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ハバネロサイダーと、彼と

作者: 倉舞真夏


 長い長い、道のりだった。そう簡単に辿り着けはしない。だからこそ、目標たり得るのだ。

 それは辛く苦しい道程かもしれないけれど、立ち塞がる困難に打ち勝ってこそ、意味があるというものである。

 良いだろう、やってみせようじゃないか。

 目指すべき場所はただひとつ――オリンピックだ。




 息が上がり、心臓の鼓動が跳ねるように速くなる。足はまだまだ動くのに、なんといっても呼吸が辛い。

 さすがにこの坂は、何度走っても馴れない。

 初夏のこの季節、新緑の青臭い香りに包まれながらのランニングは兎角快い。けれども、それも心に余裕があればの話だ。

 たとえば、この坂。地元では地獄の五合坂と呼ばれている市内屈指の急勾配は、近隣の学校に通う運動部員ならば誰しも恐れる“心臓破り”の名所である。

 元来、地方都市であるここ御音(みおと)の街は、周りを見れば山に囲まれ、それを切り拓いてつくられたためか、他の土地よりも遥かにアップダウンが見られる地理なのだ。

 だがしかし、こんなところで弱音を吐いてちゃ、到底オリンピックなんかには届かない。自分の力で行くと決めた以上、それを成し遂げてみせるのが女子としての矜持だろう。私は小さく呼吸を調え、次の一歩を踏み出した。

 走っている私の他には、人っ子ひとり見当たらない。自転車はおろか、通行人でさえ周り道をするのだ。それほどまでにこの坂はきつく、苦しく、手強い相手だった。

 タッタッタ、と規則的なリズムを刻みながらいっきに駆け上がる。イメージとしては駆け抜けるに近い。こういうときはペースを乱さないのが一番だ。難関コースだからこそ、あくまで平心平静に。さりとて決して、気持ちは緩めず。

 慌てず、騒がず、落ち着き足を運んでゆくと、やがて頂上が見えてくる。

 緑地に地図記号の「文」の字が書かれた標識が巻かれた電信柱。

 心臓はばくばくいっているけれど、大丈夫。これでようやく折り返し。まだまだトレーニングはここからだ。




 大通り沿いの十字路にて赤信号に引っ掛かり、私は歩を止める。休むときは休む、ほんの一時のクールダウンだ。

 走っている間は色々なことを考える。こんなことを述べると、目の前の作業に集中しろと言われそうだが、どうにも私にはこっちの方が合っているらしい。

 伴走もなく、仲間もなく、ただただひとりで走るだけだけど、いまもきっとゴールに当たるホームセンターの前で待ってくれているだろう人のことを想うと、私も自然と頑張れる。

 それに、街中を走るのは結構楽しい。いつもと一緒のルートでも、その日の天気、歩く人、公園に集まって井戸端会議をしている猫たちの模様――一度として同じだったことはない。

 いまもこうして、スーツ姿のサラリーマンや学校帰りの女子高生たちと信号が替わるのを待ちながら、すぐ真横に見える商店の軒先で、巣の中にいる子供たちに餌を与えるツバメの様子を眺めている。あの雛が巣立つとき、私は何をして、どこで誰といるのだろう。なんて、散文的な考えに耽ったりもする。

 歩行者用信号が青に変わった。私は右足から横断歩道に歩み出て、再びスピードを上げてゆく。

 しばらく道なりに風を切りつつ進んでいくと、行く手を踏切りが遮った。ついていないことに、ちょうど電車の通過待ちのタイミングだった。

 カンカンカンと警告音が響く。

 このまま待っても良いのだが、気分的にいまはとてもノっていた。ここで変に水を差されても調子が狂う。

――迂回しよう。少し遠回りにはなるが、地下に潜って踏切りの向こう側に出られる地下通路があったハズだ。

 線路に沿って右に折れ、一路、地下通路への入口を目指す。

 昼間の駅前には似つかわしくない、昏さを湛えた地下トンネルに踏み入れると、ひんやりとした空気が汗ばんだ肌を冷やす。気持ち良い。

 私は顎を伝う汗の雫を軽く拭い、地下通路の階段を一段一段、駆け降りる。ここを抜ければゴールはもう目前だ。

 階段昇降は思わぬ追加メニューだったが、足腰を鍛えるには最適だ。努力なくして成功なし。地道に頑張る者にこそ、スポーツの女神様は微笑むのだ。

 暗がりの中に運動靴の足音が反響する。十数メートルの地下通路を軽やかに走り抜け、反対側の階段に至る。遥か頭上の出口から、外の陽射しが差し込んで、私はその光に向けて地上への一歩を踏み出した。




「遅い」


 “MIOTO GAKUEN HIGH SCHOOL BASKETBALL CLUB”の文字が踊る、青のスポーツタオルをこちらに投げて、彼はつまらなそうに言い放つ。

 緩めたネクタイに私たちの通う御音学園の夏制服である半袖のワイシャツ、グレーのスラックス。背は高い方で百八十センチ弱。

 ゴールであるホームセンター前に停車しているアイスの移動販売車のすぐ横で、スタンドを下ろした自転車に寄り掛かり、赤と青とが前衛芸術のようにマーブリングされたソフトクリームを舐めている。


「あーっ、ハバネロサイダー! 先輩、なんで先に食べちゃってるんですかっ!?」

「なんでも糞もあるか。二十分も待たせやがって。何が『私、オリンピックへは走って行きます! 向こうで待ち合わせしましょう』だ」

「私の声真似するの、やめてください。似てないし」


 どこ吹く風といったふうに先輩は聞き流し、アイスをぺろりと舌で掬う。


オリンピック(、、、、、、)御音店(、、、)


 それが、今日の私の目的地であり、先輩との約束の場所だった。

 毎週火曜日、このホームセンターの前にやってくるアイスクリーム屋さんが、ハバネロサイダーなる変わった味を提供しているということで、気になった私は先輩を誘って食べにくることにしたのだった。


「部活のない日だってトレーニングはサボれません。一日休むと、取り返すのに十日は掛かるんですから。ましてやアイスなんて高カロリーなものを摂取するんだし、尚更です」

「おまえなぁ、鈴芽(すずめ)。食い物をいち栄養素みたく言うな。おまえの頭ん中は一から十までバスケ規準か」


 手のつけられない馬鹿を見た、とばかりに先輩が空しく首を振る。

 そんなことを言われたって、バスケは私の青春のすべてなのだから仕方ない。まぁ最近は、そのうちの一割くらいを目の前にいるこの人――小余綾(こよろぎ)先輩に捧げてあげても良いかな、と思い始めているけれど。


「だいたい、先輩は冷たいです。先輩には、一緒にアイスを食べたいっていう可愛い後輩の健気な乙女心もわからないんですか?」

「そんなものはチュパカブラにでも食わせとけ」

「チュパカブラは血液しか飲まないと思いますよ」


 うう、いけない。未確認生物研究会なんていう珍奇な部活に入っている先輩の影響か、無駄なことに詳しくなってしまった。

――しかし。夫婦喧嘩は犬も食わないとは言ったものだけど、痴話喧嘩にもならない恋人未満な私たちの諍いを、果たして食べてくれる動物はいるのだろうか。


「もう、仕方ないです。それ、ください」


 私は、先輩が手に持った食べかけのハバネロサイダーを指し示す。


「本当にこれで良いのか?」

「そ、れ、が、良いんです」


 怪訝そうに眉を顰めながらも、黙って先輩がアイスのコーンを手渡す。

 半分くらいの高さになったソフトクリーム。これはいわゆる間接キスというやつだ。

 念願のハバネロサイダー。クールにしてホット、食べた人みんなが口を揃えて「いまだかつてない味だ」と評す、その絶味。

 前々から口にしてみたかったアイスだけれど、予期せぬオプションまで付いてしまった。何事も、言ってはみるものだ。

 先輩のハバネロサイダーを目の前にして、小さく(ここでがっつくような、みっともないことはしない)口を開ける。

 走っているとき以上に心臓が早鐘を打って、胸がつかえるように苦しくなる。意識的に行う間接キスがここまで緊張する行為だとは、考えてもみなかった。

 覚悟を決め――はむり。


「――っ!」


 ハバネロパウダーの痺れるほどの刺激と、サイダーの清涼感ある爽やかな炭酸らしさ。その両者が混然となって、刺すような痛みが舌を襲う。そう、辛みではなくもはや痛みだ。

 しかも、想像してほしい。熱さ辛さでやられている最中に、冷たい炭酸飲料を口にしたときのピリピリ感といったら! それこそ、体感の辛さを実際の十倍にも二十倍にも高めてくる。


「ん~~っ!」


 ばしばしばし、と先輩を叩く。

 いや、先輩は悪くないけれど、とにかくどこかにぶつけてこの刺激を発散しないと、とてもじゃないが耐え切れない。


「だから『本当にこれで良いのか?』って訊いただろうに」


 あれは、間接キスの心配じゃなくて、言葉そのまま辛さの心配だったのか!

 ややこしいことこの上ない!


「とりあえず、これでも飲んで落ち着けよ」


 言って、先輩は自転車の前籠から常温になったスポーツ飲料のペットボトルを取り上げ、ぷしっと音をさせてキャップを開ける。

 手渡されたそれに貪るように口をつけ、私はごくごくと飲み干した。

 五百ミリのペットボトルはみるみるうちに空っぽになっていく。甘い。天国だ。


「し、死ぬ……。こんなの人間の食べ物じゃないですって!! どうして先輩はあんな涼しい顔して食べてられるんですか!」

「んにゃ。俺、辛いもの得意だし」

「だからって! あんな紛らわしい物言いじゃなくて、他に警告のしようがあったでしょう! この鬼! サディスト! ジョロキア!」

「確かにジョロキアの辛さは悪魔的らしいけど、それ悪口になってんの?」

「良いんです、ただの鬱憤晴らしですからっ」


 ふん、と大袈裟に拗ねてみせる。

 小余綾先輩なんか、小生意気な後輩の理不尽なわがままに振り回されて、右往左往疲れ果てれば良いのだ。そして、私に頭を下げて赦しを乞えば良い。そしたらきっと、甘やかな交換条件と共に、私はそれを受け入れよう。

 だけど、本当はわかっている。

 あのペットボトル――。炭酸飲料でもないのに蓋を回して音がしたのは、まだ口の開いていない新品だったからで。それが常温になっていたのは、冷たい飲み物が温まるくらい早くに買っていたからだ。

 言わずもがな、オリンピックまでランニングをしてくる私のために。

 クールにしてホット。冷たく見えてその実、温かい。まったく、ハバネロサイダーみたいな人だ、先輩は。


                                                               〈fin.〉

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― 新着の感想 ―
[良い点] 「オリンピック」の使い方 そこまでの心情描写・情景描写が共にきっちり描かれてて、世界に入りかけたところでのオチだけに「あー!」と思わされました また、そこまで読ませるだけの文章力もあると思…
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