⑤
その後しばらく俺は、この初めての店を含め、娼館へ行くことはなかった。
そんな気分になれなかったというべきだろうか?
成人の儀を終えたばかりの頃の俺は、正式にはまだ『護衛官見習い』であり、本当に護衛官として務められるか複数の現役護衛官から私生活を含め試されている最中だったので、とにかく気が抜けなかった。
秋にめでたく任官された後も、こまごまとした慣れない仕事は増えるし次々と大変なことは起こるし、おまけに俺自身も身体を壊して寝込むなど、娼館へ遊びに行くような精神的余裕もなかった。
それに、実際に経験してみてつくづく思ったが、俺はこういう遊びに向いていない。
未経験の頃のような、どこか切羽詰まった嫌悪感(そう、あれは要するに嫌悪感だったのだ)は薄れたが、だからといって積極的にそういう遊びをしたい気にはならない。
我ながら自分の潔癖さにうんざりするが、こういう部分を金で解決することそのものが、理屈抜きでうとましいというか……虚しい。
別に清廉を気取る気はないし、娼館やラクレイドのしきたりそのものを否定する気もない。
だが、虚しいと思ってしまう気持ちに嘘は吐けない。
もやもやはこれまで通り、自分で適当に処理していた。
ただその時、あの日の彼女の肌の感触や色っぽい低めの声、朝の光の中で笑むあどけない目許なんかを思い出すと、苦しくなった。
「いらせられませ。お久しぶりですね、お客様」
レーニャはそう言い、あの日のように楽器をかたわらに置いた。
薄暗い部屋にたかれている香は、あの日と同じ甘い香りがした。
一年経って十七になった俺はふと、あの時の娼館へ行ってみる気になった。
何故なのか自分でもよくわからない。
仕事が上手く回るようになり、十六の秋から冬にかけてのごたごたや体調不良も解消され、落ち着いてきたのが理由のひとつなのかもしれない。
「俺を覚えていたのか?一年くらい前、一回来ただけの客なのに」
やや意地悪くそう言い、俺は彼女の向かい側の椅子に座った。
ほのかに笑んで盃に酒を満たしながら、彼女は答えた。
「ええ。お客様は印象深い方でしたから」
大方、こんないい男を忘れる訳がないとか何とか、おためごかしを言うつもりだろうと思ったが、彼女の答えは違っていた。
「とても苦しそうでいらっしゃいましたので。最初は緊張していらっしゃるのかと思っていたのですけど、緊張より苦しさの方がお強いようでしたね」
俺は一瞬、絶句した。
彼女は盃を勧め、静かに言葉を続ける。
「商売柄、新人官吏のお客様に何度かお会いしておりますが、緊張して怒りっぽくなられる方、恥かしさを持て余してこちらを蔑むようなそぶりを見せる方などに、たまにお会いします。でもそのどちらでもなく、ただただ苦しそうにしてらっしゃる方にお会いしたのは初めてでしたので」
「苦し……そう?」
「ええ」
彼女の焦げ茶の瞳は、静かに俺を見ていた。
「こう申し上げるのは失礼かもしれませんが、私にはお客様が、とても苦しんでいらっしゃるように見えました」
俺は頑張って笑んでみせ、盃の酒を干した。
「……別に、単に緊張してただけだよ。今だって緊張してる、俺は根っから野暮だし」
彼女も盃を干すと、柔らかく笑んだ。
「本当に野暮な方は、ご自分で野暮とはおっしゃらないものですよ」
それ以上、何か特別な事を言われた訳ではない。
後はなしくずしに娼妓と客の時間になった。
夢うつつに、幼い日に見た幸せそうな王の笑顔を思い出す。
俺が仕えている王子の母君は、王の側室としてレーンから来られた、黒髪に浅黒い肌の女性だった。
お二人は仲が良く、子供心にも互いに愛しく思いあっているのが伝わってくるたたずまいだった。
腕の中に彼女を包み込んで脚を絡ませ、細い肩にそっとくちづけながら俺は、王がかの方を抱いている時、こんな感じだったのだろうか、と密かに思った。