壮行の宴
★★★
ある日の事リーネの情報端末にコールが着た。
知らないアドレスだったが発信者情報が付加されていて発信者名が『クック・ブレッセン』となっていた。
クック・ブレッセンはリーネの勤めていたレストラン『グラナダ』のオーナーの名前だ。
リーネはそこまで認識するとすぐコールを受けた。
『おう。リーネか。』
「はい。お久しぶりですオーナー。」
『おう。』
「お店の方に挨拶に伺ったんですけどお留守だったみたいで。」
『ああ。釣りに行ってたんだ。』
オーナーの趣味は釣りだ。港に大型のクルーザーを所有していて皆で海水浴に行った際にも船を出して釣りをしていた。調理師の面々はオーナー権限で船に拉致されて釣れたそばから料理を作らされていたらしい。
「釣りですか。」
『おう。いい魚がつれたぞ。』
「おめでとうございます。」
『これでお前の壮行会を開くぞ。』
「えっ。わたしのですか。」
『そのために釣ってきたんだ。』
どうやらオーナーはリーネの壮行会の料理の材料を釣りにいっていたらしい。
「わざわざありがとうございます。」
『明後日は空いてるか?』
明後日とは結構急だ。
「ちょっと待ってください。」
リーネは一旦情報端末のマイク部分から口元を離し音声入力をオフにするとアントニオに確認をとる。リーネの記憶が確かならば明後日は何も予定が無いはずだが、確認しておくに越した事は無い。
「アントニオさん明後日って何か予定ありますか?」
「特に予定は入って無いよ。」
「ありがとうございます。」
リーネの記憶どおり予定は無いようだ。
「とくに予定は無いみたいです。」
『じゃあ明後日壮行会な。場所はうちの店だ。』
「あっはい。」
『オレからも通知出しとくけど呼びたいやつは自分で呼べ。』
「わかりました。」
『それとお前の上司も連れて来い。』
「はい。もちろん。」
『じゃあな。』
ほぼ一方的に用件を伝えるとオーナーはコールを切った。
わざわざ壮行会のために魚を釣りにいってくれたということは、オーナーはリーネの事を怒っているわけではなさそうだ。それに壮行会を開いてくれるという心遣いも嬉しい。
「アントニオさん。」
「なにかな。」
「今のコールで話していた通り明後日わたしの壮行会を開いてくれるみたいなんで予定に入れといてもらえますか。」
「了解。時間は何時からかな?」
「あっ。そういえば聞いて無かったです。」
オーナーは場所と日付は伝えたが時間までは言っていなかった。
「ちょっと待ってください確認してみます。」
「うん。」
折り返しオーナーのアドレスにコールを掛けるが通信中で繋がらない。仕方が無いのでグラナダにコールを掛ける。
呼び出し音が少しの間鳴りすぐに繋がった。
『グラナダです。って、リーネね。』
「はい。この声はツィッテさんですか?」
『そうよ。このタイミングでコールを入れてきたと言うことは壮行会の事かしら?』
「はい。オーナーから明後日店でやると聞いたんですけど。」
『ええ。その通りよ。おかげで明後日入っている予約のお客様に事情を説明して予約をお断りしないといけなくてもう大変なのよ。』
「なんかすいません。」
『リーネが謝るところじゃないわ。』
「でも私の壮行会なので。」
『リーネのせいじゃないわ。あのオーナーが悪いのよ。えぇ。店の予定も考えずに思いつきだけで決めるあのオーナーが。』
声は冷静だがツィッテさんは怒っている。オーナーに対してかなり御立腹の様子だ。
「お忙しいところ申し訳ないです。」
『いいのよ。それで、用件は何かしら?』
「あっはい。場所と日付はオーナーからお聞きしたんですけど時間を聞いてなかったので教えていただければと。」
『まったく、なんで色々抜けているのかしら。明後日は開店から終日貸し切りよ。だからいつ来てもいいけど主賓だし早めに来た方がいいと思うわ。』
「わかりました。なるべく開店時間に間に合うように行きますね。」
『開店前でもかまわないわ。私たちは営業が始まったら貴女と話しをしている時間がないと思うし、貴女も話しておきたい人も居るでしょう?』
「そうですね。そうします。」
『では、明後日まっているわ。』
「はい。ありがとうございました。」
リーネはツィッテに礼を言うとコールを切った。
「アントニオさん。」
「うん。」
「明後日の時間なんですけど朝からにしてもらえますか。」
「了解。ヤマトにも伝えておくよ。」
「ありがとうございます。でも、後でわたしからも伝えますね。」
「了解。」
リーネは早速壮行会の事を友達や叔父夫婦に伝えた。店が終日貸し切りなら都合のついた時間帯で来てくれるだろう。ツィッテさんには悪いが終日貸し切りにしてくれたオーナーに感謝だ。
皆からは是非参加したいとの返事をもらえた。リーネも明後日が楽しみだった。
翌朝。いつものようにサンドイッチを食べながら情報端末でニュースを見ているとリーネの壮行会の事がニュースで放送されていた。あまりの事につい食べかけのサンドイッチを噴出してしまったくらいだ。
オーナーが通知を出しておくといったのは全星ネットのニュースに流すということだったようだ。流石にリーネの個人情報は放送されていないが、ニュースでは壮行会は誰でも無料で入れる事を始めグラナダの場所や営業時間帯、店の様子などはしっかりと放送されている。ちゃっかりオーナーは店の宣伝もしているらしい。
きっと今日は店には問い合わせのコールが鳴り止まないだろう。ツィッテさんの不機嫌な様子が眼に浮かぶ。
その日はリーネにも知り合いからコールやメッセージが始終やってきてその対応したり、壮行会のために買い物をしたりとあわただしく過ぎていった。
壮行会の当日。いつもは食べる朝食を無しにしてリーネはおめかしをしていた。昨日あわてて買ったイブニングドレスを着て鏡に向かう。背中が大胆にカットされていてちょっと背伸びした感じだ。長い髪もアップでまとめて背中のカットを強調させる。ヤマトは相変わらず白い詰襟だった。
「リーネ支度は出来たか。」
「はい。」
「じゃあ行くぞ。」
「はい。アントニオさん行ってきます。」
「うん。いってらっしゃい。」
空港でレンタカーを借りグラナダにつくと営業時間の前だというのにもうすでに店の前で並んで待っている人がいた。しかも全員リーネの知らない顔だ。
「もう並んでる人がいます。」
「そうだな。これ入れるのか?」
「大丈夫ですよ。こっちに従業員用の入り口がありますから。」
正面の入り口は避けヤマトを裏手にある従業員用の出入り口に案内しそこから店に入る。
「おはようございます。」
扉を開け元気に挨拶をする。
「おはよう。」
「かわいい格好ね。」
「リーちゃんおはよう。」
皆からの気持ちの良い挨拶が返ってくるとなんだかまだこの店で働いている気分がする。
「あの、オーナーは居ますか?」
「奥にいるよ。」
奥とは事務室のことだ。バックヤードの一番奥にある事からそう呼ばれている。
とにかくオーナーに挨拶をしなければいけない。他の従業員達に挨拶をしているヤマトを残し、リーネは少し緊張しながらバックヤードの奥の扉をノックした。
「おう。開いてるぞ。」
オーナーの太い声が返ってくる。
静かに扉を開けると事務机に向かうオーナーの姿があった。
「オーナーおはようございます。」
「おう。リーネか。」
オーナーはリーネの声に机から顔を上げると片手を上げて返事をする。
「今日はわたしのためにありがとうございます。」
「色々作らしたからいっぱい食ってけ。」
「はい。ごちそうになります。」
いつもどおりのオーナーの態度にリーネもつい笑みがこぼれる。
「オーナー。」
「おう。」
「今までお世話になりました。本当にありがとうございました。」
「オレも楽しかったぞ。」
そういってオーナーは楽しそうに笑った。
そのまましばらくオーナーと思い出話に花を咲かせる。
「さて、そろそろ営業開始だ。」
やがて営業時間が近くなったようでオーナーは立ち上がるとリーネの肩をポンッと叩いた。
「はい。」
事務室を出ると従業員達が準備を終えて整列している。
「おう。おめぇら今日はリーネの壮行会だ。いつも以上にしっかりやれよ。」
「はい。」
オーナーが声をかけると従業員達は声を揃えて返事をする。リーネはグラナダで働いていた時、この営業前の適度な緊張感とやる気に満ちた感じが好きだった。きびきびと各自が持ち場に着き店が動きはじめた。
従業員達に続きリーネとヤマトもホールに入る。
「わぁ。」
ホールの様子は普段の営業とは一変していてつい声が漏れる。
いつもは落ち着いた照明にしているホールは明るく照らし出され、美しい花々が活けられた花瓶が所々に置かれ華やかな雰囲気を醸し出している。
またテーブルは中央にまとめられ、壁際には椅子が揃えられたビュッフェスタイルになっているのは多くの来場者を見込んだためだろう。
そして何より眼を惹くのは様々な料理である。テーブルの上には祝いの席に欠かせない魚介類を始め、牛や鶏など色々な肉類、各種のチーズ、色とりどりの野菜、みずみずしい果実など、所狭く並んでいる。その他にもバーテンダーが立つドリンクカウンターやシェフが目の前で調理してくれるサービスまである。
「どうだすげぇだろ。」
「はい。」
「さあ開店よ。入り口を開けてちょうだい。」
ツィッテの掛け声と共に入り口の扉が開かれ外に並んでいた人々が店内に流れ込んでくる。
リーネとヤマトの所にも次々に挨拶に訪れる人が来たがリーネの知った顔は市長くらいで、それも知り合いという意味ではなくテレビで見たことがあるというだけだった。知らない人が次々にかけてくる言葉に当たり障りの無い返事を繰り返すのに忙しく折角の料理も視界の隅に眺めるだけだった。
来場者の挨拶が一段落ついたのは開店から数時間過ぎ昼食時を過ぎた頃だった。
「リーネ。少しつかれた顔をしているわ。裏で少し休んだらどうかしら?」
客足が一段落したのを見てツィッテがリーネに声をかけてきた。
「でもわたしの壮行会なのに居なくていいんですか?」
「そんなつかれた顔で居るほうが来てくれた人に悪いわ。それに何も食べてないでしょう。ここに居たら食事もままならないわ。」
「ではヤマトさんと一緒に行ってきます。」
「主賓が両方居なくなってどうするのです。行くなら一人ずつよ。」
「あっそうですね。じゃあわたし少し休憩させてもらいます。」
バックヤードに戻ったリーネはようやく一息つけた。
「リーちゃんお疲れ。」
「あっ。グレンさんお疲れ様です。」
リーネが休憩していると調理場で働いているメンバーが声をかけてきた。
「お腹空いただろう。これ食べな。」
「ありがとうございます。いただきます。」
調理場のメンバーはリーネのために料理をホールに出す前にとり分けて持って来てくれた。
「ずっと挨拶で結局何も食べられなかったんですよ。」
「主賓はこういう場では料理を食べられないものだよ。始まる前に何かお腹に入れておくと良いよ。」
「そうですね。食べておかないとどうなるかは今日自分の身で体験しました。」
朝から何も食べていないリーネのお腹はペコペコだ。さっそく料理を口に入れる。
「うゎ。おいしい。」
「お世辞でも嬉しいな。」
そういってグレンは照れたように笑う。
「ほんとうに美味しいですよ。」
「その魚はオーナーが釣ってきたのだ。」
「そういえば釣りにいってたって聞きました。」
「あとで感想でもいって上げるといいよ。きっと喜ぶから。」
「はい。」
「じゃあ、僕はまだ仕事があるから。」
「がんばってください。」
「うん。ごゆっくり。」
グレンはリーネをバックヤードに残して仕事に戻っていった。
「ご馳走様でした。」
食事を終えたリーネは食器を洗い場に戻すと、バックヤードでもう少し休む事にした。
「おう、リーネここに居たか。」
バックヤードの椅子に座りお茶を啜っているとオーナーがやってきた。
「オーナー。お魚いただきました。」
「どうだ。旨かっただろ。」
「はい。美味しかったです。ご馳走様でした。」
「なんかくたびれた顔してるな。」
「よく知らない人にずっと挨拶してたんで気疲れしちゃいました。」
「まだ後半日ある大丈夫か?」
「一日ここで働くのなら大丈夫なんですけどね。」
心配そうなオーナーに軽く冗談を返す。
「おう。なら、働いてけ。」
「えっ!?」
冗談のつもりだったがオーナーは本気にしたようだ。
「まだ制服も残ってるぞ。」
「でも。」
「いい思い出作りだ。」
「そうですね。思い出作りということで。」
リーネにもこの店でもう少し働いていたいという思いがあったのでオーナーの勧めに従う事にした。
「わたし着替えてきます。」
「おう。待ってるぞ。」
ロッカールームに入るとなんだか懐かしい気分になる。いつものロッカーの前に立つとリーネのネームプレートが貼られたままだった。店を追い出されたわけでは無いが居場所がまだ残っているようで少し嬉しい。
ロッカーを開けると上の段には綺麗に洗濯された制服が畳んでおいてあり、下の段にはホールシューズが揃えてあるのもいつも通りだ。イブニングドレスを脱ぎ制服のエプロンドレスに着替え、足元はヒールからホールシューズに履き替える。脱いだドレスは皺がよらないように気をつけてハンガーに掛けてロッカーにしまった。
壁際にある姿見の前に立つといつも見慣れた自分の制服姿がそこに映った。足元から順にセルフチェックを入れる。アップにまとめた髪も接客するのにちょうど良い。
「おはようございます。」
ロッカールームから出るとバックヤードに居る全員に聞こえるよう大きな声で挨拶をする。どんな時間帯でも仕事に入るときの挨拶は「おはようございます。」だ。最初は違和感があったリーネだが今ではこの挨拶じゃないと仕事をはじめる気がしないくらいになじんでいる。
「おはよう。えっ、リーちゃん働くの?」
バックヤードで休憩をしていたメンバーが制服に着替えたリーネを見て驚きの声を上げる。
「はい。オーナーが思い出作りに働いても良いって。」
「それにしてもねぇ。」
「良いんです。わたしも働きたいんで。」
「じゃあ。今日も一日、ん。もう残り半日かな?まあどっちでもいいや。とにかくよろしく。」
「はい。よろしくおねがいします。」
メンバーと軽く挨拶を交わした後オーナーの元へ向かう。
「オーナー。着替えてきました。」
「おう。着替えたか。」
「わたし何したら良いですか?」
「何するかはツィッテに聞いとけ。」
「はい。」
ツィッテはホールの主任だ。その姿を求めてバックヤードからホールに出る。
客足はリーネが休憩に入った時よりも衰えているようで従業員にも余裕が見える。ツィッテの姿はすぐに見つかった。
「ツィッテさん。」
「リーネ。何で着替えているのかしら?」
「最後の思い出に働いていこうと思って。オーナーの許可はとってます。」
「主賓に働かせるなんてあの人はまったく…。」
眉間に皺を寄せオーナーに色々と言いたい事がありそうな顔をする。
「良いんです。私が働きたいんです。何すれば良いですか?」
「わかったわ。働く以上はしっかりやってもらいます。」
「はい。」
「今日は入り口の担当をしてもらえるかしら。お客様は貴女のために来てくださったのです。貴女がお迎えしなさい。」
「かしこまりました。」
★★★
一日の仕事を終えたカスネは一度自宅に帰り服を脱ぐとシャワールームに向かった。仕事上がりの汗と埃にまみれたまま宴席に顔を出すのは失礼にあたる。
素早く汗を流し、体を乾かしたら下着をつけコロンをワンスプレー。下着にコロンをすることで香りが外に強く出過ぎない。気をつければほんのりと香りがするくらいにするのがカスネのこだわりだ。周りに迷惑なくらいに匂いを撒き散らすのは品が無いとも思っている。スプレーしてすぐに服を着ると布地にコロンが染みこんで香りが強く出すぎてしまう、なのでコロンが乾くまで服は着ない。コロンを乾かす間にドレスを選び、乾いたところでドレスを身に纏う。
髪をセットして化粧を整えアクセサリーを選ぶ。
まずはブルーサファイアのチェーンリング。これは一つの大きな鉱石から鎖状に削り出したもので細やかなデザインが目を惹く逸品だ。サファイアやルビーと言った鋼玉は人造も普及しているがこれは天然物である。鋼玉の主成分は酸化アルミニウムでありローリスでは産出量の比較的多い鉱物で鉄よりも埋蔵量が多いほどだ。しかし宝石に使えるような美しい結晶はそのうちでもごく一部である。また鋼玉は非常に硬い鉱物として知られている。モース硬度で言えばダイヤモンドに次ぐ硬度九だ。そして耐熱素材として使われることがあるように熱にも強く融点は二千度を超える。また天然物は結晶構造が不均一でありそれが複雑な色味を出してくれる反面で部分的に脆くなる場所が出てくる。そんな扱い辛いサファイアを複雑な鎖状に削り出すのは高い技術が必要になる。結果としてこのリングはかなりの高級品なのだ。
次にシルバーとダイヤのブレスレット。銀もローリスでは産出量の少ない金属だが金ほどの希少価値はない。しかも、このブレスレットに使われている量は少なく、留め金に使われているだけである。また、ダイヤも無色の人造ダイヤである。有色のダイヤだと合成に複雑な過程が必要となるが、無色のダイヤは炭素を核となる結晶に適切な温度と圧力の下で昇華させれば出来上がる。学生の実験でも作られるほどでたいした価値は無い。しかし、主張しすぎないシンプルなデザインがどんな装いにも合うのでカスネのお気に入りだった。
そしてゴールドのピアスが今日の装いだ。ローリスでは金は高価でありステータスだ。わずか一グラムで年収に匹敵する金の装飾品を買うほどの余裕はカスネにも無い。このピアスは祖母が以前使っていたものだ。ローリスでは年頃を迎えた親類の娘に自分の使っていた装飾品を譲るという習慣がある。カスネが生まれて十公転のプレゼントが祖母からもらったこのピアスであった。それ以来このゴールドのピアスはカスネの持つアクセサリーの中でもっとも高いものであり、礼装が必要なときには必ず身に着けているものであった。
一通り身支度が整ったら情報端末で呼んだ車に土産物と共に乗り込み目的地にグラナダと入力する。
車に揺られながらあのちっちゃい娘が自分を見たらどんな反応をするだろうと想像してみる。驚くだろうか、喜ぶだろうか、それとも面接の時に少し顔を合わせただけの自分の事など忘れているかもしれない。
色々と考えているうちに車はグラナダの前に着いた。カスネはグラナダのグランドフロアなら何度も利用している。特にグランドフロアの奥にあるバーは常連といってもいいだろう。師匠と飲むのはいつもそこだ。
しかしグラナダのアッパーフロアは一度も利用した事が無かった。人に傅かれるのは少々気疲れするというのもあるが、何よりカスネの給料からすると値段が高い。今日は折角だからアッパーフロアにも顔を出してみようと思っている。
入り口を抜けエントランスホール正面にあるいつも利用するグランドフロアへの扉を横目に左手にある厚い絨毯の敷かれた螺旋階段を昇る。段を昇るたびに柔らかな絨毯の感触がヒールを通して足に伝わってくる。
最後の段を上がるとエプロンドレスを着たウェイトレスが両手を揃えお辞儀をしていた。
「いらっしゃいませ。」
ウェイトレスが挨拶を終え、顔を上げるとその顔は見た事のあるものだった。
「プッ。」
思わず噴き出してしまった。そこに居たのはこの壮行会の主役であるはずの少女だった。
「あれっ。カスネさん?」
「そうよ。何で壮行会の主賓の貴女が接客してるのよ。」
「あれ?SNSに合格したのがわたしだってなんで知ってるんですか?」
リーネがちょっと意外そうな顔をして見上げてくる。
「この間船長さんと一緒に農業局へ来ていたでしょう?それを見かけたのよ。」
「ああ。あのとき見てたんですか。それでわざわざ来てくれたんですね。ありがとうございます。」
カスネは屈託の無い笑顔を浮かべながら礼を言う少女を眺めながらこれは敵わないと思った。この娘には天性の明るさがある。
「いいのよ。」
「それで、何で働いているかと言うとですね、実はわたしこのお店で働いてたんです。」
「ウェイトレスしているって言っていたのはここだったのね。」
カスネはグラナダを利用した事があってもアッパーフロアは利用した事がない。顔を知らなかったのも無理のないことだ。
「はい。それで折角なんで最後の思い出作りに働かせてもらってるんです。」
「それにしても主賓を働かせるなんて師匠らしいわね。」
臆面も無く主賓を働かせるのは師匠以外に考えられない。
「師匠?」
「このお店のオーナーよ。」
「カスネさんオーナーとお知り合いだったんですか。」
「ええ。以前は農業局に勤めていたのよ。それで今でも農業局のスーパーバイザーとして色々アドバイスしてもらっているの。だから私は師匠と呼んでいるのよ。」
「へー。そうだったんですね。あっ手荷物はあちらのクロークへどうぞ。」
リーネは今更ながらカスネの手荷物に気付いたのかクロークの利用を勧めてくる。
「これは貴女へのお土産。今日取れたばかりのお野菜よ。」
今日畑でとれた野菜の詰め合わせを手渡すと、蒼髪のウェイトレスはこれでもかと言うくらいに嬉しそうな笑顔を見せる。
「ありがとうございます。開けてもいいですか?」
手渡された土産に好奇心を押さえ切れないと言う具合に眼を輝かせている。
「ええ。どうぞ。」
受け取った物をその場で開封するのは少しお行儀の悪い行為だが、ささやかなプレゼントにこんな嬉しそうな顔をされたら断る事など出来ない。
「えっと、トマトにきゅうりにお豆と…。このおっきいのはなんですか。」
「それはケールよ。」
「ケール?」
「キャベツの仲間。ビタミンやミネラルが豊富で体にいいわ。」
「へー。知らなかったです。どうやって食べるんですか?」
「絞ってジュースにしたりもするけど生のままでも食べられるわ。」
「わかりました。ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
「あっ。いつまでも入り口に居てもなんなんで中へどうぞ。」
「そうするわ。」
「わたし仕事中なんであんまりゆっくりしてると怒られちゃうんですいません。」
「いいのよ。」
「その代わりにオーナー呼んできますね。」
「ありがと。」
お土産を大事そうに抱えてバックヤードへ向かうリーネの姿を見ながらカスネは意地悪な自分が少し嫌になった。
★★★
壮行会からの帰り道。空港へ向かう車の中でリーネは心地よい疲れを感じていた。久しぶりにするウェイトレスの仕事も楽しかった。最初は知らない人ばかりやってきて気疲れしたが働きはじめてからはあまり気にならなくなった。制服に袖を通したらスイッチが切り替わった感じだ。見送りに来てくれた友達には働いている事を散々笑われた。カスネにも笑われたのを思い出す。
カスネが来てくれた事は嬉しかった。面接の待ち時間に少し話しただけの仲なのに、わざわざ来てくれた上にお土産まで持って来てくれたのだ。
叔父夫婦は遅い時間にやってきた。こんな日でも叔父は残業をしていたらしい。叔母は最後まで愚痴っていた。
ふと隣を見るとヤマトはうたた寝をしている。オーナーやカスネと意気投合してずいぶん飲んでいたみたいだった。
膝の上には皆のくれたお土産がある。カスネにもらった野菜。オーナーからは釣ってきた魚と一緒に慣れ親しんだ制服のエプロンドレスをもらった。店の皆からもらったケーキ。友達からもらった寄せ書き。叔父夫婦からはアクセサリー。どれも温かい心がこもっている。
空港が近づいてきた。
「ヤマトさん。」
「ん。」
「起きてください。」
「あ。うん。」
何とか目を覚ましたが大分酔っ払っている様子だ。
「もう空港着きますよ。」
「あぁ。」
車がカースペースに滑り込む。
「ヤマトさん歩けますか?」
「大丈夫だ。」
そう言って歩き出すが足元がふらついていて危なっかしい。
何とか船内にたどり着くとそのまま操舵室の椅子に座りこんでしまった。
「お水飲みますか?」
「あぁ。」
リーネが水を汲んで戻るとヤマトは椅子の上で眠っていた。
「こんなところで寝てると風邪引きますよ。」
揺すっても起きる様子が無い。
「完全に寝てるね。」
「アントニオさん見ていてもらっていいですか?」
「了解。」
ヤマトの事はアントニオに任せリーネも寝支度をする。
今夜はいい夢が見られそうだ。