悲劇
本来、兵士がいなければならない入口の門。細く開いた扉が、風によってギィギィと音を出していた。アリッサムは扉に手をかける。両手で勢いよく観音開きの扉を引いた。
ーーザザッ ガタッーー
人の気配は奥の方からだ。アリッサムは再度発する。
「瑠璃の女神アリッサム。これより王塔にて敵を迎える! 妃塔はルピナスの本陣となる!」
しばしの時が経つ。アリッサムは扉を背にただ立っていた。待っていた。やがて奥からそれらはやってくる。アリッサムの前にペタリと座り込み項垂れている。
「私たちは忌み者。ルピナスを出ることは出来ません」
その者らは、自らを『忌み者』と名乗った。忌み者……両眼が異なる色の者である。
大陸のどの国においても共通する忌み者。忌み子、忌み子の赤子は全てイキシア王が引き取った。イキシア王が賢王と称される理由の一つだ。イキシア王は、忌み者に王塔にて『用人』として王の『用事』を手伝う仕事を任せた。忌み者たちはルピナスで居場所を得た。今まで忌み子は森に捨てられることが多かった。運よく生き延びても、隠しながら育てても、隠れながら生きても、その両眼を見れば明らかに忌み子、忌み者。居場所など何処にもなかったのである。
唯一の居場所、ルピナスの王塔。だが、それも一年前まで。幼きシオン王……いや、女の圧政により、忌み者たちは王塔を追われることとなる。再び居場所を失った忌み者たち。妃塔に面する城下町の外れに一まとめにされた。仕事はなかった。だが……
「王様の命により、……こちらに戻りました」
忌み者たちはオドオドしながら言った。アリッサムは優しく微笑む。
「皆無事で何よりです。一年間ご苦労様でした」
そう言って項垂れた忌み者たちを労った。顔を上げた忌み者の口から、
「あ、あの……」
と、声がかけられる。
忌み者たちは不思議でならなかった。門を通らず戻ってきた自分たちに、アリッサムは何も問わずにいることが。
「父上と面白いことをしていたのでしょ?」
アリッサムはフフフッと笑う。忌み者たちは顔を見合わせた。
「ご存じなのですか?」
忌み者は訊いた。イキシア王がお忍びで城下町に行くため、用人たちと秘密の通路を作っていたことを。忌み者である用人の働きを、王塔で働く他の者たちは目を背けていた。居ず者として扱っていたのだ。イキシア王はそれをあえて注意せず用人たちに言った。
「こっそり通路を作ろう。あの者たちはお前たちを見ない。堂々と作っても、堂々とそれがあっても、皆見えぬのだ。おもしかろ?」
それは卑下ではなく、子供が面白い遊びを得たようなそんなワクワクした顔であった。そんなイキシア王の様子に、用人たちも顔を輝かせた。かくして秘密の通路計画は始まったのだ。ブリア、ネリア側でなく、人目の少ない小国側に向けて。
王塔から妃塔に向かう外通路の両側には庭園がある。その庭園には枯れた井戸が一つあった。イキシア王は井戸の新設をすると宣言した。という口実の元、用人半分が新設の井戸を作り、残りの半分が枯れた井戸から秘密の通路を作り始めた。
この頃はまだ、王妃は健在であった。
……だが、
王妃の訃報
それは通路計画が引き金となって起こる。イキシア王が妃塔に足しげく通うことになったことが。
アリッサム十歳の時だ。
その年、ブリア側の塔にはブリアからの側室、ネリア側の塔にはネリアからの側室を迎えることとなる。緋色の男子がまだ生まれていないこと、王妃がアリッサムの出産以来子を宿さないことから、ブリア、ネリアから側室が召された。
だが、イキシア王は月に二度ほど側室塔に行くだけ。妃塔ばかりに足しげく通っていた。いや、妃塔ではなく、秘密の通路にである。しかし、対外的にはそうは見えない。
イキシア王は賢王であったが、女性の気持ちには疎かった。何より召された側室には、緋色の男子出産を皆が期待する。そして、それはイキシア王をせっつくようであり、王からすれば不愉快でならなかった。足が遠退くは必然である。
だが、運よくと言うべきか、ブリアの側室が懐妊する。いや、運よくなどとは言っていられない。それが悲劇を引き起こすことになったのだ。月に二度ほどだった通いさえも、その懐妊を境にイキシア王は止めてしまった。
そして、ネリアの側室は……
誰からも見向きもされなくなったネリアの側室は……壊れた。
ある日の夜半……
雨が激しく塔を打ち付ける。
轟きが塔内の者を震え上がらせた。
誰もが塔内で雷雨が過ぎ去るのを待っている。
いや、一人だけ、
その雷雨の中を進む者。
「……」
ブツブツと呟き、ズリズリと進む。
雨に濡れたドレスの裾が地を這う。
濡れた髪からポタポタと滴が、いや、滴などではない。滝のように肌を流れる雨。それは、女を人ならざる者へと変貌させていた。
二十歳を過ぎたばかりだという女からは、張りは消え失せ、雷雨によって持たらされた風貌は今や老女のようであった。その瞳の下には黒に近いクマ。寝ていないのだろう、瞳が窪んでいる。
「……来ないなら、迎えに行けばいいのよ……」
聞き取れた女の声はそう言っている。
ピカッと光った目前に妃塔。
女はニヤリと笑う。
「王様、お会いするまで寝ませんわ」
女は歩を妃塔へ。
外通路をズリズリと。
枯れた井戸を過ぎ……
妃塔に。
見張りの兵は塔内に退避していない。塔の入口の閂は外れている。王がいつでも入れるように。
この時、王は女が通り過ぎた枯れた井戸の中にいた。秘密の通路の中に。用人たちと語らいの時を過ごしていたのだ。
皆が部屋の中に避難、退避し、寄り添って雷雨をやり過ごそうとしていた。
ずぶ濡れの壊れた女が、ズリズリと進む音は雷雨で消され、誰ひとりとして狂行に気づく者はいない。
女はその扉をギィと開ける。
王妃の寝室へと続く扉を。
ズリズリ
ズリズリ
何かが這ったような水跡を残しながら。
奥に揺らぐ灯り。
侍女たちが雷雨に怯えながらも、何時なんどきでも王を迎えるべく、湯殿の用意をしている。侍女たちはそう王妃の命を受けていた。雨の中戻るであろう王の体を労る王妃の優しさだ。だが、それによって王妃の傍には控えの侍女一人だけとなる。その侍女も王妃から隣室で仮眠をとるように退かれていた。全てが女に味方していた。
ズリズリ
ズリズリ
女が湯殿を過ぎる。
誰も気づかない。
ズリズリ
ズリズリ
女が隣室を過ぎる。
侍女は気づかない。
ズリズリ
ズリズリ
カチャ……
寝室の扉が開かれた。
悲劇が幕を開ける。
「キャァァァァー……」
その時だけ轟きが消えていた。
塔に響く悲鳴。
皆が一瞬静止する。
そして、バタバタと駆け出した。
「なっ!!」
部屋から出た者たちはその異様さに怯んだ。何かが通った跡。いや、何かが這った跡。
それが向かった先……
「王妃様!!」
いち早く寝室に着いた者は隣室で仮眠をとっていた侍女。だが、あまりの恐ろしさに腰を抜かし何も出来ずにへたりこむ。
「王様をどこに隠したぁぁぁ!!」
女は王妃に跨がり、骨ばったその手を王妃の首に食い込ませていた。王妃は手足をばたつかせ必死にもがいている。
ピカッ
一段と大きな光が部屋を照らす。一段と大きな轟きがへたりこむ侍女をハッとさせた。
「誰か! 誰か来て!」
声を出したことで、侍女は体の腑抜けから何とか力を込めることが出来た。
「く、曲者ぉぉ!」
侍女は立ち上がる。足を踏ん張り女に向かって突進した。
ドンッ!
女に体当たりする。二つの体が床にドドンッと転がった。女は邪魔をする侍女を敵と見なす。女は侍女に掴みかかった。そこにバタバタと兵士と他の侍女たちが入ってきた。
「王妃様!!」
侍女は王妃へ。兵士は女へ。そんなことにも眼もくれず、女は叫んだ。
「王様をどこに隠したぁぁぁ!」
……
……
用人は王が妃塔に戻ることを伝えに、入口の扉を開いた。そして、異変をすぐに察知した。王の元へ
……
……
悲劇が伝えられた。
「なぜだ……」
イキシア王は青白く横たわる王妃の頬をソッと撫でる。王が駆けつけた時には、すでに王妃は息を引き取った後であった。王妃の首にくっきりと残る痣。王は優しく撫でる。
「苦しかたったであろう……」
遠くに雷の音がし、王は外を眺めた。ただぼんやりと。
「ちちさま」
気づかぬうちに、幼きアリッサムが王の足元に寄り添っていた。王はアリッサムを抱き上げる。
「母に挨拶をしなさい。母はな、もう……」
王は言い切れずにアリッサムを抱きしめた。
その時、
「ははさまは、ルピナスを守ったの?」
とアリッサムが口にする。王はアリッサムの言った意味がわからず、アリッサムに向かい合おうとベッドに降ろした。アリッサムは母の冷たい頬に自分の頬をピタリとくっつける。そして、その頬を離したと同時に小さな手が首の痣に触れた。青き痣。
「るりはルピナスを守るもの。ははさまはるり、だから私もるりなのね」
アリッサムは母の首につけられた無惨な痣を瑠璃と言った。王は目を見開く。
「アッ、アッ……ウッ……ワー」
流さずに抑えていた涙が、踏ん張って押し込めていた嗚咽が溢れる。王は泣き崩れた。
……
……
これが約八年前に起きた悲劇である。
次話更新明日予定です。