第一章 壱の壱 雨朝の太陽
九月の寒い朝の事。私はいつもの時刻、いつものベッドの上、いつもの様に目を覚ました。
外はいつもの様に雨模様で、止む気配すら無い。
それは何の変哲も無い日。先週と変わらぬ、気だるい水曜日だった。
「相変わらず、鬱陶しいな……」
そう呟く自分の声。
この呟きが、止まない雨についてなのか、自分を取り囲む全てについてなのか、
自分でも良く分からない。
或いは、そうした事を取り留めも無く考える、自分自身についての呟きかもしれなかった。
私は一つ溜め息を吐くと、鬱陶しい考えを放り投げる為、年相応に手足をばたばた振り回す。
その行動が何を解決する訳も無い無駄な事だと分かってはいたが、少しは気持ちも晴れるだろうと。
だが、そう上手くはいかない。
無駄な事をすれば、余計な災難が降りかかる。
私はその道理を失念していた。
その報いは、すぐに私へと降り掛かる。
白く薄い粉上の報いだ。
「げっ……埃が」
私は報いを吸い込み、大きく咳き込む。
私の咳の振動で大きく揺れる、板切れに似た安物のベッド。
そして、次の報いが起こった。
ベッドを支えていた、壁に繋がる二つの鎖が鈍い音を立てて切れたのだ。
当然、そうなってしまってはベッドが私の体重を支え切る事など無理で、私はベッドと共に真っ逆さま。床と強烈な抱擁を交わす。
私は転倒後、揺れる頭をすぐ起こし、周りを見渡した。
店主が騒ぎを聞き付け、起き出してこないかと肝を冷やした為だ。
体を回し、二周視界を回し、私は安堵する。
どうやら、店主の耳には騒ぎが届かなかったらしい。
今は大丈夫だ。怒られるのはもう少し後だろう。
私は取り敢えず、ベッドの残骸をコンロの下に押し込み、食堂への扉を開ける。
錆びた鉄製の扉は動かすと、老婆の金切り声を思わせる音を奏でた。
何度聴いても不快な音だ。慣れない。
通過儀礼を済まし、食堂の中へと入ると空気中の埃の多さにたじろいでしまう。
こんな埃まみれの空間で、食事がしたいと思う客が少数でもいる事が驚きだ。
私が客だったら、一度入り口から食堂に入った瞬間に目を閉じ、耳を塞いで、店内から跳び出し、看板を蹴倒してからそれに唾を吐いて帰る。
それくらいされても文句は言えない環境だろう。このレストランブガーの環境は。
心の中の愚痴はこれくらいにして、支度をするべきか。
支度を怠れば、それこそ、店主にこっぴどく叱られてしまう。
開店の支度に差し当たって、まずは私の支度から。
木製のテーブル群を掻き分け、赤茶色に変色したロッカーへと足を進める。
それを開け、その中から掃除用具に埋もれた自分のエプロンを探し出し、引き出し、汚れの増えたエプロンに対して何の躊躇も無く、袖を通す。
エプロンは汚い事この上ないが、これについてはもう慣れた。
一連の流れの一部として違和感すら感じない。
エプロンをかけ、ロッカーに申し訳程度に付けられた小さい鏡を見ながら、乱雑に髪を弄繰り回し、肩に付いた埃を叩き落とす。
これで私の支度は完了だ。
次に店の支度をしようとロッカーから振り返ると同時に、厨房への扉がまた開き、不機嫌そうな髭面が顔を覗かせた。
彼こそがこの店の店主、巨悪の根源である通称、髭男爵。
またの名を志位忠弘。
この恰幅の良い男は四年前、死に掛けていた私を救ってくれた命の恩人だ。
だが、断じて尊敬に値する人物では無い。
客の前ではニコニコしているが、その実、従業員を奴隷の如くこき使い、自分は碌に働きもせず夜ごと街を遊んで回る外道である。
私を助けたのだって、私を見付けた時に私が女だと思い込み、挙句連れて帰れば好き勝手出来ると思ったからなのだ。
この理由を聞いた時から、私はこの男を絶対に信用しないと心に決めている。
志位が口を開くと、口内の唾から構成される白い糸が食堂の明かりに照らされて、その存在を主張する。
「もう起きてるのか。早いなあ、僕ちゃんは」
からかう様な口調に眉を顰め、私は言葉を返す。
「開店まであと一時間ですよ。全然早くなんかありませんから」
「あれ……なんか反抗的だねえ」
しまった。志位を怒らせたか。志位は怒ると何を仕出かすか分かった物では無いのだ。
私の今後の為に謝っておこう。
「すいません、店主さん。そう言うつもりじゃないんです……」
「まあいいや」
――等と言う志位の顔からは、全然“まあいい”と言った感情が見受けられない。
「ああ、そうだ……買い出し行って来てよ。トマト缶がもう無くてさ」
「トマト缶……ですか」
厨房のコンロの横に、山と積まれているのを見た気がするが。
「ああ、あとさ。香辛料も買って来て。これは本当に無いんだ」
トマト缶が実は足りている事を認めたな。
私の立場では、そこから追及する事は出来ないけど。
「分かりました」
そう了承するしか無い。
私は衣食住を彼に握られている。だから、逆らえない。
「オレガノは明治通りの店にしてね。他の香辛料はいつもみたいに言問通りの店でいいから」
「はい」
「青い小瓶だからね。分かった……?」
執拗に念を押して来る志位に違和感を覚える。
いつもは「食材なんて何処のでも同じだ」なんて言う志位が、今日はどんな風の吹き回しだ。
私に面倒を掛けたいだけだろうか。
違和感はあった。けれども、私はただ……「分かりました」と返すだけだった。
この違和感を気にするのはきっと無駄な事で、余計な災難をまた招くだけだろうと。
しかして、この選択は間違いだった。
私が放置したこの違和感の正体は、二週間と二日後、私の周りにて大きな災難を振り撒く事となる。




