⑦
虫の音が大きくなったような気がして、俺は馬上で顔をあげる。
公爵邸の近くは城下町の中でも閑静な上、草木も多い。
そのせいか、季節の移り変わりがわかりやすい。
宵が深まり暗くなってきたのもあるのだろうが、この辺りではもはや、晩夏の蝉は鳴かないようだ。
レーニャと別れを言ったあの日以来、別に何かが変わった訳ではない。
今まで通り務めに精を出し、夜になると寝酒代わりに蒸留酒を嘗めて強引に眠り、夜明け前に起き出して剣と護身術の鍛錬をし……また務めに精を出す。
変わらない、そう何も変わらない。
ひと月ばかりそんなことをくり返していたある非番の日、だし抜けにトルーノが誘いに来た。
「街で晩飯を食いながら、一杯飲もうと思っているんだ。そろそろ葡萄酒の新酒が出回る頃だろう?」
「新酒の時期はもっと後だろう?」
ややあきれながら俺はそう言ったが、トルーノは、いいから付き合えと強引に俺を街へ引っ張って行った。
そしてふたりで馬鹿話をしながらたらふく食い、しこたま麦酒や葡萄酒を飲んだ。
完全に酔いが回った後、べそべそとレーニャのことを愚痴った覚えがかすかにある。
が、トルーノは何も言わず俺の情けない話を聞いてくれ、何も言わずに酔い過ぎた俺を介抱して、宿舎へ連れ帰ってくれた。
かすかに神山の雪の気配を感じる晩夏の風に吹かれながら、俺は、苦くも甘い追憶を振り払う。
あれから『娼館』と名のつくところへ遊びに行かなかった訳ではないが、以来、馴染みの女を作ることはなかったし、そもそも行きたいと思うこと自体、稀だった。
ああいうところへは、やはり野暮な人間は行くべきではない。
経験としてはいい経験になったが、金を出して女と肌を合わせるのは俺の中でどうしても、純粋に『遊び』として捉えられないようだ。
女と肌を合わせるのなら愛情を感じる相手としたいし、愛情を感じる女の身体と時間を、金で買うような真似もしたくない。
もっともレーニャに恋をしていたのかと訊かれれば、今の俺の感覚では、苦笑い含みに否と答えるだろう。
あれは恋に近いが恋ではない、強いて言うなら、子犬が優しくしてくれた人間に懐く感覚に近いと思う。
彼女に本気で恋をしていたのなら、昼間の光の中で笑う彼女を見たいと思った段階で、何らかの行動に出ていた筈だ。
床にすりつけるほど王子に頭を下げ、彼女の身請けに必要な金を用意するくらい、あの頃の俺でも出来たはずだ。
今のかみさんの為ならば、俺は、たとえ可能なことを超えていても何かしようとするだろう。
差し出せと言われれば、それこそ手足でも命でも、何でも差し出すだろう。
公爵邸の玄関が開く。
いつも通り公爵夫人とお子様方が公爵を迎え出ていた。
ほっとしたように頬をゆるめる公爵。
夫人に軽くくちづけ、上のふたりのお子を順番に抱きしめた後、守り役である俺のかみさんの手から、満面の笑みで赤子を受け取る。
公爵閣下ともあろうお方が、眠いのか少しぐずる赤子を優しくゆさぶり、一生懸命話しかけている姿は少々滑稽だが、ほほ笑ましい。
「お帰りなさい、あなた。お腹空いたでしょう?」
かみさんが俺を見てほほ笑む。
『お帰りなさい』という当たり前の言葉に、心がやわらかくほとびる。
そういえば、レーニャにかけられた言葉はいつも『いらせられませ』だったと改めて思い、ハッとする。
彼女も今は、『お帰りなさい』を言っているだろうか?
食堂へ向かうミーナと一緒に、廊下を歩く。
ものの煮えるにおいがあたたかく鼻腔をくすぐり、腹が鳴った。
その瞬間、何故か不意にミーナを抱きしめたい衝動に駆られた。
が、立ち止まって耐えた。
「どうしたの?」
急に立ち止まった俺へ、訝しそうにミーナは振り返る。
俺は首を振り、何でもないよと言って、笑った。