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狐のマスク  作者: 直井 倖之進
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第二章 『変身』②

 里美が亜紀に変身をしてから十日がすぎた。

 彼女にとってのこの十日間は、人生の中で最も努力をした期間であった。高木亜紀という女性、その全てをおさらいせねばならなかったのだから当然だ。

 里美は、それこそ寝る間も惜しんで亜紀についての勉強をした。

 尤も、里美に戻りさえすればそんな苦労をする必要はなくなるのだが、それでも彼女は亜紀で居続けることをやめようとはしなかった。

 理由は、ひとつ。赤坂の存在があったからである。

 里美にしてみれば、これは意外であり残念なことだったのだが、赤坂と亜紀はまだ住居を共にしていなかった。そのため、二人のシフトが合う日は、赤坂が車で送迎してくれていた。そんな彼の優しさに触れていられるというだけでも、亜紀でいる理由としては十分だったのである。それに加えて、彼のことを「赤坂さん」ではなく「智也さん」と呼ぶことができるし、休日には結婚式や披露宴の準備で丸一日一緒にいることができる。もちろん、結婚後はずっと一緒だ。里美に戻ることなど、考えるはずがなかったのである。

 だが、これらのことは、あくまでもこの日までの話だった。

 翌日、ある女性との出会いを切っかけに、事態は大きく変化していくことになる。

 

 亜紀に変身して十一日目。

 里美は、最早当たり前のようにサービスカウンターで仕事をしていた。

 外見や声が亜紀である上に、十日間の“亜紀学習”を行ってきた里美は、今では完全なる亜紀だった。店内案内やギフトカードの販売、業務連絡アナウンスなど、総合案内としての仕事もひととおりこなせるようになっていたのである。

 午後の業務に入って間もなく、そんな里美の許にひとりの女性がやってきた。

 女性は膝丈のワンピーススカートを身に着け、白い帽子を被っていた。この百貨店の総合案内の制服だ。

 里美に向かって丁寧に頭を下げると、女性は少し緊張した声色をして言った。

「教養研修を終え、本日からこちらで現場研修を行うことになりました。(はや)(かわ)()()()と申します。宜しくお願いします」

「え? “さとみ”ですって?」

 つい最近まで慣れ親しんでいたその名前に、里美は思わず声を大きくした。

「は、はい。“はやかわさとみ”です」

 まさか名前に興味を示されるとは思っていなかったらしく、紗都実は戸惑いながらそう答えた。

「そうなの。いい名前ね。私は、高木亜紀。宜しくね」

 口には出せない親近感を胸に秘めながら、里美は紗都実に微笑みかけた。


 十分後。里美からひととおりの業務説明を聞き終えた紗都実は、張り切ってサービスカウンターに座っていた。

 この百貨店では、入社後、二つの研修が課せられることになっている。教養研修と現場研修である。先ず、教養研修で主に挨拶や接客のあり方などを理論的に学び、その後、現場研修で実際に業務を行っていくという流れになっている。

 つまり、新入社員が客の応対をするのはこの現場研修が初めてということになるわけだ。

 ところが、紗都実は、その初めての接客を完璧にこなしていた。次々と訪れる客に案内をしたり販売をしたり。それは、まさに「見事」としか言いようのない接客術であった。

 完全に出る幕をなくしてしまった里美は、その様子をただただ感心しながら眺めていた。

 

 午後三時。客の流れが落ち着いたのを見計らって、里美が声をかけた。

「ねぇ、紗都実ちゃん。随分と接客に慣れているみたいだけど、ここにくる前にもどこかで働いてたの?」

「いいえ、初めてです。実は、私、アルバイトもしたことがないんですよ」

 「とんでもない」とでも言うように、紗都実は手を左右にふって見せた。

 だが、ここで彼女は、ふと何かに思い当たった様子でこう続けた。

「あ、でも、習い事をたくさんしているので、そういった意味では人と話すことに慣れているのかも知れません」

「へぇ、どんな習い事を?」

「茶道に華道に日本舞踊。それと、ゴルフと乗馬を最近始めました」

「本当にたくさんなのね。でも、それだと自由な時間なんてないんじゃないの?」

「確かに、そうですね。でも、私、何もできない女だから、取り敢えずは自分を磨かなくちゃ、って思っているんです。それに、どの習い事も皆さんが優しくしてくれるので、楽しく続けてられているんです」

 紗都実は屈託のない表情で笑った。

 それは、まさしく天使の笑顔。そんな彼女の笑顔に、里美は早くも魅せられていた。また、同時に、「(てん)()の才」としか表現できない紗都実の社交性を羨ましく感じ始めてもいた。

「紗都実ちゃん。この仕事、向いてると思うよ」

 お世辞でも何でもなく、里美が言う。

 すると、

「本当ですか? 嬉しい。ありがとうございます」

 ここでも紗都実は、天使の笑顔をしてそう答えた。

 その時、大きな花束を抱えた和服姿の初老の女性がサービスカウンターへとやってきた。高価そうだが決して趣味はよくない目尻の部分が鋭く上がった眼鏡をかけていて、その眼鏡の与える印象からか、何やら気難しそうにも見える女性である。

 「新人に任せるには、荷が重そうね」そう判断した里美は、自分が応対することに決めた。

「いらっしゃいませ」

 これ以上ない営業スマイルを満面にして、初老の女性に頭を下げる。「この手の客にはできるだけ下手に出たほうがよい」そう彼女は知っていたのである。

 ところが、初老の女性は、笑顔の里美を無視して紗都実の前に立った。

 それから、

「こんにちは、紗都実ちゃん」

 実に穏やかな口調でそう挨拶をする。

「あら、如月(きさらぎ)先生じゃないですか。おめかししているから、誰だか分かりませんでしたよ。どうも、こんにちは」

 まるで近しい親戚に出会った時のような口調で紗都実もこれに返した。

「まあ、紗都実ちゃんったら、言うわよね」

 如月先生と呼ばれた女性が目尻を下げて笑う。

 どうやら、二人は、軽口をたたきあえるほどの間柄であるらしい。

 黙って様子を見ている里美の横で、二人は仲よく世間話を始めた。「花展」や「出瓶」などの声が聞こえてくるため、恐らく如月は華道の先生のようだ。

 話の流れの中で、紗都実は如月に尋ねた。

「ところで、今日はお買い物ですか?」

「何を言ってるの、お祝いにきたに決まってるでしょう。今日は、紗都実ちゃんが初めてお客さんの応対をする記念すべき日なんだから。はい、これはお祝い」

 如月は、手に持つ花束を紗都実に渡した。

「え? いただけるんですか? 私、まだ研修中の身なのに……」

「研修中でもお仕事をしているのには違いないでしょう。強いお花ばかりを選んできたから、お仕事が終わったあと、お家に帰って生けても十分間に合うわよ」

「ありがとうございます。とっても綺麗」

 紗都実は抱いた花束に顔を埋めた。

「あ、それと、うちの息子のことなんだけど、今夜お宅に伺いたいって言っていたから、適当にあしらってあげて。それの十倍のお花を持ってお祝いに行きます、だって」

 紗都実の持つ花束を指で示すと、彼女は続けた。

「それにしても、紗都実ちゃんみたいな子が、息子のお嫁さんになってくれたらねぇ。私ね、人付き合いが悪くて、厳しい先生だとも言われているし、それは、自分でも認めているの。だけど、紗都実ちゃんとだけは、上手くやっていけると思っているのよねぇ……」

 如月は、そっと紗都実を覗き見た。

 だが、彼女の顔には、明らかに困惑の表情が浮かんでいる。

「……」

 黙して顔を伏せる紗都実に、如月は少し慌てた様子でさらに言葉を足した。

「あら、ごめんなさいね。私ったら、勝手なことを……。でも、これだけは信じてちょうだい。私は、息子のお嫁さん候補としての貴女を気に入っているんじゃなくて、早川紗都実という人間そのものを気に入っているの。だから、息子との結婚なんて、本当は二の次なのよ。気にしないでね」

「ありがとうございます」

 紗都実はにこりと微笑んだ。

「じゃあ、私は行くわね。お仕事、頑張ってね」

「はい。ありがとうございました」

 サービスカウンターをあとにする如月を紗都実は頭を下げて見送った。

 二人の会話を間近で聞いていた里美は、「早川紗都実という人間そのものを気に入っている」という如月の話に嘘偽りはないと確信していた。何故なら、既に彼女自身が、紗都実に対して魅力を感じていたからだ。

 僅かな嫉妬と大きな憧れが渦巻く感情の中、里美は、「私も紗都実ちゃんみたいになりたい」と思った。

 そして、その想いが“変身”という名の決心に変わるまで、そう長い時間はかからなかった。


 午後六時。終業時刻を迎えた。従業員専用の地下駐車場へと向かう紗都実の両腕には、大量の荷物が抱えられていた。その後ろから里美がついてくる。手伝いを買って出た彼女の両手も、荷物で塞がっていた。それらは、今日一日で紗都実へと届けられた祝いの品々であった。

 何とか空いている指先を器用に使い、紗都実は車のドアを開錠した。

 それから、今度は逆の指で後部座席のドアを開ける。

 彼女は、

「すみません、亜紀さん。中にお願いします」

 荷物を入れるようそう里美に依頼した。

 里美は、促されるままに後部座席へと祝いの品を積んでいった。

 先ずは、ゴルフクラブ。ゴルフには疎い里美でも知っているパッティングに使う平たいクラブ、パターである。これを持参したのは、紗都実が通うゴルフスクールを経営しているという三十代の男性だった。「今度、一緒にコースを回りましょう」そう言って紗都実を誘う爽やかな笑顔が、傍で見ていた里美には印象的だった。

 里美は、パターを後部座席に納めた。

 次は、着物。大きな桐箱に丁寧に仕舞われている。こちらは、紗都実の日本舞踊の師である()(やなぎ)流三代目家元、()(やなぎ)()()()からの祝いの品だった。

 里美が、そっと桐箱を座席に置く。以上で手伝いは完了だ。

「はい、お終い」

「ありがとうございます」

 里美に礼を言うと、続けて紗都実も手に持つ祝いの品々を車に入れ始めた。

 里美は、黙って彼女の行動を眺めた。

 紗都実は、茶道の先生から贈られた茶器の入った箱をシートに。その横に、如月からの花束を置いた。

 そして、最後に、乗馬クラブの経営者であり、GⅠ馬の馬主でもある(ささ)(みね)(らい)(ぞう)からの贈り物、(あぶみ)を後部座席の下に納めた。

 鐙とは、馬の鞍の両脇に取りつけ、踏みかけにする馬具のことである。「この鐙は特注品で、紗都実君の足に合わせて作らせたんだよ」とは笹峰の弁だ。

 こうして、後部座席いっぱいに紗都実への祝いの品々は並べられたのだった。

 ゴルフクラブ、着物、茶器、花束、そして、鐙。まぁ、かろうじて花束は別としても、それらは、里美にはほぼ必要のない品物であった。

 だが、その価格についてはどうしても気になる。

 何故なら、一般の会社では係長クラスである赤坂、そんな彼からこのような高級品が贈られることは、恐らく生涯ないであろうと思われたからである。

 紗都実が後部座席のドアを閉める。

 その音を聞きながら、里美は考えた。「もし、紗都実に変身したら、私は、今よりもっと幸せになれるのではないか」と……。

 彼女の瞳が怪しく輝いた。

 一方、それに気づくことなく紗都実は、

「ありがとうございました、助かりました。あ、そうだ。駅まで乗って行きませんか? せめてものお礼に、送らせてください」

 そう言って、助手席のドアを開いて里美を促している。

「ありがとう。でも、私、“寄る処”があるから……」

 彼女は小さく首をふった。

「そうですか。じゃあ、今度、別の形でお礼させてくださいね」

「うん。気をつけて帰ってね」

 里美に見送られ、紗都実は運転席に乗りこんだ。

「それでは、お先に失礼します」

 窓を開けて会釈をすると、紗都実は、軽快なエンジン音とともに駐車場を去って行った。

「お礼させてくださいね、か」

 誰もいなくなった地下駐車場で里美は、そっと小さくほくそ笑んだ。

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