藤姫と僕
相変わらず、声が聞こえている。
まだ諦めようとせずに、必死に僕を探してくれている声。
だけど、ごめんね。
僕はその声に応えてあげることが、出来ないかもしれない。
「和紗、こっちこっち!」
はしゃぐ藤姫の声が僕を呼ぶ。
その姿を見つけようと、声のするほうへ振り返る。
きょろきょろと、辺りを見渡すが、周りに人の姿は見出せない。
「…おかしいな。確かこの辺りから声がしたと思ったんだけど」
がさがさと、茂った雑草を掻き分けて、僕は藤姫を探す。
「こっちよ、こっち!和紗、私はここよ」
「…どこにいるんだよ?藤姫」
「ここだってば、ここ。和紗、目が悪いのかしら…」
「悪くは無いはずなんだけど…って!!?」
ふぅと、空を見上げた僕は途端、目を剥いた。
道理でただ単に、辺りを見渡しても見つからないはずだ。
もう、目が良いとか悪いとかはっきり言って関係ないと思う。
僕は真上を見上げて、顰めた顔で雲を睨む。
すぅと、小さく息を吸うと、
「空の上にいたら普通気づかないってっ!!」
目が悪いと言われたけれど、雲の上で高みの見物をしていたならば、少し前まで普通の人間をしていた僕には分かるはずもない。
藤姫はひょこっと、雲の隙間から小さな整った顔を出した。
器という現世での本体を失った藤姫は身軽になり、驚くことに自由に空を泳げていて、実に面白そうに声を上げて笑っている。
「ごめんなさい、和紗。けれど、楽しすぎてそんなこと、全く気づけなかったの!」
全然すまなさそうに、けれど謝る藤姫は、僕を見下ろしてまだ尚、肩を小刻みに揺らして、くすくすと笑っている。
「藤姫、すごいはしゃぎ様だね…その様子からして、生きている間はあまり遊べなかったのか?」
雲の間を行き来する藤姫を、僕は手をかざし、眩しそうに見上げる。
偽の太陽でも眩しいのだな。
この世界の本当の姿は、どこまでも果てしなく真っ白なのだ。
だけれど、僕が必要とされて連れて来られたこの世界の、今現在の姿は真っ白ではない。
下は辺り一面果てしなく自然が溢れており、四季関係なく全ての季節の花が揃っていて、見事な花畑がひろがっている。
春の風物詩の桜の木の近くには、小さな川があって生命体こそ存在しないが、水は清らかで澄んでいる。
今藤姫がいる、果てしなく続く天井には現世より綺麗な青の空が広がっており、太陽の光も偽物だがちゃんとある。
雲は何処からか流れてきては、やはり何処かに消えていくを繰り返し、僕には時が過ぎていくの一時だけ感じられる瞬間だったりする。
だが、それは全て偽物。
いくら美しくても、実際に触れることが出来て、感じることが出来ても、それは偽りのもの。
この世界には、生きている僕の存在と転生の途中だと言う藤姫の、二つの存在だけが確かだ。
何故なら、この何もない真っ白な世界に、生命は耐えられないから。
この世界には生命の息吹は届かない。
いつまで経っても、何も誕生はしない悲しく、寂しい流れを汲む世界。
この世界の住人となった僕によって、創り出されて在る目の前の光景は、力を解けば全て砂塵の如く消え去ることだろう。
藤姫は舞い降りてくる桜や雪の如くにひらりと、華麗に僕の元に舞い降りてくる。
僕は手を上へ伸ばす。
藤姫は、その手を躊躇の素振りも見せずに受け取って、僕のいる場所に戻ってきた。
そして、先程までの楽しそうな顔から一変した寂しそうな笑顔を、僕に見せた。
「…ええ、そうなの。私、生前は姫をしていたから重宝にされすぎて、ほとんど城の外へは出してくれなかった。だから、いつも家臣やばあやたちと顔を合わせるだけの、退屈で窮屈な生活だったわ」
城での生活を思い出しているのか、それとも余程不満なことがあったのか…頬を膨らませて話す藤姫だ。
僕は軽く微苦笑をする。
藤姫がここに来てからというもの、僕はいつも笑っている。
それ程に藤姫が傍にいてくれるのが嬉しくて、楽しいのだろう。
「退屈で、窮屈だったけれど…でも、父上は私を大事にして育ててくださったの」
ふいに、藤姫は表情を翳らした。
そして、『悪いことをしたわ』と悲しさと罪悪感に顔を歪めさせる。
「私、父上の跡継ぎを生んであげられなかった…」
心底悔しかったのか、藤姫は唇をギリリ…と噛み締める。
僕は藤姫を抱き寄せた。
藤姫の息を呑む気配を感じた。
僕は藤姫の頭を優しく、まるで壊れ物を扱うように撫でた。
「もう、過ぎたことなんだしさ…後悔しても仕様がないんじゃないかな…?それにこの世界で強い後悔を抱いたら、存在が危なくなっちゃうから、しないで」
「……それは、どうしてかしら?」
僕はうっと、一瞬言葉に詰まったけれど、すぐに持ち直した。
「だって、藤姫は僕に会いに来てくれたんだろ?僕の傍に居てくれるんでしょう?」
「ええ、そうよ。私は和紗の傍に居てあげる…居たいの」
「よかった。…僕も藤姫に居て欲しいんだ。独りは退屈だからな」
独りに慣れかけていた僕の前に現れた人が、僕に思い出させてくれた感情。
人として大切な感情。
ああ、どうしよう…鈴。
僕は本当に君の声に、応えてあげられそうにないかもしれない。
僕の気持ちを露知らぬ声は、いまだ僕を呼び続けている。
ああ、だから、どうか…僕の名前をそんなに必死に叫ばないでよ、鈴。
僕は君が大切なんだ。
君を傷付けたくは、ないんだ。