焦燥が運んだ異変
「ねぇ…本当のことを言ってよ。お兄ちゃん、本当は帰る気ないんでしょ……?」
雅也がゆっくりと僕と藤姫から離れていく。
後ろへ、後ろへ…体を引いて後退って行く。
それはどこからどう見ても一目瞭然な完全なる拒絶だった。
焦りで手がじわじわと熱くなって汗で濡れていくのを感じながら、僕は歯噛みした。
どうしよう。
どうすればいい?
あともう少しで雅也はこの世界に喰われてしまう。
それだけはなんとしても回避したい。
けれど、それにはどうすればいいんだ――?
頭の回転がそんな焦燥で鈍っていく。
思考回路が真っ白になる。
藤姫に視線を落とせば、僕と同じように焦りの表情が藤姫のきれいな顔を歪めていた。
「藤姫…」
助けを乞うようにその名を擦れそうな声で呟けば、
「和紗…」
視線が藤姫とぶつかって、その瞳が大きく揺れてることに気付いた。
僕は大きく目を瞠る。
――何故?
どうして今にもその雫を零しそうにしているんだ…?
いくら危ない状況だとしてもこの藤姫が現段階で涙することなんておかしい事だった。
そんな僕に気付いてか気づかずか、藤姫は震える指を雅也へ向けた。
「どうしよう……和紗。あの子、もう――」
その指が指したのは雅也の消えかかった足元だった。
左の足首あたりまでが靄になりかかっている。
藤姫の震えた悲しげな声がどこか遠くで聞こえた。
僕は絶句した。
世界が、この子を取り込みにかかっている光景に――。
早くしなければ…。
早くしなければ…という胸の中の声がよりいっそう強く、大きくなる。
早く帰さなければ雅也が居なくなる――!
「……」
それまでドクドクとうるさかった警鐘がふいに途絶えた。
上がっていた体温がすぅ…と引いていく。
焦燥感にかき乱されていた心が平静を取り戻す。
それは湖が小さな波紋を静かに徐々に大きくしていくような感覚だった。
僕はのろのろと立ち上がった。
僕の異変に気付いた様子の藤姫をその場に残して、僕は早足に歩みを進め、雅也との距離を着実に縮めていく。
自分でも何かがおかしい事に気づいていた。
ただその何かが明確に判りはしなかったけれど、どう何がおかしいのかよく分からなかったけど、ただ自分の中で何かが変わろうとしているのは確かだった。