お兄ちゃん
ヒタヒタ…ひた…――。
「…ん〜?なんだ、この音は…?」
ひた…ひた…――。
「足音、か?子供のようだなぁ」
僕は首を傾げて、足音のするほうへ視線を走らせた。
「…ああ、やっぱり子供か。あれは小学生くらい?」
ぼんやりと霧がかかった視界に、九歳くらいの子供のシルエットを捉えた。
ぺたぺたと、裸足なのか…素足で地を行く音だった。
僕はぐるりと辺りを一度見渡して、至近距離にいた藤姫に話しかけた。
「ねぇ、あれ…あそこにいるのって子供だよな。どうしたんだろ?」
僕が怪訝な顔で子供がいる場所を示すと、藤姫もそちらのほうに目をやって『ええ、そうね』と、意味深に片目を眇めた。
そして、何であんな小さな子が…と、眉を潜めている僕を見て、クスクスと笑い出した。
「和紗、解ってると思うけど小さい子も人間よ?悩みの一つや二つあるはずだわ。でも、あの子がここにいるってことは、この世界に繋がってしまうほどの…余程深刻な悩みがあるのね。――和紗…今、どうしてこんなに霧のようなものがかかってるのだと思う?」
「ぇ…えーと。それは……どうして?」
僕が聞き返せば、藤姫は顔を僅かに歪めた。
「――この世界が、あの子を吸収しようとしているからよ。余程重いものなのかしら?…それともただ単に、あの子の気が小さいからかしら?まだ小さな子供だから、この世界が簡単に取り込んでしまえると判断して、早々にその存在を無くしてしまおうとしている。この世界は悩める者を欲しているから、あんなに小さくて重い悩みを持っているなんて格好の餌食ね」
腕を組み合わせ、皮肉気に口端を吊り上げた藤姫は三歩歩みを進ませ、僕を肩越しに振り返った。
「和紗、貴方はあの子を知っているはずだわ、きっと。あの子は貴方の身内じゃないかしら?それもより近くにいた人物で、ということを踏まえると兄弟?」
突然問いかけられたことに、僕は首をひねった。
そして束の間、僕と藤姫の間には沈黙が降り注ぎ、子供の足音だけが真っ白な霧のかかった世界に響いた。
「その様子だとやっぱり、あの子の事も憶えてないのね。……和紗?」
「いや、全く憶えてない訳じゃないんだ。ちらほらと一場面だけが、浮かんでは消えていくんだけど。――うん、藤姫の言うとおりあの子は僕の身内だろうね。だけど、名前と…どういう関係だったかが分からないんだよ」
「まぁ、とりあえず声をかけてみなさいな。きっと何か気づくことがあるはずだわ。ほらほら、行ってらっしゃい!」
ぐいぐいと藤姫に背を押されて、僕は正直乗り気にはなれなかったが、これもこの世界に選ばれた者の義務だと意を決して、メソメソと泣いている子供の前へ姿を現した。
すると、僕を見上げた子供の大きな瞳が驚愕に彩られ、ポロポロと零れていた涙がぴたりと流れを止めた。
僕は目を見開いて固まってしまった子供におろおろとした心境にさせられ、後ろで薄い微笑を浮かべた藤姫に助けを求めて振り返るが、藤姫に首を横に振られ、更にうろたえた。
う〜う〜とうなっていても仕方がないし、第一今回のお客様は早々にお帰りになってもらわないと、迷い人の存在が消滅してしまってこちらが後々激しい罪悪感に苛まれそうだ。
そんなこんなの思いから、焦りに駆られた僕はいまだ僕を見上げて驚いたように固まったままの子供の前でひざを折って、力いっぱい服を握っていた小さな手を取ると、困ったように微笑んだ。
「えーと、どうしたのかな、君?どこか痛いの?なにか悩み事、あるかな?」
とりあえず、このような幼い子供がどうしてこの世界に迷い込んできてしまったのかを知る必要があるので、状況把握とさせてもらおう。
僕が声をかければ、子供は固まった体から力を抜いてくれたが、再び『うっ…うっ!』としゃくりあげ始めた。
『えぇ〜!!どうして、また泣きはじめちゃうのっ?!』と、僕はとうとう目を回し始める。
意味が解らないと、遠い目で遥か彼方を見つめだしたそのとき、ようやく子供がまともな声を発し、行動を起こした。
「お兄ちゃんっ!!!」
そして、子供が紡いだ単語に僕はただ呆然とさせられた。
「え…」
僕は驚きの声を上げるよりも今の事態を理解できなくて、間抜けな声を漏らした。
泣きじゃくる子供は僕に抱きついて、僕にとって理解の範疇を超えている怪訝な単語を連呼している。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんっ!」
「う、うぇ〜〜!?」
僕はとうとう完全な混乱に陥ってしまって、変な奇声を上げた。