セリュル=トゥルドヴァーズの幸福
「カクヨム」にて連載している"短篇集『ガレイア物語』"より。
最期の一滴まで美しい、薔薇色のメルヘン、恍惚のお伽話。
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「セリュル=トゥルドヴァーズ騎士侯。ゲアレズ落城の軍功、そして無血凱旋、今や全国民の知るところとなった。先のパレルフォワ戦争における貴公の智略と勇敢を讃え、ここに、ネージュブランシュ=ド・ガレイア女王陛下の玉名においてセリュル=トゥルドヴァーズを軍務大臣に任命する。」
「恐縮至極にございます。王前にてこのような華々しい式典を、この私めひとりの為に執り行っていただけたこと、誠に、誠にありがたき幸せであります。此度の軍務大臣叙任は私の、将来永劫に忘れられぬ誇りでございます。」
叙任官の前に跪くセリュルに、玉座から澄んだ声が届きます。
「騎士セリュル、貴女は顔を挙げなさい。そして立ち上がり、ここにいる皆の顔を振り返るのです。貴女の表彰に、心を震わせて泣く者、歓喜に頬を緩める者。怖れることはありません。貴女の勝利が我が国の勝利となったように、貴女の誇りは、もはや貴女ひとりのものではない。貴女は私に仕える騎士であるとともに、八千万ガレイア国民を未来へと導く、英雄なのですから。さあ。」
「あまりに畏れ多く……勿体なきお言葉。女王陛下への、祖国ガレイアへの、一層の忠誠を誓盟申し上げます。」
立ち上がり、そして振り返るセリュル。目に鮮明に飛び込んでくるのは、式典に招かれた人々の顔。英雄セリュルは、迂闊にも足を震わせました。更に迂闊だったことには、涙を流しさえしたのです。鼻腔をくすぐる涙の匂いに、セリュルが思い出したのは遠い幼少の風景でした。士官校入学の時分には泣くことなど既に忘れていました。泣くことは、思考を止めること。こみ上げる感情を受け容れ、全てに対し無防備になること。ハッ、としてセリュルは、歯列を噛み締めて嗚咽を飲み込み、呼吸を整えながら涙を乾かしました。
「胸を張りなさい、セリュル。威風凛然、何物にも屈しない気高き騎士の魂を、いつも心に宿していて。研ぎ澄まされた清冽を、その眸から絶やさないで。」
セリュルは改めて会場を見渡しました。私はこの国の軍事の最高司令官となり、国民を護り、率いていかなければならない。繁栄と平和を目指して、八千万を導かなければならない。その重さに怖気付いてはならない。祖国の為に命を燃やすのだ、先導の灯火となるのだという決意を新たにして、セリュルは背筋を目一杯伸ばし、胸を張りました。こうして、騎士侯セリュル=トゥルドヴァーズはガレイア王国の軍務大臣となったのです。
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机の上に積み上がった書類の山。生来の真面目屋のセリュルは、一つの条文も読み飛ばすことなく全ての書類に目を通し、時には入念な再読をさえ行ってから、軍務大臣の印を捺していきました。仕事はそれだけではありません。平和維持機構などの国際会議では、張り詰めた空気の中、軍備拡張を目論む他国への牽制とか、多国籍軍におけるガレイア戦力比率の拡充とか、交渉を抜け目なく行わねばなりません。また、宮廷内での要人警護に自ら当たることもしばしばです。
神経を擦り減らす不断の多忙も、これで二年目。息をつく間も無い生活でした。日の出と供にベッドから抜け出し、簡単な朝食を摂って執務室へ向かいます。革ジャケットの手帳を開いて一日の予定を念入りに確認します。それから、いつもの書類捌き。軍務大臣の象牙印は、セリュルの握り拳よりも大きく、正八角形をしていました。そこから伸びる印鈕には螺旋状の筋が数条、丸く浮き彫りにされています。御影石の印褥台に、例えば軍事協定文書を載せ、今一度内容を確認してから、一思いに八角形の印章を捺し付けるのです。セリュルは、文書の重さも、大臣印の重さもよく解っていました。自分の不注意は数百万の国民を殺し得る。その責任を、痛いほど理解していました。重圧に押し潰されそうになりながらも、激務の日々をくぐり抜けていたのです。
セリュルには、どうしても解らないことがありました。周囲の高級官僚たちは、毎晩とはいかぬものの、しばしば酒宴を催したり、ビヤールの腕を競ったりしています。自分が夜明けから夜更けまで激務に忙殺されている間、あの者たちは公務もそこそこに遊んでいるのです。しかもそれでいて、彼らが大きな失敗を為出かしたとかいう話を、セリュルは一度も聞いたことがありませんでした。どうして彼らはそんなに余裕があるのだろうか。そうしてセリュルは思い詰めます。どうして自分はこうも紙捌きの要領が悪いのだ。やはり軍務大臣などという文官の器ではなかったのだと。終わらない重圧の中で、気が遠くなるような量の仕事を延々と続けていく。そして圧し潰されかけている。このままだと、気がおかしくなるかもしれない。要職の重圧、自らへの不信。日毎に募る焦燥に堪えかね、遂にセリュルはネージュブランシュ女王陛下への謁見を願い出ました。
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謁見室の前でセリュルは剣を王属衛士に預け、扉を叩きました。すぐに女王陛下はセリュルを召し入れました。そしてセリュルは募り募っていた思いの丈の何もかもを、躊躇うこと無く陛下に啓奏したのです。
「勿体なきお取り立てにも関わらず、私には文官としての資質が欠けておりました。元より大臣の器ではなかったのです。」
「そんなことはありませんセリュル。貴女はとてもよくやってくれているわ。内政、外交、それから私の身辺警護。終戦に際して英雄セリュル=トゥルドヴァーズの為に設置された軍務大臣という要職です。貴女以外には務まらないわ。」
「しかし、このままでは精神が保ちません。疲弊した私の心の間隙を縫って、他国にガレイア蹂躙の契機を与えることも無いとは言い切れません。私はそれが怖いのです。」
「それでは私の優秀な秘書の一人を、軍務相の副官として貴女に授けます。きっと貴女の負担もずっと軽くなるはずです。余裕を持って執務に当たれば、きっと生活に弾みも出るでしょう。」
その申し出を聞くや、セリュルの胸は張り裂けんばかりに赤熱しました。
「いいえ、いいえ、それだけはどうかお止めくださいませ、女王様!二年前の叙任式にて陛下のありがたい言を賜って以来、軍務大臣の職は私の命そのものです。それなのに副大臣を、お寄越し下さるなど!」
一頻り捲し立ててセリュルは、自分は何て畏れ多いことをしてしまったのかと我に返り、血の気を失いました。女王陛下に駁論を口走るなど、騎士として、大臣として、ガレイア国民として、決してあってはならないこと。何という非礼。何という恥。セリュルは絨毯に両拳と額をめり込ませました。
「女王陛下、申し訳ございません、私は何ということを。」
「大丈夫ですよセリュル。貴女は顔を挙げなさい。今ここには、私と貴女を措いて誰も居ません。貴女を見咎める者は誰も居ないのですよ。私こそ、意地悪なことを言ってしまったかもしれませんね。セリュル、貴女は今、大臣の職は自分の命だと言いました。しかし、貴女は今日ここに、辞職を願いに来たのではありませんでしたか。貴女の真の思いはどこにあるのでしょう。」
セリュルは自分の本心が何であったのかを漸く悟りました。大臣の職を手離すことは、死ぬことと同じ。自分は国民を率いているのだという矜持と、叙任式典で女王陛下から賜った言葉こそが、二年間自分を支え続けたのだということに、この時初めて気付いたのです。
「私は、この職務を罷めるわけにはいかない。自分の仕事を他の誰かに委せたくもない。しかし、王国のことを思えば、このまま続けるわけにもいかないのです。もはや皆目、私はどうしたらよいでしょうか。」
「貴女の本心が聞けて嬉しいわ。やはり軍務相の仕事は貴女に続けていただかなくてはいけませんね。セリュル。貴女、猫は好きかしら?」
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女王陛下はセリュルに子猫をお授け下さいました。とても気品のある、薄灰色の猫。セリュルはその猫にロンロヌーズという名を付けました。脚はスラッと長く、一歩する毎に胴はくねる。その愛くるしい小さな顔を覗き込むと、紺色の瞳で向こうも此方の目を見入ってくる。セリュルは陛下がつけて下さった飼育官にロンロヌーズの世話を委せました。本当なら自分がその世話までしたいくらいにセリュルはロンロヌーズを溺愛していましたが、公務に手を抜くわけにもいかず、歯痒い思いで日中は一人で執務室に籠るのでした。多忙によるセリュルの精神への負担を和らげようと猫を贈った女王陛下の目論見は適い、セリュルの心の衛生は以前よりずっと改善されました。気持ちが前向きになるとともに、漸く執務にも馴れてきて、生活全体が歯切れ良く回転し始めました。夕刻には執務を終え、それから朝までの半日は、ロンロヌーズと過ごす至福の時でした。女王陛下から賜った頃はまだ毛も柔らかい子猫でしたが、すぐに大きくなり、今は立派な成猫です。一緒に過ごし始めて間もなく、ロンロヌーズはセリュルに懐きました。何処で覚えたのか、遠回しな愛情表現をします。向こうから歩いて来たかと思えば、素っ気なく通り過ぎてしまうと見せ掛けて自分のしなやかな胴体をセリュルに擦り付けていくのです。ロンロヌーズの体温と体重を感じたセリュルは、得も言われぬ安心感に満たされます。
国外での交渉の際にも、セリュルはロンロヌーズを連れて行きました。ある会議は、ガレイア軍事力の介入までを射程に入れた、隣国間紛争の仲裁を主題とする緊張至極の一局面でした。セリュルは持ち前の果敢と賢明によって、葛藤する情勢を平和的解決へと導き、更にはその半島地域に置けるガレイアの監視兵力配備にまで漕ぎつけたのです。自室に戻り、セリュルはロンロヌーズを抱き締め、自分の頸筋に猫の銀色の毛並を滑らせました。
激務と浅い睡眠を繰り返すだけだったセリュルの生活は、ロンロヌーズという一匹の猫の登場で見違えるほど充実した物に変貌したのです。
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その朝もセリュルは目覚めるや否や剣を取り、朝食を済ませ、愛猫ロンロヌーズを一頻り撫でてから飼育官に委ねると、宮廷東館の自室から吏員館の執務室へと足を運びました。種々の花で彩色された中庭を通ると、眩い朝の光が差してきます。
螺旋階段を堂々と昇り、廊下右手の執務室の扉を開けた、まさにその瞬間です。セリュルの前方から黄金の熱風が奔って来て、鼻先からその麗しい眉目を蔽い、全身を背中まで呑み込んでしまいました。噎せるような薔薇の芳香に圧倒されて、自分の身に何が起こったのかを量り知る間もなく、セリュルは意識を喪いました。
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頭に甘い鈍痛を抱えて目を覚ましたセリュルを包んでいたのは、見たことの無い部屋でした。そして柔らかいベッドに身体を横たえているのです。そのベッドはあまりにも心地好く、意識を保つことすら躊躇われます。ただ、頭の何処かに何か不気味な予感があります。全身がやけに気怠い。意識は混濁していましたが、セリュルはベッドから何とか起き上がりました。脳髄まで沁み入るような甘い芳香が部屋に充満しています。何処かにお菓子でもあるのでしょうか。果たしてテーブルの上にはガレット、フィナンシェ、エクレールなど、たくさんのお菓子が置いてあります。セリュルは思わずフィナンシェに手を延べて一かけ口に運びました。宮廷で食べていた物よりもずっと甘くて、バターと卵の味まではっきりと分かる。甘い物がとりわけ好きなわけではないセリュルでしたが、美味に取り憑かれたよう、もはや止まりません。フィナンシェを食べると、今度はガレット・デ・ロワに手を伸ばし、忽ちセリュルは卓上のお菓子を全て食べてしまいました。それでも部屋は甘い匂いで充たされています。もしかして、お菓子を沢山食べたから、私が甘くなってしまったのかも。セリュルはそんな錯覚すら覚えながら、恍惚と部屋の中を宛てもなく歩きました。
しかしそのすぐ後、セリュルを我に帰らせたのは、両開きの扉が太い鎖で雁字搦めに封じられた光景でした。鎖には大きな黄金色の錠前が提がっています。セリュルは矢も盾も堪らず部屋中を駆け回り、一つの絶望的な結論に至りました。ついにセリュルは、自分がこの八メートル四方の奇妙な部屋に閉じ込められたのだということを悟ったのです。しかし、だとすればどういうわけでしょうか。鎖と錠前は扉の外ではなく内側に掛けられています。
「……」
「違うよ。」
低い声にハッとして振り返ると、背後に仮面の男が居ました。腰に手をやりましたが、そこに剣はありません。それでもセリュルは男を睨みつけます。
「どこに居たの。いつから。」
「ずっと居たよ。僕はここにこうして立って、君が寝たりお菓子を食べたり部屋中を歩き回ったりするのをずっと見ていた。」
「嘘。」
「本当だよ。それからね、君が覚えているこれまでの人生は全部夢だったんだ、セリュル。君は生まれた時からこの部屋の住人だったんだよ。どんな長い夢を見たかは知らないけど、もしかしたらその世界で君は栄光と誇りに輝く誉れ高い人生を送って来たのかも知れないし、かけがえのない出会いをして来たのかも知れないけれど、それは全部夢だ。一度見た夢を想い続けても、そこに未来は無いんだよ、セリュル。」
そして男はシュリュッセルと名乗りました。
「本当に全て忘れてしまったのかい?思い出してくれ。この貌を見たら僕のことを思い出すのかな。怖いな、君が僕のことを本当に覚えていないなら、君は僕が貌を明かした瞬間、忽ち逃げ出そうとするだろう。どうか嫌いにならないで。」
シュリュッセルは仮面に手を掛け、数秒間躊躇い、しかし遂に自ら仮面を外したのです。
「ああ、なんて醜い!」
セリュルは堪らず男を抱擁し、男の唇に自分の唇を重ねました。そして思い出したのです。この人が私の全てだったのだと。どうして、この人のことを忘れるなんて。二人の接吻は優に一時間は終わりませんでした。濡れた音をしきりに立てつつ、口むろ一杯に舌を絡め互いを求め続けました。
「思い出したわ、ああシュリュッセル、貴方はシュリュッセルなのね!」
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セリュルは時折、現実の自分は騎士で軍務大臣で、この部屋の方が実は夢なのではないかと思うことがあります。この部屋では、食べ物はあると思えば本当にテーブルの上に現れるし、肌に垢が浮くこともありません。しかし、そんな違和感は些事に過ぎません。シュリュッセルと二人きりの、この至福に溺れていればそれだけで何もかも赦されるのです。そしてセリュルはいつものようにとろけるような恍惚にその身を委ね、ベッドの天蓋を見詰めました。役割を喪った扉の向こうで、気品ある猫の声が聞こえたような気がしました。
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