「疾風を感じる」
焼けつくような日差しが4百メートルトラックに照りつける。
初めての中学校陸上競技大会に胸が高鳴る。
徒競走は小学生の時は学年でトップだった。
ゴール間際では誰の背中も見ることはなかった。
走りに自信があったのは確かだ。
でも、今ここでレーンに並んでいると自信が揺らいでくる。
精悍な目をした選手たちは一言も言葉を発せず、ゴールだけを見つめている。
マイクアナウンスで競技進行が短く告げられ、号砲が打ち鳴らされた。
僕は思いっきり地面を蹴り素早く腕を振った。
「行ける!」と思ったのも束の間、右隣のレーンのやつが先行した。
くそっ! という思いが空回りする。
右となりレーンのすぐ前、手の届く距離にある”あいつ”の背中を追いかける。
だが、届かない。
あいつの背中が少しづつ小さくなっていく。
あいつがゴールを踏んだ時、競技場は拍手と歓声に包まれた。
観客席にいるみんなの見つめる先にはあいつの姿があった。
僕の大会はそれで終わり、先輩たちの競技が終わるのを待った。
それから肩を落としながら電車に揺られ、夕方に地元の駅に着いて解散。
その帰り道、一学年上の女子の先輩と一緒になった。
しばらく一緒に歩いていたら思い出したかのように先輩が声をかけてきた。
「今日は残念だったね。でも誰だって最初はこんなもんよ」
「……。はい」
「もっとフォームを固めるといいわよ。最初の数メートルは上体が起きないように前傾姿勢で我慢。だんだんと上体を起こしていく。そして全身で思いっきり疾風を感じるのよ」
「……。は、はい。」
「ねえ、目を閉じて」
先輩は急に立ち止まり僕の右手を掴むと何かを握らせた。
「元気だしなって。私も泣き虫だけどキミほどじゃないわよ。今日はここでお別れね」
先輩は笑顔で振り返りそのまま走って行った。
夕日を浴びた先輩の後ろ姿が滲むように輝いて見えた。
その時、自分の目から涙がこぼれていることに気がついた。
ふと思い出し、握っていた右手を開けてみると一粒のキャラメルがあった。
夕日に照らされた一粒のキャラメル。
僕はキャラメルの包を開けて、口の中に投げ込むようにしてキャラメルをほうばった。
甘い香りに少し塩っぱい味が混じっていた。
キャラメルの甘さが口いっぱいに広がった瞬間、胸に熱いものが込み上げてきた。
一年後の中学校陸上競技大会。
僕は同じグランドに立っていた。
会場は割れんばかりの大歓声に包まれている。
一年前と同じようにレーンに並ぶ、スタートラインに見覚えのある背中があった。
去年優勝したあいつだ。
号砲が鳴り響き一斉にスタートした。
一瞬、先輩の声が頭によぎった。
「序盤は我慢。上体が起きないように足を胸元に引き寄せる」
「中盤、上体をゆっくりと起こしながら地面を蹴る」
「そして、全身で思いっきり疾風を感じる」
僕の心の中に先輩の言葉が木霊する。
その瞬間、僕は自分の中心を掴んでいた。
流れ去る風景をよそに会場は誰もいないかのように静まり返っている。
その時僕は疾風を感じていた。
目の前には誰もいない。
ゴールまであと少し。
ふと気が付くと、その先で先輩が両手を上げて叫んでいるのが見えた。
僕は疾風とともにゴールした。
すぐに先輩が僕のところまで駆け寄ってきた。
「やるじゃない。優勝おめでとう!」
その時初めて、会場中の拍手と大歓声が自分に向けられていることに気がついた。