帰りたくない
「お兄ちゃんは帰ってこないの?ずっと…ここに居るの?このまま――」
ぐしゃぐしゃな表情の雅也が首をかしげて、悲しげな自嘲じみた笑みを浮かべて僕を見つめた。
僕は眉間に深々と皺を寄せたまま、瞳を閉じていた。
藤姫も小難しい面持ちで瞳を閉ざし、俯き加減で座り込んでいた。
それというのもすべてこの世界に迷いこんで来てしまった雅也を元の世界へ帰すためである。
かれこれ考え込み始めてから恐らくもう大分時間が経つのだろうが、生憎と時間の流れがないこの空間ではどれくらいの間この難題に頭を痛めているのかが判らなかった。
「あ〜…だめだ。頭がパンクしそう…」
気を抜くと遠のきかける意識を引き戻しながら、僕は苦い顔で大きくため息をついた。
「…本人を促してみる…とか無理かしら?」
藤姫が閉ざしていた視界を開けて、僕を見つめる。
「それってどういうこと?」
「雅也は強い自分の意志さえあれば、もしかしたらここを抜け出せるかもしれないわ」
「…そんなことが可能なの?」
「それは…判らないけど、少なくとも可能性は十分にある。雅也は特殊だからね」
藤姫はそう言うと、難しい表情をやめて苦笑に近かったが明るく笑った。
「さぁ、雅也。貴方はもう夢から現実へと帰る時間です。目を閉じて、強く心に念じなさい。この世界から出て、現世へと帰る道を」
「……それって難しくないか藤姫」
びしっと腰に手を当てて凛々しく眉をあげ、やる気満々自信たっぷりに構える藤姫に僕は手を上げて意見した。
口元に乾いた笑みが浮かび、ついで僕の両目が眇められる。
すると、藤姫は雅也の両肩に手を置いて僕を見た。
「難しくても何でもやるんです。実行あるのみよ、和紗」
「いや、藤姫。そういうことじゃなくてね…その言い聞かせ方が難しくないかなって…」
「お家に帰りなさい感覚で子供には念じさせたほうがいいと思ったんだけど、だめかしら?分かりやすくないかしら…」
「……いいよ、うん。別にいいんじゃないかな。やってみよう」
藤姫のしょんぼりとした顔に罪悪感を感じてしまったので、僕は微妙な顔で頷いた。
この方法を試してみる価値は確かにある。
かなり有力だ。
藤姫曰く、雅也はこの世界を操れる血を持っているから(もともとの素質で僕がこの世界に選ばれた理由の一つにもあげられる。あと後悔がないから)、強く念じさえすれば何とか自力で戻ることも出来るかもしれないのだ。
「何の話してるの?おれのこと?」
雅也が藤姫と僕を交互に見やって子供特有の大きく丸い目をぱちぱちと瞬かせた。
藤姫がやわらかく笑んで雅也の頭を撫でる。
「早くお家に帰らないとお父様とお母様が心配してるはずだわ。雅也、今から私達の言うとおりにして。絶対お家に帰してあげるから」
「――おれ…帰りたくない」
「きゃっ…!」
「雅也?!」
雅也が目の前の藤姫を突き飛ばして、突き飛ばされてバランスを崩した藤姫と僕からすばやく距離を取る。
それは拒絶の意だった。
それが示す果てを瞬時に悟った僕の頬を冷や汗が滑り落ちた。
雅也が元の世界に帰れる術の全てはこの子自身にある。
それが出来なければあとはこの世界で朽ちるだけ。
この真っ白な世界に吸収されて存在が保てなくなり、消滅するだけ。
それだけは避けたいのだ、なんとしても絶対に。
藤姫を受け止めた地に肩膝をついた状態のままで僕は雅也に視線を定めると言った。
懇願に近い願いをゆっくりと、声に乗せて紡いでいく。
この思いがどうか雅也に伝わるように…。
「雅也、僕はお前を失いたくはない。頼むから素直に言うことをきいてくれ。お前は戻るんだ、現世に…」
藤姫が不安げな面持ちで僕を見上げている。
僕は雅也を見据えたまま答えを待った。
すると、雅也は悲鳴にも似た声で顔を真っ赤にして叫んだ。
今にも泣き出しそうな危ういくしゃくしゃな顔で。
「だって、帰ってもお兄ちゃんは居ないじゃないかっ!!お母さん達も憶えていないから…初めから居ないことになってる人が好きなおれはどうすればいいのッ?誰も知らないじゃないか…誰もお兄ちゃんとの思い出を憶えていないじゃないか…そんなところにおれは戻りたくないよぉ…!」
「雅也……」
雅也の瞳はゆらゆらと濡れて、大きく揺れていた。
大粒の涙がばたぼたと頬を滑っては真っ白な地面へと吸いこまれて消えていく。
顔を真っ赤にさせて涙がぼろぼろと零れても、それでも歯を食いしばっているのはそれが我侭だと、無理を言っているのだと本人が一番よく解っているからだ。
幼いながらにして雅也はその辺はよく解っていた。
だけど、突然居なくなってようやくこの世界で会えた兄とまた離れるのだけは我慢ならなかった。
兄や藤姫を困らせているのは重々承知している。
このままここに居られないのもなんとなく察せられていた。
兄の思いだって、ずっしりと心に重く深く響いた。
それでも大好きな兄を忘れてしまった冷たく寂しいところへは帰りたくないのだ。
それだけが雅也を頑なにさせる理由だった。
困惑の色が見て取れる兄に雅也は首を傾げて掠れ気味の涙声で言った。
ふと子供に似つかわしくない自身を嘲笑うかのような笑みが零れ落ちた。
「お兄ちゃんは帰ってこないの?ずっと…ここに居るの?このまま――」