実るほど頭を垂れる稲穂かな|苗の拙作我田引水
俺の年齢なんてもんは、これから始める話の本筋にゃあ関係御座いませんから、覚えて頂かずとも結構です。ただ、述べ上げる内容と背景についてのイメージが、し易くなる材料とすべく、で申しておきますと、四十寄りの三十代です。
では、風の吹くまま気の向くまま、勝手に始めさしてもらいますので。
実るほど
頭を垂れる
稲穂かな
みのるほど
こうべをたれる
いなほかな
この誰が最初に読んだのか分からない昔々からある俳句。
もともとは、
上五【実るほど】
中七【頭の下がる】
座五【稲穂かな】
という中七の部位で助詞が【の】だったようで、今の世に伝わる【を】のやつとは、受ける印象がやや違う詠まれ方をしていたらしいですね。
Ah......主題について。
俺のぶっきっちょな下の句は、気にしないで下さい。
母が昔、俳句を詠む歌人だったのです。農作業の合間にね、俳句とか詠む会に趣味で通っていたんですよ。亡くなってからはね、父がそんな母に手向けるべく、それを数冊だけの本にしたりとかっていうことをね、しておりましたね。
北の大地の更に北端、稚内市で母は生まれ育ちました。
その日本最北端の地で育った母は――まあ、ちょっと、母が嫁いだ先の地名を書くとね、俺が北海道の何処出身なのかバレてしまうのと同義ですから、そりゃすぐさま身元が特定され得る情報の欠片になっちゃいますので、普段阿呆なこと書いておる身としては、全て伏せておきますが。
稚内といういつでも北の海が見える場所で、俯いた顔を上げるだけで、すぐ海が目に飛び込んでくるような開けた土地で、その海の街で、育った母は、大人になってから随分と山奥にある市へ就職しました。最初は息が詰まったそうです。どの方角を見ても山、山、山、そして山、山、山。顔を仰け反るほど上げたところで、故郷の海の街とは、比べようもないほど狭い空しか見えません。淵が水平線ではなく山稜に区切られているのです。山育ちではない母にとって、そりゃとても圧迫感のある環境だった。
母は役場で働きながら、いつも思っていたそうです。こんなところとは早くおさらばしたい、と。
あの時代に於いては珍しいこととして、母は女だてらに大卒でした。
俺の母はね、小さい頃の事情が原因で、少し首が傾いてしまったんです。頭を真っ直ぐにするよう常日頃から努力していました。でも、その僅かな傾きを一秒の隙すら見せず年中曝さぬぞと、力みっぱなし状態で保っている、なんてことは、人には出来得ないです。母に十代の若さがあった頃でも、それは同じこと。學び舎で教室を同じくする友らから、いじめられていたそうな。
母はひたすら勉学に勤しみ、励み続けることで、雑音を遠ざけていた。
「お前らよりもいっぱい勉強して、お前らよりもいっぱい幸せになってやるんだ」
そういう執念と心意気で、必死に頑張ったのだと。
母はね、そんなどぎつい詛呪じみたことなんて一切言わない人でした。自分に対して、頑張った、なんてのも言わない人でした。それなのにね、それでも頑張ったって言っちゃうほど、苦労したんでしょうね。母のお父さん、俺にとっては母方のお爺ちゃんって続柄に当たる人ですが、娘の勉強大好きっぷりにあまりいい感情はお持ちじゃなかったようで、事ある毎にその教科書を放り投げるとかして、邪魔していたそうです。女が大学へ行く必要はない。そうおっしゃっていたそうな。
これね、自分の爺さんについて述べているのに、おっしゃるだとか丁寧に言い表す必要はないんですがね。俺にとっちゃ、やや遠い存在でしたし、母にとってもそうであるようでした。
大学を出て、就職先としてあの山ばっかな地を選んだ理由の詳細は分かりません。俺は今でも、小太りな年齢になった母しか知りませんし、知り得ません。母が若い頃の写真は殆ど見たことがない。
見せてもらえないんですよ。あるはずなんですよ、探すと父が怒るからね。だから今でもきっとうちにはある、カラー写真の技術もまだ曖昧で淡く褪せたような色がついた当時の写真が。でも、うちにあるはずの母の写真、その横には、いつも父が写っているらしく、それ故で子供の手の届かない処へと隠されていたんです。父さんは髪がふさふさとあった若い頃の己を見せるのが、恥ずかしいんでしょうね。母の若い頃の姿とやらへ好奇心が湧いた俺たち息子娘たちは、とうとうそれを勝手に家捜ししまくるなんて暴挙に出たわけですが、今言いましたけど父がねぇ、怒るんですよ。このあとの記述を読んでもらうと分かる面白感覚だと思うんですが、父が私憤で怒るんですよ。その写真を探されるのは、父にとってノー・グッドなんです。今では俺も、その気持ちについて、少しだけ分かる気がします。
飽く迄、話に聞くところ、としての昔の母はですねぇ、『すれんだあ』でぇ、えれぇ別嬪さんだったみたいですねぇぇ。飽く迄も、話に聞くところ、ですけどね。
ひゃぁぁ、ですよ。
母親という物体に、美しい頃があったなどという事象はね、こりゃ今すぐ分かってもらえる感覚と思うんですが、いささか不気味なイマジネーションでしょ?
どんな理由で、海の街で育った母が、あの山奥の地を就職先として選んだのか、俺には分かりません。
どんな縁を機に、母が一生の骨を生める地となったあの市が、その覚悟を決める処となっていくあの場所が、初期でゴールとしてでなかろうと、選択されていったのか、俺には分かりません。
次の世代へ引き継ぐべき情報と、特にそうでもない些事が御座いますからね。あれそれの信念に基づいて成したことや、能動的な取捨選択を行ったとかの実体験であれば、誇らしげな口調で息子娘へと語るのもいいでしょう。でも、自分で選んだのではなく、外的な要因から流された結果として、母があの土地へ来たのだと仮定した場合、それは些事のほうに含まるんじゃないかしら。
誰にだって、若者だった頃は、ありますよ。そりゃね。
好奇心と興味本位だけで穿り返すわけには、いかない人生の恥部であるのかもしれないし、予想は机上の空論の域を出ません。
あの人から生まれた自分たち。禁止されたら、それまで気になってなかった事柄だろうと、藪蛇でしたくなってしまうのが、人間。昔いろんな予測を立て合ったもんですよ。
息子の俺に分かるのは、若い時分の母さんって美人だったんだなぁ、へぇ……そうなんだぁという朧げな案内だけです。
もう一つ分かるのは、美人であるのならばそれだけの条件で、どの時代何れの場合に於いてでもモテるだろうっていうことっスね。であるからこそ、美人っていうわけで、遍く森羅万象悉くね、いい感じの雌が雄を引き寄せるのは昆虫や鳥やどの種の界隈でも先史時代から一緒だろうし、人海の世でも古今東西自明の理かなと。
母が父と出逢う前に、どんな恋愛経験を経てきたか、なんてことは、子供の俺の立場からはあまり進んで想像したいことじゃなぁい。俺はオッサンですが、両親はいつまでも親なんです。
でもね、落ち着いて考えてみれば、あの時代であろうと、イスラムもびっくりなほどの男尊女卑アンド処女結婚だけで埋め尽くされているような古めかしい古めかしい古代環境じゃないでしょうから、母も若い頃のラブストーリーがね、あって、熱に浮かされるが如く、覚束ない足取りのまま、山奥へと迷い込むみたいな? そんな感じでやってきたのかもしれない。学生としてのモラトリアム期を消費し切り、社会人になる際、なる時のことですよ。その辺、その境目ってのはもうね、別れとか出逢いとかをねぇ、あれやそれやのトピック云々、こちらの予想が否応なく掻き立てられてしまうもの――っていうかね? ボカさずクリアに言いますね。俺、大人になってから会った年配の先人たちのね、その、どうもこう、そういうツテの中にね、母の前カレだったんじゃね! って思う疑わしき人が居てね……w
すいません、草生やしちゃった。本文中のダブルは極力使わないよう心がけてるんですが、これだけは芽吹くのがね、不可避ですわ。ま、ね。父にもチクってないことを、ここで述べ上げるこたぁ出来ないのですし、あの、やっぱ親の恋愛遍歴なんて考えたくないことなので、母が山奥の市で就職したのは、ずっと海で育ってきて、もうそんなデカいだけの水溜り見飽きたから、今度は山で暮らしたいかもなぁっ……なんて、ふんわりルンルンとね、思っただけなんだ、みたいな、そんな風にね、自分の中ではボカして片付けてますね。(これを田んぼを用いた四文字熟語で『我田引水』っていうんですよ。頭から追い払えない・拭い去れないっていう意味では『殘留農藥』かしらね)いろいろ察するトコやコトがあったとしてもね。母が結婚したのは父なんですから、その前の履歴・ヒストリーなんてどうでもいいんです。余談でしょうし、これこそ些事でしょうし。
史実としてはね、そんなこんなと、いろいろあったんでしょうけれど、母はもう兎に角山奥での生活に辟易していました。広い海が見える街に帰りたいと。
いよいよ稚内へと帰ってしまおうかと具体的に考え始めた頃合で、母はね、そのワーキングオフィスである役場へ手続きのためやってきた父からね、一目惚れされてしまいます。
父は別嬪な母を見て、猛烈なアプローチというか直接的・物理的なラッシュアタックを開始するわけで、連日の攻撃に曝され続けた母は、とうとう回避しきれず被弾。
「生まれた街に帰ろうと思ってたのに、何を間違ったか結婚してしまった。農家んなるために勉強してたわけじゃない、のにね?」
母のその語り口が可笑しかったから、今でもよく覚えている台詞です。
もう一個ね、よく覚えていることがあります。
今の農産物っていうのはですね、安全と安心を添えるべく、『私が作りました』っていうキャッチフレーズとともに、生産農家の経営責任者と連絡先電話番号が表記されておるのが、ありますでしょう? うちもそうなんです。
でね、或る日、うちにその直電話が来たわけです。うちのもんを買ったお客様からのね、いわゆる『クレーム』というものです。
父は電話口で必死に謝りました。電話の向こう側に居るバイヤーへ、己の姿が見えているわけでもないのに、父は何度も何度も頭を下げて謝っています。その頭を垂れる様を見ているのは、息子たち娘たちです。俺もその中に居ましたよ。
自分の父が、偉大なる父が、謝る姿です。
客の気持ちは分かります。詳しく書くと、うちが生産している果実の名前とともに、それは全国区的に有名な代物であり、産地としてのその名前も、つまりは俺の故郷である市の名前がね、具体的にバレてしまうので、特定されないよう表記したいのですが――ま、舌が蕩けるほど甘くて、大きい……そして、市場では高額な値段で取り引きされる物体です。更には、賞味期間がね、大変短いといったモノです。
あの、その実物が何か想像出来てしまったとしても、この場で忘れて下さいね。
それを踏まえた上で聞いて欲しいのですが、その客は自分のほうがミスをしています。賞味期限をとっくの昔に過ぎ去ったその果実を食べて、醗酵し過ぎている、概していえば腐っているという文句を言ってきたわけです。その情報を隠した電話であろうとね、或る番号を述べてもらうだけで、いつ出荷して、いつまでの賞味期限と記されているか、生産農家のほうではすぐさま判るインフォメーションとなるんです。
普通の果物と同じ感覚で、数日間放置した結果です。命が短いうちのその果実は、うっかりとそのミスを犯した客の冷蔵庫内で、無駄に腐ったわけです。
賞味期限の表記を見て、その短命さにね、さぞびっくりしたことでしょう。自分側のミスを隠してまで、生産者への文句を言いたくなる気持ちは、分かりますよ。何しろ、目が飛び出るような額でご購入されたでしょうからね。
でもね、
早朝未明から、夜は日が沈んでもまだ、ずぅっと、農地でその果実の世話につきっきりとならねば、実らんモノなんですソレ。その手間のかかる弱い果実の全介護をしているような農作業にね、人生丸ごと全部捧げてきた父なんです。雪の季節で休憩できる期間以外はね、年がら年中、日に焼けてね、もう松崎○○○みたいな黒さですよ。忙しいんです、屋内で休む間もないほどね。ブラック企業顔負けのビジー。さぼって駄目にしたら、残業分どころか一年間の稼ぎが大変なことと化すわけです。一年分なんてダメージ負ったら、そのまま離農しなきゃならんかも。
おにぎり持って作地で食って、また仕事すぐ再開とかね、そのおにぎりすら、天候のちょっとしたご機嫌で昼にはありつけないとかね、そういうとんでもなく忙しい仕事をね、農家はしてるんです。それでもね、親父ギャグを言って、周りの空気を冷凍しては、自分だけは朗らかに笑っている父なんですよ。
ずっとね、息子の一人として、俺は十代の頃、その父の背中を見てきました。
親父ギャクを寒いとしか思えない、若さだけしかなかった時代が、俺にもありましたよ。ふさふさの髪とともにね、俺にも親父ギャクなど決して言わんというね、見た目の格好ばかり気にして、無様に振る舞っていた時代がね、ありましたですよそりゃね。女にモテるためには、どうすりゃいいか、そんなんばっか考えてた。きっと父にもあったでしょうね、息子娘たちに写真を見せられないほど青い時代が。
俺、頭皮が日に焼けるくらい毛髪が去った今ね、思うんですよ。自分を省みてひしひしと思い知らされることがありますよ。自分がオッサンになってみて、初めて分かったことです。
明るいオッサンになることの、なんと難しいことか。
俺には子供は居ません。親ってのはね、子供がいるだけで、それだけで尊敬に値する。そうシンプルに思ってたのですが、明るく生きるっていうのはね、それ以上に難易度が高いことです。俺には出来てない。未だに自分のご機嫌どおりに、テンション上がってる日もあれば、それこそその果実みたいに腐ってたりしますよ。
誰に対しても、明るい自分。
そういったものを常に年中曝してるっていうのはですね、本当にそうでなければ、出来ないことです。俺の父は、どっこにも隙間なくギッシリと『明るさ』だけが詰まってるような人です。それこそね、松崎○○○の肌を焼いてる太陽そのものみたいな人ですよ。
無償の愛のメモリーですよ。
そういったね、明るく振る舞うことの大切さを知らなかった頃の俺たち息子娘たちでも、明るく振る舞うしか能がなかった俺たち兄弟姉妹でも、父の決して負けずに働き続けるっていう後ろ姿は、尊敬以外の何ものでもありませんでしたよ。その気持ちはもっと大きくなって、隠居した今の父に対してでもそうです。永遠に超えられない壁で在り続けています。俺は自分の親以上に尊敬してる存在なんか居ない。
客の気持ちは分かります。
でもね、自らが招いたミス起因で始まった腹立たしさのね、溜飲を下げたいだなんて仕様もない理由。つまりは、無実だと分かっている他人を巻き込む電話ね、そんな電話かけてくる相手です。自分の矮小な自尊心を満足させたいだけの下らない下らないクレーマーのせいで、俺ら幼い兄弟姉妹が尊敬してやまない父親が、謝ってるんです。客に見えもしないのに、頭を垂れて、ひたすら伏している。それを自分の息子たち娘たちに見られながらも、ですよ。謝罪し続ける姿を見ているのは、俺たちだけなんです。でも、父は客の気が収まるまで、その電話を向こうが切るまで、誠心誠意頭を下げ続けてひたすら謝罪の弁を申し奉っていましたよ。
情けないと思いました、そんな風に振る舞ってしまえる父を。
情けない無様さに満ち溢れていると思いました。向こうが悪いのに、何故謝ったのか。こちらには微レ存ほども非がない。何故謝罪したのか。当時、河野談○とか俺は知りませんでしたけど、幼いながらも、弟殴ってないのに謝れって叱られたなら、頭に来ることくらいは当然分かってましたからね。誰でも濡れ衣を着せられたまま黙しているなど、良くないことだと。
父にがっかりしてしまいました。何故言いなりになってしまったのか。何故言い返さず謝ってばかりで話を終わらせてしまったのか。
そんなのは謝りじゃなく誤りだ、ってね、思うでしょ。ちょっと親父ギャク風にね、誰だって思うと、思うんです。
父だって人間です。私憤がないわけないんです。若い頃の写真についてはね、もう言及しませんけどね。父は何をされても怒らない人では、ないんです。怒れないヨワヨワ人間じゃないんです。寧ろガキ大将だったようですよ、近所の人の話ではね。もう筋肉とか凄かったからね。ゴリラですよ。一日中筋トレしてるような生活ですからね。凄いんですよ父は。兎に角ね、心身ともに、戦える人なんですよ。
でも、戦わなかった。
俺たちは思いましたよ。口々に議論し合いましたよ。緊急兄妹会議ですよ。下らない人間のために、どうして素晴らしい父さんが、自分の中へとストレスを抱え込まなきゃならんのか。
けどねぇ、それを俺たちから聞いた母が言うんですよ。こんな俳句があるんだとね、教えてくれたのが、うん。そうです。
実るほど頭を垂れる稲穂かな
うちは田んぼもやってましたからね、意味はすぐに分かりました。秋の収穫期になると、米粒を頭に抱えて垂れる稲穂の姿など、毎年毎年見飽きている光景です。学校帰ればすぐさま作業着に着替えさせられて、宿題前に農作業手伝うってのが、俺たち兄弟姉妹の日常でしたからね。
でも、その俳句にはそれだけの意味しかないってわけじゃない。見たままの光景を実況中継するみたいに詠われた俳句じゃない。
もちろん、これを読んでくれてる貴方は、この俳句がどんな意味を孕んでいるのか、ご存知だと思います。けれど、当時の俺は知らなかったです。
母さんは、謝り続ける自分の夫の姿が、稲穂の成長過程に似てるから、いつもの朗らか皮肉りジョークで喩えただけなのかなって。ちょっと笑えない空気になりましたよ、あの時ね。母さんもジョーク言うべきじゃない空気の時に、何を言っとるのかとね、俺たちは呆れました。
ま、分かってないのは、もちろんバラガキのね、ジャリンコの俺たちのほうだったんですけどね。
母が詳しく、その俳句の意と、父の行動の真をね、解説してくれました。
もし、あの人が、連絡してきたお客様に一言でも言い返したら、どうなるか?
そらもうね、憤慨した客が電話切って、次に連絡する場所は、農協でしょうよ。そっちに登録してる農家の一人が、こんな腐ったもんを出荷し、親切に注意してやれば、なんと誠意の欠片もなく言い返してくる始末だ、とね。あの逆ギレ農家を組合から除名しろとかさ、言うんじゃないかな。
ま、農協もね、そりゃ当然、あの或る数字を一箱一箱に記載してるのは、流通を仕切ってる農協自身ですからね、俺たちの父ではなく、その客のほうが間違っていると気づくわけですよ。
農協はさ、当然言い返すじゃん? そういうとこじゃん?
一個人じゃない農協は、言い返しますよ。品質管理が出来ていないとかね、自分たちのせいにされては溜らない。農協の看板背負っているわけです。
あなたの勘違いで間違っているのはあなたです。
そう言い捨てて無碍に電話を切るかもしれない。
あの、すいませんね、農協の人。俺が知ってる農協の人に、そんな冷たい企業かくやあらむお役所仕事してるような心ない人は居ないです。しつこいくらい親切な人しか知らないです。
けどね、その客がどう思うかは、その客次第。どの相手であるかにかかわらず、僅かでも自分のミスを指摘されたら、とんでもない行動に出る可能性は十分あり得ることです。農協で親切にされたところで、その変な客が満足する保障などない。己のミスを棚上げするどころか、忘却してしまうくらいの質の悪い人間モドキですからね。ある事ない事、辺り一面に撒き散らすかもしれない。
口コミってのは恐ろしいもんです。当時のインターネットが普及していない時代でも、それは変わりません。寧ろ画面越しでない人と人が、実際に対面した上での会話や、地声同士の通話したりの形式で廣がってしまう昔ながらの口コミ、そのほうが、要らぬ信憑性を如実に醸し上げてしまうもんです。ネットを見る世代ならね、嘘と真実がそこに玉石混合で書かれているってのが、分かっています。
でも、現在の俺のようなオッサン世代よりも、もっと上のオッッッサン世代は、そうじゃありません。あの時代の人は、真実を教えてくれる情報機関が無かったですから、今とはまったく違う観念の下で生活していました。カラーになったばかりのテレビは、未だ有り難い存在であると、そういう戦後感覚が抜けきっていない世代です。
マスメディアから垂れ流される情報を疑うことすら知らない世代です。
よく何かで耳にしませんか。若しくは、あのジジイどもから、あの団塊どもから、あの世代どもから、実際に聞き及んだことはありませんか。彼らは、学生運動という名の共産左翼活動に参加したこと、その世代であること、それをね、嬉々として自慢げに語る、マスメディア天下の申し子どもです。
彼らにとっての徳川将軍は、マスメディアなんです。彼らにとってのテレビ放送は、上様の御布令なんです。
いや、知らんけどね。俺は彼らじゃないから。俺はもうちょい若いからね。知らないです。生意気言ってすみません。喩えに出してるだけなんで、どうかお赦し下さい。
けどねぇ、俺の伯母はもうねぇ、「コイツ、早くなんとかしないと……」とすら思えないほどね、「この人、もう駄目だ……。手遅れだ……」ってくらいのレベルでねぇ、一年三百六十五日、日々一時も欠かさず、経年でどんどん、テレビや宗教やの情報に毒され、その妄信と盲信の状態というか容態がね、悪化しまくった上に昇華しちゃっておるので御座いますよ。
俺の伯母は、メディアの言うとおりの政党へ投票するんじゃないかな。あの、あれ、あいつのね、札幌市中央区のあそこであったね、街頭演説ね、あれを札幌の端から見に行って応援しとりましたよ。絶賛で支持しとりましたよ。伯母はそんな感じで、彼らが瓦解したあとはね、絶望しかかって如何わしい新興宗教にね、現在ではもうどっぷりと傾倒して、身も心もアレなことになっております。
何やら話が逸れましたが、
あの時代、あの世代、当時のクレーマーっていうのは、もう今のチャラいクレーマーとは、本気度が違うんですよ。キチガ○ですよ。放送禁止用語の生存在です。
父がもし、クレームに対し一言でも言い返したら、農協がもし、クレームへ対する正常な処理対応を行ったら、そのマヂクレーマーは、マヂ口コミをドバァッと廣げていってしまう。収拾のつかない事態を招いてしまう。そういう誰も得しない将来を招来しちゃう。
ね。
可能性がないわけじゃないことは、あり得るってことですから。
父はそれを根元で防いだんです。自分の頭くらい下げようじゃないかってことですよ。
説明が長くなって脱輪までしちゃってごめんなさい。なんせ俺は、荷車がすぐ脱輪しちゃうような農道・あぜ道で育ったんでね、真っ直ぐ歩くのが苦手なんですよ。
大人になったら、頭を下げるもんです。何度も何度も、頭を下げる。下げることになる。
自分が悪くなかろうと、どんな私憤やストレスが蟠り、それが溜まりまくりで積もり積もった挙句、硬い尿道結石が如く凝縮しまくろうとね、アダルトなもんを読める年齢になったら、人は頭を下げながら生きていく。
あの人がもし、自分の私憤に駆られただけで、謝らずに文句言い返したら、愚かな結果を手繰り寄せるのは、どっちになってしまうだろうね。
お前たちよ。
私が一番好きな歌で表現するなら、それになるんだよ。
実るほど
頭を垂れる
稲穂かな
父とともに、農作業で日曜日も関係ない忙しさの中で、自分の私物など一切買ったことのない母が、その唯一の愉しみとしてずっと続けていた、ただひとつしかない趣味。
それが俳句です。
俺は頭がいいほうじゃないので、母の残した歌、その全てを理解し尽くすことは出来ないです。自分自身には俳句を綴ろうっていうお上品な趣味もないです。
けれど、たまにおふざけで一句詠んでみようかなぁなんて気が迷った時には、いつも母を思い出してしまいます。どんなに如何わしい俳句を作っている時でも、ここまで記してきたような母への憶いが蘇ってしまうため、なかなかに毎度毎度、複雑な気持ちと相成ってしまいけるのです。難儀なことですし、難義な拙作ですみません。この厄介な配線で繋がっちゃったシナプスはその内ね、是正したいので、科学と文明の発展を一刻も早く――と願うばかりです。
オチが解釈不能なものとなってしまった感が、払拭しきれない想いに……やや、苛まれております。
まあ、いっかー。
俺にとって俳句っていうのは、そういう文化で御座いますね。
人を憶い出す。
母。
そして、若い頃も、その後も、ずぅっと、同じ畑の中で一緒に居た、父のこともね。
後書き
まあ、かといってね、河野談○については――ああ、いや、いいです。なんでもにゃあです。どんな考えがあろうとね、思い当たったことを言わずに我慢できるかどうかってのが、空気を読める人になるための第一歩だと思います。俺はよく空気読み間違ってね、親父ギャグ言ってないのに言ったかのような寒さを醸しちゃうことが、ふふふふ、多々あるので御座いまして、気ぃつけて参りたい所存です。
俺の母のこと、あと父のことをね、ブログ用のエントリーとして書いていたんですが、途中で気が変わりまして、こちらで短編として保存させてもらうことにしました。ブログのほうを書く時、俺は最低でも一枚は画像を貼らなきゃ気が済まない質なのです。是が非でも画像貼りたい症候群を患っているのです。現代社会だからこそ起こり得る新たな不治の病かと存じますね。ですが、ブログ用に分けているそれら手持ちの貼り画像が、ちょっとアダルトなものしかなかったので、流石に、ね? そゆのでデコりながら両親の話をするってのは、不謹慎だというか、気が引けるので避けたかったんですよね。あとは、まあ、本当の理由のほうを述べますとですね、俺のブログってちょっとシステム面でやや脆弱なところがあって、記事が消えたりするトラブルが時おり起こるものですから――この話が消えてしまうと、(父はまだね、元気に生きておりますが)俺は母をもう一度喪失するような気分になってしまうかも、ってことなんです。親との別れっていうのは、いくつになっても思い出に仕舞い込めないものかなと感じます。普段は忘れてますが、ふとしたきっかけで思い出し、二度と会えないと繰り返し理解しなきゃならない。おっと、おっと。暗い話になってきちゃった。そんなこんなでね、こちら、なろうさんは、万全のサーザー、じゃなくてサーバーで運営してらっしゃいますのでね、俺にとって大切な思い出の一つであるこの話をですね、安全と安心に包まれながら載せさしてもらいたいなぁと思った次第です。
俺の両親についての個人的なこと、です。お時間をとって頂き感謝します。若干のアレが垣間見えた果実の名称や、俺の出身地、あれそれについて、特定は勿論、推察する思考すらも、ご勘弁願いします♡ 俺は父のように、あなたが満足するまで電話を切らず堪え忍ぶことは、まだまだ出来ない若輩者オッサンなので、この辺にて失礼さしてもらうっス。
どうもありがとう御座いました。
ノンフィクションを書くのは、もう二度とないことだと、そんな気がします。現実の生々しい実際の人物ってのは、実際に歩んできた過去があるのだから当然なのですが、ここまでの分厚さを感じるものかと、これを書いていて思いました。ま、それが上手く書けているかどうかは、別の話ですが。未だ、不甲斐ないお筆技術しかないです。俺はいつも書いてるフィクションの中で、これほど厚みのある登場人物を舞わせることが出来るようになるだろうか。それを考えると、ノンフィクションをこれ以上書くのは危険だって感じますね。もう二度とフィクション・ワールドを表現出来なくなりそう。
いつか楽しいハナシが書けたらその時に、またよろしくお願いできれば、嬉しく存じ上げます。
ばいび~☆彡