戻れない可能性の理由
「で。雅也はどうしてこんなところにいるの?」
藤姫は自分と僕との間に雅也という僕の弟をはさんで、姿勢を正すと本題に入った。
雅也は一度僕を見上げ、僕が『話して』と促すと頷き、口を開いた。
本当に素直で良い子だぁ…。
これが自分の弟なのかと、曖昧な記憶の中、未だ実感のわかない弟・雅也に僕は嬉しさを感じた。
「わかんない」
僕と藤姫が身を乗り出してどんな返答が返されるのかと、どきどきしていれば、たった一言の寂しい答えが返ってきて。
僕はがっくりと肩を落した。
藤姫も同様にがっかりとした様子で、小さく吐息を吐くときっちりと同じ長さで程好く整えられた前髪を片手ですいた。
僕はそんな藤姫をちらりと一瞥して、『あ。さらさらしてて触り心地がよさそうだなぁ…』とか思ってみたりする。
「やっぱりね。大体は予想してたわ」
「?」
雅也は首を軽くかしげ、藤姫を見つめた。
僕もそれにならい、藤姫を見つめた。
「君は和紗の血に引かれてこの世界に連れて来られたのね」
「ぇ…」
僕はその言葉に目を見開いた。
雅也がこの世界に来てしまったのは僕のせい――…?
藤姫は厄介そうな嫌そうな――苦い顔をして、口元に挑戦的な笑みを浮かべた。
「これは私の推側だけれど、雅也がここに来てしまったのは薄っすらと面影を覚えていた兄に会いたいという思いと、この世界に選ばれた者の血縁というもともとつながりやすい素質があったからよ。それらが高まり連合して、こちらにつながる扉が開かれてしまった…――」
雅也は意味がわからないと目を瞬かせ、藤姫はにっこりと微笑むと頭を撫でながらそれに相槌を打つ。
「難しいお話だからねぇ…」
「?…そうなんだ?」
「ええ。ちょっと厄介で大変な事態なの。――…もしかしたら」
藤姫がそこで言葉を一旦切るとちらりと僕を見て、表情を引き締めると小さく呟いた。
その視線に僕の心臓がどくりと跳ね上がった。
『帰れないかもしれない』
「ッ!?」
それは雅也に向けられたものではなく、完全に僕に向けられたものだった。
心音が更に速度を上げて、僕の中で響きだした。
どういうことだ…。
その言葉が僕の口の中で呟かれた。
それは声に乗せられずに耳には入らなかったはずなのに、藤姫は微かに動いた唇だけでその意を察したのか、目を伏せた。
「和紗、ここにいて苦しくないでしょう?」
「え…あ、うん。平気」
唐突な問いに一体どういう関連があるのだろうと怪訝に眉を顰めながらも、僕は素直に答えた。
「…でしょうね。和紗はこの世界に選ばれた人ですもの…この世界は自然と貴方を受け入れて、貴方は自然と順応している」
「それが?」
「この世界は選ばれた貴方以外には優しくないわ。この世界自身が現世人に引かれ、迷い込ませるクセに呼び寄せられた訪問者には厳しく容赦がない。つまりは長時間はいられず、貴方のように選ばれた者を除いて、この世界は人を喰う。まぁ、喰うと言っても消すという形で己の存続のために取り込んじゃうんだけどね」
「己の存続って、この世界はエネルギーを必要とするのか?!」
雅也は黙って僕と藤姫のやり取りを聞いていることに飽きたのか――それも当たり前だろう。なんたって意味が理解できなければどんな話だって交じって話すことが出来ないし、そうとなれば面白くもない――、僕が元気いっぱいの雅也から連想したひまわり畑で走り回っていた。
藤姫はそちらを眺めながら、若干目元を険しくして続けた。
「この世界は特殊なの。もともと在りはしない無から…と言っても人の念から生まれたんだけど、存続のためにはやはり在り続けるために生みの親の人間を必要とするの。ひとつの世界として存在するためには和紗のような人間が必要で、世界として存続していくにはエネルギー源の人間が必要なの。でも、和紗がいる間は多少はエネルギーを必要としない。だって、世界として成り立つための生命が存在しているんですもの」
「じゃあ、どうして雅也は帰れないかもしれないんだ…?それもここに来てしまった原因の僕の血のせい、なの…?」
僕は陰った表情を俯くことで藤姫から隠し、言った。
すると、藤姫はわざわざ腰を浮かし僕の顔をそろりと覗き込んだ。
僕の瞳に映ったその顔は少し嬉しそうなものだった。
僕はそのことに目を瞬かせた。
「…藤姫、どうして雅也が帰れないかもしれないのに、嬉しそうに笑ってるんだよ…」
「え…あら、顔に出てたかしら?…ふふ。違うのよ、和紗。私はそのことは全く喜んでないわ。私はね、和紗が人間らしくなったなーって思って笑ってたのよ」
「は…?僕は今まで人らしくなかったわけ?」
「ええ!そうよ。だって、和紗ったら全て諦めたような雰囲気で全然人らしくなかったもの。そうね…時吉殿が来てからかしら?人らしくなった」
笑顔で言う藤姫に僕はどきりとした。
だけど、それは気づかれたくなくて、僕はあわてて次の言葉を紡いだ。
「それを言うなら藤姫と出会ってからだよっ!」
「…あら。あらあら!」
「な、何だよ…?」
藤姫がまぁとでも言いたげな顔で口元を押さえ、僕を更に覗き込んだ。
「なんでもないわ。でも…ふふっ!そう、そうね!」
覗き込まれ、目を瞬かせる僕に藤姫は嬉しそうにふわりと、まるで花が綻ぶように相好を崩した。
「――大丈夫よ、和紗。雅也がここに来てしまったのは貴方のせいではないわ。全てはこの世界のせい。人を呼んで喰べる世界のせい。…言ったでしょう?雅也は選ばれた血の力と、無意識に貴方を求めた思いの力とでここへ誘われたって。だから、和紗のせいじゃないのよ」
優しい表情の上に得意げな笑みを浮かべて、雅也に視線を走らせると僕の両手を温かいその手で包み込んだ。
「安心して。雅也はちゃんと元の世界に戻してあげられるだろうから。頑張りましょ、和紗!」