「さすがは稲荷神様。何でもお見通しなのね」

「当然じゃ。わしは、神様じゃからな」

 自らの心情を吐露したことで元気を取り戻したか、稲荷神は、初めて里美と出会った時のように、大きく胸を張ってからからと笑った。

 しかし、そんな稲荷神を真っ直ぐに見つめながら里美は言った。

「でもね、もういいの」

「もういい、とは、どういうことじゃ? 変身せぬと言うのか?」

「いいえ、変身はする。私ね、私に変身したいの」

「自分に変身じゃと? お主、まさか元のお主に戻るつもりか?」

「そうよ」

 里美はきっぱりと頷いて見せた。

「何故じゃ? もし、わしが変身せぬと言ったことを気にしておるのなら、それは間違いじゃぞ。わしとお主は、神と人間。そもそも、根本からして立場が……」

「同じよ」

 里美が途中で遮った。

「同じなの、神様も人間も。私も稲荷神様と同じように今日教えられたの。人を羨んでいるだけじゃ駄目。もっと自分を磨かないといけないんだ、って。狐のマスクで変身するのは簡単だけど、それは自分じゃない。相田里美じゃないの。そんなのって、やっぱり嫌。私は、相田里美って名前で、相田里美の身体で生きていきたいの」

 稲荷神は、黙って里美の話を聞いていた。

 そして、告げた。

「“トランスフォーメーションマスク”の存在を知りながら、その上で自分で在り続けるというのは、つらいぞ」

 里美は答えた。

「大丈夫、平気よ。たとえ智也さん、いいえ、赤坂さんから愛されなくても、鈍感な女でも、紗都実ちゃんみたいに社交性がなくても、それが今の私なんだから。だけど、きっと私は変身する。周りの人たちが私を見て、羨ましいと思うようになるほどに」

「そうか、分かった。では、元に戻る方法を話そう。マスクは、お主が取ろうと思えばいつでも取ることができる。顔の皮を引っ張る要領で思い切り剥がすのじゃ。じゃが、お主が相田里美に戻るとともに、変身され消滅していた高木亜紀が世に出てくることになる。じゃから、元に戻る際にはマスクを被った時と同じ場所で、辺りに誰もおらぬのを確認してから行うことじゃ。理解できたか?」

「うん」

「では、これからお主を送り届けるが、ひとつだけ、忘れずにいて欲しいことがある」

「何?」

「よいか、決してつらさを独りで抱えこむな。独りで悩めば、周りが見えなくなる。わしの姿はもちろん、お主を助けようとしている者たちの姿までもが見えなくなってしまう。わしはな、努力しようと歩んでいる人間が自ら命を断つ様をもう二度と見たくはないのじゃ。本当に苦しい時には家族を頼れ、友を頼れ、そして、わしを頼れ。よいな、ゆめゆめ忘れるでないぞ」

「分かった。ありがとう、稲荷神様」

「よし。では、行け。自ら輝き光を放つ、己を目指して」

 稲荷神は、里美の前に手をかざした。

 薄紫色の光が拝殿の中を淡く照らす。同時に、里美の意識は途絶えた。

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