⑥
彼女との別れは、断ち切られるように唐突だった。
少なくとも、当時の俺にとってはそうだった。
……以来、俺はちょくちょくレーニャに会いに行くようになった。
衣食住は最低限保証されている住み込みの宮仕えだ、貰った給金の使い道もさほど多くない。
酒は、成人後主人から下賜されるようになった蒸留酒を嘗めていれば事足りたし、元から賭け事に興味はなかった。
剣の鍛錬以外、趣味らしい趣味もない面白みのない野郎だから、特別気を付けていなくてもぼちぼち金はたまってゆく。
それでもレーニャのいる娼館は、新人護衛官風情が頻繁に通えるような安い店ではない。
ひと月あるいはふた月に一度、通うのがせいぜいだった。
でも今思えば、それくらいでちょうど良かったのだと思う。
あの店のあの部屋へ行けば、薄暗がりの中で静かに異国の弦楽器を奏でている彼女と会える。
いらせられませ、という低い声、ガラスの盃に入れて差し出される花の香りがする甘い酒に、ああ帰ってきたという気分になり、ほっと気が抜ける。
俺にとって彼女と会うのが、日常生活の中のかけがえのない息抜き、癒しになり始めていた。
金を払えば確かに彼女と会えるが、会う為には金を払わなくてはならない。
俺と彼女は客と娼妓なのだからそれで当然だが、もやもやする。
いつの間にか俺は、『レーニャ』という通り名の娼妓と遊びたいのではなく、彼女本人、つまりひとりの女性である彼女とちゃんと知り合いたいと思うようになり始めていたのだ。
宵の薄闇や夜明けの薄明かりの中だけでない、昼間の強い光の中で立つ彼女。
商売上の作った笑みではなく、心の底から明るく笑う彼女。
そんな彼女を見てみたい。
彼女の年季はいつ明けるのだろうかと、本気で身請けするつもりも甲斐性もないくせにちょいちょい思い始めたのは、十八になった夏頃だった。
その日。
晩夏を知らせる蝉の声を聴きながら、俺は馬で色町へ向かった。
懐の隠しには、油紙で包んだ黒糖のかけらが入っている。
毎年夏を過ぎる頃、王子の母君の郷里から黒糖と蒸留酒が送られてくる。
俺を始め王子の従者たちに、その黒糖や蒸留酒が下賜されるのが通例だった。
今回は昨日、俺たちにそれらが渡された。
そう多い訳ではないが、ラクレイドではさとうきびから作った黒糖や蒸留酒は珍しいので、売ればそこそこ小遣いになる。
もちろん、自分で飲み食いしてもいい。
俺はいつも、蒸留酒は自分で飲むことにしていたが、黒糖は宮殿へ出入りしている商人に譲り、代わりに石けんや武具の手入れに使う膠なんかと交換していた。
だが今年、黒糖のかけらを見ているうちにふと、レーニャにあげれば喜ぶだろうかと思った。
彼女は十歳になる前にこちらへ渡ってきたそうだが、小さい頃に食べた黒糖で作った菓子を今でも思い出す、といつか言っていた。
「ラクレイドではあまり黒糖が出回っていませんから、もう食べることもないでしょうね」
そう言ってほほ笑んだ彼女が、少し寂しそうだったので印象に残っている。
俺は、下賜された黒糖のかけらのうち小さいものを幾つか取り除け、油紙で丁寧に包んだ。
「実はタイスン様にお会いするのは、これが最後になると思います」
いつも通りに酒を勧められ、口に含んですぐそう言われ、思わず噴きそうになった。
「私がこちらでお世話になったころから贔屓にして下さっている方が、この度、身請けして下さることに。もう少しは王都にいますけど、近々その方と一緒に、田舎にある荘園へ行くことになりました。タイスン様には贔屓にしていただいていましたので、出来ればご挨拶をと思っておりました」
それが叶って嬉しく思います、と言う彼女の笑顔が、今まで見た中で一番といっていいくらい綺麗だった。
俺は盃を置き、一生懸命笑った。
「そう…か。お幸せに。いやでも、寂しくなるなあ」
一生懸命、そう言って俺は笑った。
翌朝。
すきっ腹を抱えて俺は、馬で帰る。
最近は彼女と一緒に朝めしを食っていたけど、今日は急ぐからと言って食わずに帰ってきた。
そして祝いだからと言って、遠慮する彼女の手にいつもよりかなり多めの心付けを渡してきた。
お陰でしばらく、俺は素寒貧だ。
何の気なしに中空を見上げる。
朝焼けに染まる神山を見ているうち、懐に入れていた油紙の包みを思い出した。
馬を止め、懐から包みから出し、黒糖をかじる。
歯も溶けそうなほどの甘みの中に、かすかに苦みと渋みを感じる。
不意に泣きたい気分になったが、奥歯でしゃにむに黒糖をかみ砕き、落涙はどうにかとどめた。




