第一章 『始まりは夢のように』①
第一章 『始まりは夢のように』
皐月特有の穏やかな風が通りには吹き抜けている。
住宅街の細い路地を相田里美は千鳥足で歩いていた。
現在の時刻は、午前零時。深夜である。周囲の民家は既に明かりが消えていて、街路灯だけが寂しげに道路を照らしていた。
「……はぁ」
ふと足をとめ、里美は、新月の夜空に瞬く星を見上げて深く溜め息をついた。それから、通勤用のハンドバッグへと視線を落とし、一枚の紙を取り出す。
それは、往復はがき。題字には『結婚式・披露宴のお誘い』とあり、新郎新婦の名が併記されていた。
新郎の名前は、赤坂智也。新婦は、高木亜紀。
「私、亜紀になりたい」
呟く彼女の両眼から零れた幾粒もの涙が、手に持つはがきへと落ちていく。
「赤坂さん、どうして私を選んでくれなかったの?」
湿り気を帯びたはがきを強く握り締めると里美は、すぐ真横にある民家の板塀を思い切り蹴飛ばした。
もちろん、普段の彼女は決してそのようなことをする女ではない。
だが、酔った勢いというのは恐ろしいものなのである。
板が古かったからか、女性の力にしては存外大きな音が深夜の通りに響いた。
その途端、周辺の飼い犬たちがそれに呼応するかのように遠吠えを始める。
「ど、どうしよう」
里美は青ざめた。もし、今、巡回中の警察官に出交して職務質問でもされようものなら、「ふられた腹いせに板塀にキックして、犬に吠えられていたところです」と、間抜けな返答をしなければならなくなってしまう。
「逃げなきゃ!」鈍る頭でそう判断した里美は、よろめく足取りで何とかその場を離れた。
十字路をひとつ越え二つ越え、里美は自宅マンションの近くまでやってきた。
ところが、
「……え?」
彼女は首を傾げた。右斜め前方に建っているはずのマンションが、どこにも見当たらなかったのである。
「あれ? おかしいな。家路が分からなくなるほど、飲んだつもりはないのに……」そうは思いながらも少し反省し、彼女はおもむろに辺りを見回した。
そこには、見覚えのない風景が広がっていた。住宅街であることに間違いはないのだが、普段目にしているそれとはまったくの別物だったのである。
頭にたくさんのクエスチョンマークを浮かばせて、今度はきた道へとふり返る。
「う、嘘でしょう?」
そう口にする里美の声は、震えていた。
それもそのはず、今し方歩いてきたばかりの道の先が、コンクリートの壁で塞がれてしまっていたのだ。
板塀を蹴飛ばし逃げ出した場所からここまで、真っ直ぐに進んできた。一度も曲がってなどいない。それなのに、何故?
思わず叫びたくなる恐怖を堪えながら、里美は早足で歩きだした。「取り敢えずこの路地を抜け、大通りに出よう。そうすれば、私がいる場所も分かるはず」そう彼女は考えたのである。
しかし、十分をすぎても路地に終わりはやってこなかった。それどころか、これまでに幾度か目にしていた十字路も今では完全になくなっていた。
こうなってしまっては、ひたすらに延びる細い直線の道をただ進むより他にない。
しかも、道の両側はいつの間にか背の高い塀に挟まれ、近隣の民家に助けを求めることもできなくなっていた。
大量のアルコールに加え、歩き続けているせいでの疲労も蓄積されていく。強烈な睡魔に襲われながら、それでも里美は恐怖に背を押されるように先を目指した。
道に変化が起きたのは、それから五分後のことだった。
突然道路が途切れ、その先に階段が現れたのである。
階段は石段。百段ほどが続いており、見上げる頂上には朱色の鳥居が確認できた。
ここからではよく分からないが、恐らく、鳥居の向こうには神社があるのだろう。
周囲の景色に反して、その階段や鳥居は、まるで自己主張をしているかのように、暗がりの中で淡い光を放っていた。
闇夜に浮かぶ石段、朱色の鳥居。それらに何となくの気味悪さを覚えた里美は、「戻ったほうがいいかな?」と考えたが、その途中で大きく頭をふった。思い出したのだ。先ほどふり返った路地が、壁で行き止まりになっていたことを……。
分かっているのに行き止まりの道を選ぶのか。それとも、暗がりに光る階段か。
迷うことなき二者択一に、里美は、神社へと続く石段をゆっくりと上り始めた。
息を切らして最後の一段を越えると、やはり朱色の鳥居があった。階段の下からも見えていたあの鳥居だ。間近で見るそれは驚くほどに大きく、八メートルぐらいの高さがあった。だが、それ以上に里美が驚いたのは、その先に見える参道。石畳の道を覆うアーチのように、同じ朱色の鳥居が延々と続いていたのである。
「これが、千本鳥居ってものなのかな?」
たまたま持っていた知識を里美は声に出した。
そう、それは千本鳥居。並ぶ鳥居の数々は、祈願が叶った礼として参拝者が神社に奉納したものである。そのため、「千本鳥居」と言ってみても、実際に千基の鳥居があるというわけではない。数基しかないものがあれば、京都の伏見稲荷神社のように一万基を超えるものまである。因みに、千“本”鳥居と書くが、鳥居の正確な数量呼称は“基”である。
何かに誘われるかのように、里美は、千本鳥居に足を踏み入れた。
長く続く鳥居は、まるでトンネルのよう。そこを彼女は、ただ真っ直ぐに進んで行った。
約二百基の鳥居を抜け、里美はようやく正門へと辿り着いた。
門の前には左右一体ずつ、二体の石像が鎮座している。それは、神社でよく見かける狛犬ではなく狐の像だった。
じっとこちらを見張っているかのような二体の狐。その間を里美が通り抜けようとする。
すると、
「ようきたのう。待っておったぞ」
突然、左側にある像の陰から声が聞こえてきた。
「だ、誰?」
思わず身構える里美の前に姿を現したのは、身の丈から判断するに、五歳ぐらいの幼い子供であった。恐らく男の子なのだろうが、はっきりとは断言できない。何故なら、その子供は、男女の区別がつきにくい絣の着物を身に着けていて、頭から首までがすっぽりと覆われた狐のマスクを被っていたからだ。
「こんな時間に、何をしているの?」
狐のマスクに異様さを感じはしたものの、相手が子供であることに安心を覚え、里美はそう尋ねた。
「何をしているとは、奇天烈な問いをする。じゃから、待っておった、と言うておろうが」
「待っていた、って、私のことを?」
「そうじゃ」
マスクを被った大きな頭で、子供はこくりと頷いた。
それから、
「詳しい話をしてやるでな、ついて参れ」
とだけ告げると、彼女をその場に残し、そのまま先に行ってしまった。
「あ、ちょっと待ってよ。私、お家に帰りたいの。『フレデール』っていう名前のマンションなんだけど、知らないかな? そこが私の……」
慌てて里美が話しかけるが、子供は何も答えずに正門のさらに奥へと進んでしまう。
「何なの、あの子。話し方は変だし、狐のマスクしてるし、その上、愛想もないし……」遠ざかる子供の背中に心の中で文句を言うと、里美は顔をしかめて舌を出した。
しかし、すぐにその舌は口の中へと引っこみ、表情は固く凍りつく。歩いているはずの子供の足が、まったく動いていないことに気がついたのである。例えるなら、それは、まるで氷の上を滑っているかのようだった。
もっとしっかり確認しようと里美が目を凝らす。
だが、その時には、もう既に子供の姿は見えなくなってしまっていた。
「飲みすぎね。きっと、そうよ」そう無理やり自分に言い聞かせると、彼女も正門をくぐった。本当ならば、あんな気味の悪い子供について行くなど御免被りたかったのだが、他に頼れる者もいないため、仕方がなかったのである。
一般的な神社と同様、正門の先は境内になっており、その奥に拝殿があった。
狐のマスクをした子供はといえば、とうに拝殿の前にいて、こちらを見ながら手招きをしている。
「何て足の速い子なんだろう」驚愕しつつ、里美は子供の傍へと歩み寄った。