①
厩舎へと向かう途中、俺は夕闇の中でふと立ち止まり、神山ラクレイを見上げてひとつ大きく息をつく。
晩夏を知らせる蝉の声が、赤みの強い橙色の光の中、なんとなく物悲しく響いていた。
夏が終わる。
色々あった夏……いや。
ここ一年が、ようやく終わろうとしている。
去年の秋にセイイール王がお亡くなりになって以来、混乱を極めていたラクレイドも昨今、落ち着きを取り戻しつつある。
ルードラントーとは停戦協定を結び、取りあえずの平和が担保された。
こちらを裏切っていた隣国のデュクラータン王朝は内側から崩壊し始めていて、もはやラクレイドの敵でなくなりつつある。
裏切り者と手を組んでいたのではと、痛くもない腹を探られるのを恐れ、保守派に与して幅を利かせていた年寄り連中は逃げるように引退し、その子や孫の世代が宮廷の中核を担いつつある。
まだまだ新体制の足許はおぼつかないし、執政の君のご体調が盛夏を過ぎた頃からよろしくないなど、懸案事項はないでもない。
しかしそれでも、暗闇の中で必死にもがいていたようなこれまでと違い、先行きに淡い光が見え始めている。
少なくとも俺はそう思う。
レーンに疎開していた公爵の家族と俺の家族も、一ヶ月ほど前に迎えに行き、こちらへ戻った。
その辺も、俺にとっては『先行きの光』だ。
無理矢理引き裂いて遠くへ置いてこざるを得なかった、自分の身体の半分が戻ってきたような。
常に欠けていた部分がやわらかく満たされたような。
家族がそばにいるというのは、俺にとってそんな感覚だ。
懐妊中の奥方と長く離れて暮らしていた公爵は、俺よりずっと心配だったろうし、焦燥や欠落感もより切実だったろう。
奥方があちらで産んだ、自身によく似た黒髪の姫さんに今、公爵は夢中だった。
屋敷へ帰ると公爵は、まるで会えなかった時間を取り戻そうとするかように、暇さえあれば赤子を抱いている。
時には寝かしつけまでしたがり、守り役である俺のかみさんにあきれられているくらいだ。
俺と秘書官のコーリンは内心、ほっとしている。
俺以上に公爵は、家族がそばにいないと駄目な男だ。
奥方とお子がそばにいるお陰でやっとあいつは、自分が人間であることを忘れずにいられるらしい。
自分が人間であり、心にも身体にも限界があるのだということを、頻繁に家族の顔を見ることであいつは、なんとか忘れずにいられるらしい。
公爵邸へ戻る主人を乗せた馬車のそばを、俺は馬に乗って従っている。
護衛であり、帰宅でもある。
こうして朝夕同じ道を通っていると、季節の変わり目が肌で感じられるものだ。
じわりじわりと汗がにじむ、夏独特の湿度を含んだよどんだ空気を切り裂くように、時折、はっとするほど清新な風が吹く。
神山から降りてくる空気に、かすかに雪の気配が混ざり始めている。
蒸れた空気にひそむ、冷ややかな気配。
鼻をくすぐるそれに、俺はふと思い出す。
遠い日の、鈍い疼きを。