第二章 『変身』①
第二章 『変身』
朝がきた。
現在、里美は、自宅のリビングの椅子に腰をかけ、テーブルに頬杖をついている。
テーブルの上には、彼女の肘の他に、財布と英語の辞書。それから、狐のマスクもあった。
「夢じゃ、なかった」
呆けたような声でそう呟くと、里美は、目を覚ましてからもう何十回も確認している財布を開いた。中の紙幣は千円札が三枚だけ。やはり、一万円足りない。
そして、その代わりに、目の前には狐のマスクが……。
里美は、そっとマスクを手に取った。伸縮するゴムのような材質、仄かに香る柚子の匂い。それは、間違いなくあのマスクだった。
消えた一万円と、現れた狐のマスク。この二つだけでも、稲荷神との出会いが現実だったことを物語るには十分なのだが、証拠はそれだけではなかった。
英語の辞書である。
これ、別に英語の辞書そのものが証拠だというのではない。それを使って里美が“トランスフォーメーション”の意味を調べたことが証拠なのだ。
神社で稲荷神は、狐のマスクのことを「トランスフォーメーションマスク」と呼んでいた。
“トランスフォーメーション”を日本語に訳すと“変身”だ。つまり、“トランスフォーメーションマスク”とは“変身マスク”のことで、狐のマスクの用途を考えると確かに意味は通る。
だが、英語が苦手な里美は、辞書を引かなければその和訳ができなかった。
言うまでもないが、夢というものは、見る者の知識の範疇だけで形作られるものだ。知らない言葉を正しく使うことなど不可能なのである。
しかし、里美の知らないその言葉を稲荷神は、意味を理解して正しく使っていた。それは、神社での出来事が夢ではなかったという何よりの証拠だったのである。
里美は、狐のマスクから視線を外し、それを部屋のかけ時計へと移した。
時計の針は、七時三十分を指している。
「あ! もうこんな時間!」
大きな声を室内に響かせると、彼女は、狐のマスクと財布をハンドバッグに押しこみ、玄関を飛び出して行った。
この時の里美には、「マスクの効果を試してみよう」などという気は微塵もなかった。
いや、それどころか、「一万円は惜しいが、こんな気味の悪いものは通勤途中に捨ててしまおう」そう考えていたのである。
ところが、僅か五時間後、彼女は自らの意思でマスクを被ることになる。それは、午前の勤務を終えた休憩時間のことだった。
里美の勤め先は、大手の百貨店である。
百貨店といえば、そこで扱われている美しい服飾品に引けを取らないほど、見目麗しい女性店員が多く働いている場所だ。
そのため、「百貨店に勤務している女性はもてる」と勝手な推察をしがちになるが、現実はそうでもない。
店員には女性が多く、社内での出会いが極端に少ないこと。また、販売品の八割以上が婦人向け商品であるため、客層の大部分もまた女性であること。以上二つがその理由である。
男性客も来店しないことはないが、紳士服が目当てでない場合、その大半は妻や恋人へのプレゼントを買い求める客。つまり、彼らには既に相手となる女性がいることになり、恋愛対象とはなり得ないのだ。
里美は、この出会いが少ない職場の中でも、特にそれが皆無に近い婦人服売り場で働いていた。同一フロアには、彼女の他に二十名ほどの店員がいて、交代で接客に従事していた。
午前の勤務が終わり、昼休みになった。店舗自体には当然昼休みがないため、店員は交代で休みを取ることになっている。里美の休憩時間は、十二時三十分から十三時三十分までの一時間だった。いつも彼女は、七階にある飲食店で昼食を取るのだが、今日は外に出る予定にしていた。慌てて出勤したせいで、狐のマスクを捨てるのを忘れていたからだ。「外出ついでに、どこかのゴミ箱にでも捨ててしまおう」そう彼女は考えていたのである。
外に出る前にすませておこうと、里美は従業員専用の化粧室に立ち寄った。
個室に入り用を足す。
すると、そんな彼女の耳に、洗面台のほうから声が聞こえてきた。
声の主は二人。奈々と有沙。どちらも里美の一年後輩で、同じフロアの店員である。
どうやら二人は、世間話をしているようだ。
「ねぇ、有沙、聞いた? サビカンの高木さん、結婚するんだって」
「うん、知ってる。お相手、フロアマネージャーの赤坂さんでしょう?」
亜紀と赤坂の名前。里美は思わず耳を欹てた。因みに、「サビカン」とは「サービスカウンター」の略、一階にある総合案内のことだ。
「そう、赤坂さん。それでね、高木さんと同期の人たちには、昨日、届いたんだって」
「何が?」
「結婚式の招待状」
「招待状が? って、ちょっと待って、高木さんの同期ってことは……」
「そう。里美さんにも届いてるはずなの」
確かに、届いている。奈々の声に答えるように、里美はハンドバッグからくしゃくしゃになった往復はがきを取り出した。
「……だから、か。なるほどねぇ」
何かに思い当たった様子の有沙に、奈々が言った。
「そうなのよ。昨日の里美さん、何か変だったでしょう? 届いた招待状がその理由だったってわけ」
二人の会話を個室で聞きながら、里美は、「奈々と有沙、私のことを気にかけてくれていたのかな?」と、先輩として彼女たちに申し訳なく思うと同時に、その優しさに有り難味を感じ始めていた。
……だが、
「でもさ、赤坂さんって、かなり前から高木さんとお付き合いしていたんでしょう? それなのに、今さら落ちこむなんて……」
そんな呆れたような有紗の声が個室まで響いた。
そこに続けて、
「気づいてなかったみたいよ。里美さんって、鈍感な人だから」
奈々がそう追い打ちをかける。
里美の持つ往復はがきが、彼女の心を映す鏡のように震え始めた。
噂の張本人がすぐ近くにいることなど知る由もなく、奈々は続けた。
「そういえば、私、もうずっと前に里美さんに冗談で、“そんなに赤坂さんのこと好きなら、告白してみたらどうですか?”って言ってみたことがあるの。そうしたら、里美さん、真剣に悩んだあとで、“やっぱり、告白は男の人からしてくれないと。あ、でも、彼って草食系みたいだから、いずれは私からすることになるのかな”、だって。それからすぐだよ、赤坂さんが高木さんと付き合い始めたの。笑っちゃうよね」
「笑っちゃうよね」の言葉どおり、彼女は声を上げて笑った。
「それって、赤坂さんが草食系なんじゃなくて、単に里美さんに興味がなかったってことでしょう」
有紗も一緒になって笑う。
二人の笑い声は、里美の胸の奥深くに突き刺さった。
……もう限界だ。
―バンッ―
これ以上ないというほどの大きな音を立てて、里美は個室のドアを開けた。
「……さ、里美さん」
彼女の姿を目に留め、奈々が何とか喉からそう絞り出す。
「……」
里美は、黙って二人を睨んだ。
「あ、あの、私たち、ご飯食べに行ってきます。……奈々、行こ」
怯えたような表情で有沙が奈々の手を引く。二人は、慌てて化粧室を飛び出して行った。
誰もいなくなった化粧室に、里美独りが残された。
「あ、そうだ。手、洗わないと」
抑揚のない声で呟くと彼女は、洗面台へと向かい蛇口をひねった。
流れ出る大量の水に、零れる涙が混ざって下水へと落ちて行く。
里美は、正面の鏡に目をやった。
そこには、吐き気を催すほど惨めで情けない女が立っていた。
「何で、相田里美なんかに生まれちゃったんだろう」蛇口の水を両手で掬い、里美は、それを鏡へとかけた。
その時、水滴でぼやける鏡に、彼女の後方を通るひとりの女性の姿が映った。
……亜紀だ。
慌てて里美はふり返ったが、それに気づくことなく亜紀は個室へと入って行った。
これは神の思し召しか、それとも悪魔の悪戯なのか。偶然にも、化粧室内は里美と亜紀の二人きりとなった。期せずして、マスクを被る絶好の機会が到来したのである。
里美の手は、ハンドバッグの中にある狐のマスクへと自然に伸びていた。
「さようなら、相田里美」
鏡の中の自分にそう告げると、里美は迷うことなくマスクを被った。
直後、神社で稲荷神から放たれたものと同じ薄紫色の光が、彼女の全身を包みこむ。
光は一度大きく輝くと、やがて静かに消えた。
辺りは蛍光灯の明かりだけが照らす普段の化粧室に戻った。それとほぼ同時に、大きなゴミ箱が乗った台車を押して、中年の女性が入ってくる。
中年女性は里美に、
「あら、亜紀ちゃん。こんにちは。今からお昼?」
と声をかけた。
そうなのだ。里美は、亜紀に変身できていたのである。
「こ、こんにちは。はい、そうです。今から」
声まで亜紀になっている自分に驚きながら、里美は、当たり障りのない挨拶をして横を通り抜けた。
だが、すぐに背後から、
「あ、ちょっと待って。忘れものよ」
と呼び止めが入る。女性の手には、里美のものではないハンドバッグが握られていた。
「え、えっと、あの……」
困り顔を浮かべる里美に、女性はハンドバッグを手渡しながら言った。
「これ、赤坂君から貰った大切なバッグなんでしょう? だめよ、洗面台なんかに置き忘れちゃ」
「ど、どうも」
会釈するのと一緒に、里美は、そっと洗面台へと目をやった。
置いていたはずの自分のハンドバッグが消えている。どうやら、狐のマスクで変身すると、その所有物も変身した者の手に移る仕組みになっていて、これまで所持していたものは、変身された相手とともに消えてしまうらしい。
現状を整理している最中の里美に、中年女性は、
「それじゃあ、おばちゃんはまだお仕事があるから」
と言い残し、化粧室の奥へと去って行った。
「あ、はい。あの、ありがとうございました」
ぼろが出る前に話が終わったことに安堵しつつ、里美はそそくさとその場を離れた。
三十秒後。
「もう、誰なの? こんな子供みたいな悪戯して……」
誰も入っていない個室にかかった鍵を必死に開けようとする中年女性の声が、化粧室に響く。
そこは、里美が変身する前に亜紀が入ったあの個室だった。
休憩時間が終わり、午後の業務が始まる。
亜紀の姿となった里美は、婦人服売り場ではなく、サービスカウンターに座っていた。まったく分からない仕事内容には戸惑いもあったが、それはそれで、彼女にとって新鮮だった。
こうして、相田里美は、この日より高木亜紀としての人生をスタートさせたのだった。