最終章 『変わらないもの、変えてはならないもの』①
最終章 『変わらないもの、変えてはならないもの』
眼前に佇むのは正門。その両脇に二体の狐の像が鎮座している。
あの日と同じ、あの稲荷神社だ。
「稲荷神様、いるんでしょう?」
そう声をかけながら里美が正門を抜ける。
稲荷神は、境内の中央にいた。こちらに背にし、拝殿のほうへと俯き立っている。どうやら、里美には気づいていないようだ。
「神様でも大きな声で脅かしたらびっくりするのかしら」そんな悪戯心を胸に、そろりそろりと近づく里美の耳に、稲荷神の呟きが聞こえてきた。
「また、ひとり、逝きおったわ」
それは、寂しげであり、悔しげでもあり。まるで地の底を震わせるような重みのある呟きだった。
そのため、
「お久しぶり、稲荷神様」
当初の予定を変更し、気を遣いつつ里美が話しかける。
すると、稲荷神は、彼女へとおもむろに体を向けて言った。
「ん? あぁ、相田里美か。ようきたのう」
一応歓迎はしてくれているようだが、やはり、以前のような陽気さは感じられない。
そこで、里美は、努めて明るく稲荷神を持ち上げてみようと試みた。
「さすがは、稲荷神様ね。たとえ見た目が変わっても、私が誰だか分かっちゃうんだから」
ところが、これにも稲荷神は、
「高木亜紀に変身できてよかったのう。じゃが、ころころと名が変わると煩わしいので、わしは相田里美と呼ぶぞ」
そう気のない返事をするだけであった。
明らかに様子がおかしい稲荷神。
それが気になり、里美は尋ねた。
「随分と落ちこんでいるようだけど、どうしたの?」
「何じゃ、心配してくれておるのか? お主は優しいのう。じゃが、人間に心配されるようになってしまっては、神失格じゃな」
乾いた声で稲荷神が笑う。
それから、一度大きく肩を落として溜め息をつくと続けた。
「実はな、今、ひとりの男が死んだのじゃ」
「男の人が、死んだ?」
「そうじゃ。人里離れた山に入り、首を吊って死におった。よほど苦しんだのであろうなぁ、鬼のような形相で息絶えておる」
「自殺なの?」
「左様。町工場を営む男でのう、感心するほどによう働いておった。じゃが、昨今の不景気という時世の波には逆らえん。働けば働くほど、借金は増えていったようじゃ。そして、ついに、今日がきてしまったというわけじゃ」
「そこまで分かっているのなら、どうして……」
つい責めるような口調になっていることに気づき途中でとめた里美の言葉を、稲荷神がつないだ。
「何ゆえ、助けなかったのか、か?」
「え、えぇ」
里美はこくりと頷いた。
「相田里美。お主は、わしの力を買い被っておるようじゃな。確かに、神というものは人間の能力を遥かに超える力を持っておる。じゃが、それを信じておらぬ者の前に、わしらは姿を現すことができぬのじゃ。何故なら、わしらは、人間の思想により具体化されておるにすぎぬからじゃ。神の存在を認めておらぬ者たちに、神を創造することは適わぬ。よって、わしらは存在せぬことになってしまうのじゃ」
「つまり、その男の人が神様の存在を信じていなかったから救えなかったってこと?」
「簡単に言えばそうなる。じゃが、お主も人であるから分かると思うが、人間の心というものは複雑怪奇でなぁ、神であるわしにも読めぬ部分が多いのじゃ。それこそ、受験や色恋などの悩みは、“苦しい時の神頼み”とわしらに祈るが、本当に生命の危機に瀕した際や切羽詰まった時には、何故か自分の力だけで困難を乗り越えようとしてしまうじゃろう? 死を考えるほどに悩んでおったあの男も、神にすがることをとうに諦めておった。……いや、神のことなど、脳裏の片鱗にさえ浮かばなかったのかも知れぬな」
「……」
里美は黙った。だが、その心の中では、「稲荷神様の考えは正しい」と感じてもいた。例えば、明日をも知れぬ病に伏した場合、「神様、助けて」と祈るのは周囲の者たち。病と闘う当人に、そんな心の余裕はないだろうと思ったからである。
「なぁ、里美よ」
「何?」
「わしはな、助けたかったのじゃ。最後まで懸命に働いておった、あの男を……」
呻くように語る稲荷神。その声は、神という立場に似つかわしくなく、震えていた。
「そんなの、稲荷神様のせいじゃないわよ」
稲荷神の気持ちが痛いほどに伝わり、里美が何とか励まそうと擁護する。
しかし、表情変わらぬ狐の顔にあってもはっきりと分かるほど、稲荷神の落ちこみに変化はなかった。
暫しの沈黙の時が流れたあと、稲荷神は里美に尋ねた。
「……お主、サミュエル・スマイルズの『自助論』、その序文に書かれた“天は自ら助くる者を助く”という一文の意味を知っておるか?」
「え? “神様は、自ら助かろうとしている人間を助ける”ってことじゃないの?」
「では、“自ら助かろうとしている人間”とは、どんな人間じゃ?」
「それは、助かるために努力をしているような……」
そう言いかけて、里美は、はっとしたように目を見開いた。
「理解したようじゃのう。そうなのじゃ。あの男は、この上なく努力しておった。じゃが、わしは、救いの手を差し伸べてやるどころか、男の前に現れてやることすら適わなかった。そして、結果、死なせてしもうたのじゃ。まったく、全知全能の神が聞いて呆れるわ。……情けない」
小さな肩を震わせ、稲荷神は自嘲するように笑った。
「でも、“天は自ら助くる者を助く”なんて、人間が作った言葉でしょう? 稲荷神様は、神様なんだから、人間の言うことなんて気にしなくてもいいのよ」
里美が再び稲荷神を擁護する。
「里美よ、お主はつくづく優しい女じゃな。お主のような者がおるからこそ、わしは人間を裏切りたくないのじゃ。人間が“努力する者は救われる”と思うておるのならば、わしはそれを叶えてやりたい。真面目に生きる人間が救われぬ世の中など、間違っておるのじゃからな」
稲荷神は、悲しげに地面へと視線を落とした。
「神様でいるのも、大変なのね」
「まぁ、のう。時折、神であることを辞めとうなる」
「だったら、変身しちゃえばいいのよ」
「変身?」
さらりと告げられた里美の言葉に、稲荷神が顔を上げた。
「そう、変身よ。狐のマスクで稲荷神様も変身するの。神様じゃない別の何かに。そうすれば、人間のために悩む必要なんかなくなるし、神である重圧からも解放される」
「成程のう。お主、賢いな」
「できるんでしょう?」
「試したことはないが、恐らくは……」
稲荷神は、懐から狐のマスクを取り出した。
「ねぇ、何に変身するの?」
そう尋ねる里美に、稲荷神は答えた。
「狐がよいのう」
「狐?」
「左様。神になる前、わしは仔狐だったのじゃ。今こそ、その時の姿に戻ろう」
稲荷神は、その頭上に狐のマスクを掲げた。
だが、
「……いや、やはり駄目じゃ」
そう言うと、稲荷神は狐のマスクを持つ手をそっと降ろした。
「どうして駄目なの? 変身できないの?」
「そうではない。変身できぬのではなく、変身してはならぬのじゃ。九百年前にわし自らが立てた誓い、それを今さら反故にするわけにはいかぬからのう」
「九百年前の、誓い?」
「そうじゃ」
「一体、どんな誓いを立てたの?」
「聞きたいか?」
「えぇ、教えて」
里美は大きく頷いた。
「よし、では、話して聞かせよう。あれは、今から……」
そう稲荷神が語り始めたまさにその時、空を覆う雲から大粒の雨が降ってきた。
「おっと、これはいかん。続く話はわしの住処でするとしよう。ついて参れ」
言うが早いか稲荷神が拝殿の中へと入って行く。
「あ、ちょっと待ってよ」
里美も慌ててそのあとを追った。