初めてのお客様
…さ。か…ずさ。
声がする。
僕を呼ぶ声が、ずっと聞こえる。
ずっと、ずっと僕を探して、呼んで、叫んで…。
離れていても、大切に想っていてくれてる人の声。
「鈴…君は何処で僕を待ってるの…?」
今まで声は、決して途切れることはなかった。
なのに、今聞こえてきた声は掠れて、途切れて消えていく。
ああ、どうして消えるんだ?
君はどうして…――。
「かぁず〜さっ!和紗、起きて!」
ゆさゆさと、藤姫が僕の体をゆすった。
僕は自分の目を覆っている腕をどけて、目を開けた。
そして、僕が先程まで見ていたものが、聞こえていたものが夢だったのだと知る。
真っ直ぐに、真上にある藤姫の顔を見た。
「…何?藤姫」
藤姫はふわりと、微笑んだ。
「和紗にお客様よ」
「お客…?」
「ええ。和紗がここにいるのは、迷い込んできた人を帰すためでしょう」
「ああ…それでお客様、か」
僕は再び目を閉じる。
すると、藤姫は僕の怠慢を叱咤する。
「こら!駄目よ、和紗。ちゃんとお話を聞いてあげて帰る道を作ってあげないと、その人はここで消滅しちゃうのよ!」
「わかってるよ。けど、まだ姿見せないしさ…」
「でも、もうすぐそこまで来てるのよ!ほら、ちゃんと起きなさいってば」
「はーい」
「のばさない」
「はい。…藤姫は厳しいね。お父さん仕込み?」
「そうよ、父上は礼儀を重んじていらしたから」
懐かしむように、藤姫は仄かに笑った。
僕も同じく微笑む。
やがて、靴音が響いてきた。
コツコツ…と、藤姫のときと同じく、こちらに向かって歩いてきているようだ。
人の姿が見え始める。
「…お客様のお見えだわ。あれは…男の人ね」
「そうみたいだな。歳は僕と同じくらいに見える」
コツ、コツコツ…。
その男のものと思われる、声がした。
「うわー。すげーな、ここ。一面緑だよ…!」
どこか感激したように男は、きょろきょろと、辺りを見渡し始める。
今この世界は、花畑のときと同じく藤姫の希望で、森の姿をとっていた。
僕が頭の中でイメージしたものが、この世界に創り出される。
けれど、やはり生命は存在しなく、全てが偽りのものだった。
ぼんやりと見えた姿は成人男性のような体つきではなく、まだ成長途中と思われる少年のものでこちらの視線を受けてか、ようやく僕と藤姫の存在に気がついたようだった。
その証拠に、小走りで駆け寄ってくる。
かなり離れていたように思われたが、少年はあっという間に、僕と藤姫の目の前に立っていた。
じっと、胡乱げな目で僕と藤姫を見ている。
「お前ら、誰?」
「人に尋ねるなら、まず己から名乗りなさいな。それが常識というもの」
藤姫は僅かにまゆを寄せた笑顔で、だが物腰柔らかく言い放った。
その隣で僕は内心思う。
藤姫だって、僕と初対面のとき、僕から名乗らせようとしたくせに。
だけれど、僕は己の名が分からず、訊いてきたのに何故か知っていた藤姫によって、教えられたのだ。
少年はバツが悪そうな表情を見せた後、朗らかに笑んだ。
「俺は、時だ…菅原時吉。時という漢字に吉って書くんだ」
ご丁寧に漢字まで教えてくれる。
それを良く思った藤姫は、笑顔で名前を口にする。
「私は藤姫って言うの。藤に姫と書いて…そのままね」
「藤姫か…なんか城の姫みたいな名前だな」
時吉の外見は女が一目で堕ちる様な面だが、どこか馬鹿そうな顔をしていると、僕は失礼ながらにも思った。
だが、その馬鹿そうな外見にそぐわず時吉が案外聡かったことに感嘆の声をもらしかける。
「えーと…僕は和紗。漢字も教えたほうがいいかな…和風の『和』でカズ。紗は…糸偏に少ないって書くんだ……だよね、藤姫」
僕は確認のため、藤姫を見た。
自分の名前のことで他人に訊くなんて情けない話だが、僕は藤姫に教えられるまで己の名前すらも覚えていなかったのだから、仕方ないと言うものだった。
「合ってるわ。いくら憶えていなかったとはいえ、己の名前なんだから、もっと自信を持って言えばいいのに」
困った風に呟く藤姫に僕は、はは…と曖昧に笑っておく。
「ふーん…お前、和紗っていうのか…。なぁ、和って呼んでいいか?」
時吉が思案顔で、尋ねてきた。
「いいよ。でも、その代わりに僕もお前のこと、時って呼ばせてもらう」
僕は即座に了承して、『時』と呼ぶことを宣言した。
時吉は、僕と同じようにそれを快く受け入れた。
僕の隣で、藤姫は目許を和ませて笑っている。
何故か、嬉しそうに…。
鈴の声が聞こえている。
藤姫の声とは違って、辛さをこらえた様な声で。
鈴、君はまだ諦めはしないんだね。
「時は何歳?」
僕はふと気になって、時吉に尋ねた。
「17歳」
「見たままね…和紗と同い年」
「僕って17歳だったんだ…藤姫は僕たちより一つ上だよね?」
「ええ」
ああ、不思議だ。
『時』と言う響きに覚えがある。
懐かしい、何かが…――。
僕は一旦目を閉じて、すぐに開いた。
真っ直ぐに時吉だけを見て、言葉を紡ぐためにそっと、唇を開いた。
「時…迷える君の奥底にあるものは、何?悩みはこの世界に全て置いて行っててもらうよ」
僕はにっこりと、顔に満面の笑みをたたえた。
『さぁ。君の悩みを、僕に吐くといいよ』