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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

豚狩り

作者: 藤上

いつもより長めですけど読んでいただけると嬉しいです…

 目に痛い奇抜な看板の光も、店から漏れる温もりも何も届かない、街の裏の裏の裏の裏。まるで別世界。

現代から遠くかけ離れたようなその土地は、汚れがさらに汚れを呼んで、いつの間にか目を背けなければ遣りきれないほどに色を変えていた。

壊れた街灯は点いたり消えたりを繰り返す。その度に飛び交う蛾や、スプレーで描かれた意味不明な落書きがちらつく。

不気味さに脳を侵されてしまいそうだ。警官の岡部は鼻息を荒くし、目をぎらぎらに見開いて早足で歩いていた。

誰もいない。こんな寂れた場所にいるはずがない。今すぐに署に引き返してしまいたい。

本来ならばこんなところにパトロールに来る必要などなかったのだから。

「太った男が若い男の子を路地裏に連れ込んでいった。」

そう通報があったのはついさっき。今やその肉体を狙われ、汚されるのは女性だけではない。

同性の綺麗な男を恣にしてしまいたい欲望を隠している奴だっている。

また気持ち悪い奴がいるもんだと思い、他人事のようにパソコンを叩いていた。すると主任が作業途中のノートパソコンを閉じて言った。

「岡部、お前行ってこい。商店街の一本向こうの通りだそうだ。さっと行ってさっと帰ってこい。」

面倒だという思いが先に頭を掠め、ふと周りを見渡した。座って作業しているのなんて自分一人で、同じ班の人間は外に出ている。他の班では同一犯による誘拐殺害事件の捜査で慌ただしく動き回っていて、自分が行けと言われても納得せざるを得ない状況であった。

現行犯で逮捕してしまえばいいだけのこと。仕方がない。言い聞かせて来たはいい。しかしこんなに寂れたところだとは聞いていない。

表は夜でも明るい通りだった。夜は酔っぱらったおっさんがふらついて、補導をしなければならないこともあるが、やはり明るかった。

しかしこの場所には一度もパトロールに入ったことなどなかった。事件が起こったという報告もないような場所だった。

意外に盲点だったのかもしれない。こんなところに連れ込まれてしまえば助けなど呼べない。取引だってし易いだろう。

向こうは賑やかなのに、一本道路が違うだけでこんなに違うなんて。人のいる気配など全く感じさせない。

過去にこの場所で人が交流していたかもしれない空気すら、全て消えてしまっている。

ここに足を踏み入れてはならない。そんな気がする薄気味悪さに包まれていた。


 しかし歩けど歩けど何も見つからない。あの通報は嘘だったのではないか。早くここを抜けだしたいという思いもあって、岡部は引き返そうとする。

その時、急に男の野太い声が響いた。

「――――――――――っ!!」

驚いた岡部は声にならない声で叫んで、崩れるように尻もちをついた。

手元を離れてしまった懐中電灯を探して、砕けそうになる腰を起こすと、声が聞こえた方向へ足音をたてないよう向かう。

シャッターのしまったかつては店だったような建物と、窓の割れたビルの間。何処からか漂う悪臭にたじろぎ、震えに従って動く光をそこに当てた。

元が何色だったのか分からないシャツを真っ赤に染めて、黒目をがくがくと動かす男。その目は僕を捉えているのか、捉えていないのか。

浅黒い皮膚は増えすぎた肉塊ではちきれそうに膨らんでいる。首は見えない。胴体の上にすぐ頭があるように、それとも首が埋まってしまったように。

不快感が湧くほどに太い指も、腕も、足も、しかし恐怖に震えている。

ふと視線を落とせば、肉と肉の間から大量の血液が噴き零れ、地面の黒と同化していた。

シャツの状況からも予測できたことだったが、実際に不意打ちのように見てしまうとせり上がり嘔吐く。


 男に馬乗りになっていた人物がゆっくりと振りかえった。本能的に構えたが、岡部はその顔を見て拍子抜けした。

幼い顔つきで、しかし焦点は定まらず、手には似合わない大きな包丁を持っていた。

刃も、手や腕も、その白い顔にも、男から飛び散ったであろう脂を含んでぬらぬら光る赤が付着していた。

そうしてやっと岡部の頭の中を巡っていく。おそらく通報の内容にあった二人だろう。

襲われそうになった青年は咄嗟に男を刺した。正当防衛だ。

しかしこの場に鋭い刃の包丁を持っていること、青年の倍はあるであろう大きさの男をここまで激しく刺したこと。正当防衛には度が過ぎている。

危険であることは十分脳が判断している。逃げ出せ。いや、捕まえろ。目の前にいるのは犯罪者だ。幼い顔つきに騙されるな。

岡部の頭を様々な声が飛び交う中、青年は言った。怯えの色を浮かべた瞳を忙しなく動かしながら、泣きだしそうな顔をして。

「人殺し」

後ずさった足に何かがぶつかった。ぐにゃりと歪む。ぐちゃぐちゃに割られた西瓜に肉を詰め込んだような物体。

恐る恐る照らしてみれば、腐敗が進んで変色した、蝿が集った猫の死骸だった。


 青年は分からない、知らないと繰り返すばかりだった。岡部の所属する部署の主任である道上はそれでも問い詰めていた。

青年が泣きそうに「知らない」と叫んでもなお。

「知らないって何? 君が殺そうとしたんでしょ、あの男を。」

静かな声で威圧する。怯えたように首を振って「知らない」と呟いた。

「気付いたらあの……あれが……男の人が、血塗れで僕の下にいたんです……。覚えてないけど、そうとしか言いようがないんです…。」


 道上は仕事帰りによく俺を連れまわす。同じ部署の人間を何人か連れて、酒を飲んだり、キャバクラに入ったり。

おっさん臭さなどせず、男らしく格好良い笑い方をする。お世辞などではなく、一緒にいることが楽しく、男としても人間としても尊敬できる人物だ。

そしてそれは仕事のときも同じだ。しかしスーツを着こなし、捜査に当たるときには今のように顔が変わる。

俺の知っている道上の人間らしさなど消え失せる。冷たい目で、言葉で容疑者に詰め寄る。その冷気で殺してしまいそうなほどだ。

青年の一瞬ためらって吐き出された言葉は受け入れず、道上は机の上に置いた拳に血管が浮き出るほど力を込める。

「気付いたら、じゃないよね。」

青年は何度も首を振る。分からないと言う。道上がどれだけ激しく心を燃やしているのか分かっていて、それでも否定する。

もう聞き入れてもらえないことなど悟っている様子で、酷く聞き取りにくい声で言った。

「何も、分からないんです。自分のことも……。」

道上はため息を吐いて、呆れた視線を青年に送る。事件のことについて話すつもりがないならば、黙秘権を行使すればいい。

記憶喪失であるふりなど必要ない。それなのに青年は、自分の名前すら分からないと言った。

指紋を採って前科者のデータと照合している間、道上による問答で時間を潰していたわけだが、どうやら青年の顔色を悪くするだけの行為だったようだ。

沈黙が訪れてしばらく、道上が指先でとんとんと机を叩き始めたとき、やっとノックの音がした。

「遅い。」

冷たい声を発し、書類を持ってきた警官の手から奪い取った。怯えた目で道上に何度も頭を下げ、俺に一瞬だけ縋るような目を向けた。

しかし俺だって道上が捜査中にこうなったときは怖いのだ。その視線を見なかったことにして、青年の表情を盗み見る。青年の怯えが色濃かった。

書類に目を通していた道上が眉を顰めた。ある一点に集中しているようだ。やはり前科があったのだろうか。

「主任、どうしましたか?」

「…ん、ちょっと来い。」

手で示され、廊下に出た。道上の後について隣の部屋に移動すると、書類を手渡された。そこには青年の写真が載っていた。今より幾分か幼い顔つきだ。

それに前の犯罪を起こした際に撮られた写真じゃないのは見た瞬間に分かった。今の表情からは想像もつかないような満面の笑みを浮かべている。

「行方不明者……」

そう呟いてから、ざっと目を通す。前科なんてない。まっさらな略歴。そこに空白の数年間。四年前に失踪した、当時二十一歳の青年だった。

次のページには姿が見られなくなる直前に着ていた服と、身体的特徴。そこに釘づけになる。

マジックミラー越しに青年を見た。顔色を悪くし唇を噛みしめ、俯いたままだ。その怯えきった表情に、人殺しの面があるなんて様子は窺えない。

「本当に、殺したんでしょうか。そんな風には見えない…。」

「まだそんなこと分かんないだろ。」

道上だって疑っているのではないか。実際の通報内容は、男が青年を連れ込んだというものだった。それが正しいのではないか。

男が持っていた包丁を青年が奪って使った。あり得る話だろう。それを口に出してしまおうとしたとき、道上に止められた。

「男が回復したら話を聞く。」

もどかしい気持ちを抱えたまま、再び青年のいる部屋へと戻る。道上の後ろ姿に声を発してしまいたい気分だ。


 「君の名前は浅井修也だ。」

道上は書類に示された名前を読み上げた。青年、浅井は怪訝な顔で頷いた。しっくりこないようで、何度も目を瞬かせる。

家族や友人、大学の関係者などから取った調書によって分かった浅井の略歴。

住んでいた地域、学生時代のこと、家族のこと、それらを話していくうちに、浅井の表情はどんどん暗くなっていく。

「思い出せそうかな。」

首を振ったことが、数かに揺れた前髪によって認識された。弱弱しく、ただ保護されただけのように見える。

道上がまたため息を吐いた。その度に浅井の眼球は揺れる。怖いものを拒むように、体内に受け入れないようにしているよう。

「君が失踪したのは四年前、二十一歳のとき。」

道上の指が四年前の項目をなぞる。そして目を細めた。

「何か気になることでも。」

道上の手元を覗きこむと、指先に一行あった。異質の一行。

「四年前の二月、十六日」

その指がある名前を通過した。

「瀬戸綾李」

浅井の目がわずかだが見開かれる。今までより濃い負の色が現れ、強く眼球が揺れる。俺に発見された直後のようだ。悪いものに侵され歪んだ表情。

「瀬戸綾李、君の恋人が通り魔に襲われたちょうど一カ月後…」

浅井の唇が微かに動いた。何かを呟いている。何度も何度も同じ言葉を。

「君の恋人は…」

「通り魔なんかじゃないです。」

不安定に震える声が、それでもしっかり空気中を伝わって耳に入った。浅井を凝視する。

青白い顔をして、まだ言いたいことがありそうに開けっ放しの口を震わせていた。時折唇を噛みしめては開けて、その不安定さは痛々しいほどだ。

「通り魔なんかじゃ、ない。」

うわごとのように、もう一度。眉を顰めた道上が書類に目を落としたふりをして、同じことを繰り返すため顔を上げた。

「しかし通り魔による犯行と…」

「通り魔じゃない!」

浅井の赤くなった目には涙が浮かんでいた。自分の名前も覚えていない彼がそれだけは否定してた。

頼りない声色で、聞かれたことのみ答えていた彼がはっきりと否定したのだ。

それは初めての衝撃であり、浅井修也という人物をより分からなくさせるだけであった。

俺はただ混乱するばかり、ふと道上を見た。目を細め、黙って浅井をみていた。


 僕の名前は浅井修也というらしかった。目の前のすました顔の警官が教えてくれた。静かな物言いで、しかし踏み込んでは僕の内部を抉る。

警官が細めた目を僕に向ける。何を疑っているのか、何を探っているのか、何を抉ろうとしているのか。

僕は知らない男を殺そうとしていた。本当に何も覚えていないけど、警官の話を聞いているとだんだん点だけでも見えてきてしまう。

四年前、その言葉に嫌な何かを感じた。胸の中を渦巻く真っ黒なものが、色をさらに濃くして増殖していく。

続きを聞いてはいけない。忘れてはいけなかった、しかし思い出したくないことを思い出してしまう。

矛盾の生み出す混沌が僕を突き落とそうとする。

そして警官の声が濁ったとき、次に発せられた言葉で恐れていた事実が、現在に繋がった。「瀬戸綾李」僕の恋人の名前だった。

急に肌寒くなる。過去が僕の足を強く掴んだ。僕はもがくことすらしない。繋がったところで僕の頭の中では意味を成さない。

「通り魔じゃないなら何かな、詳しく話してほしいんだけど。」

「分からない…」

思わず分からないなんて嘘を吐いた。動揺を隠そうと、目を瞑って小さく呼吸を繰り返した。しかし目を開けてしばらく、景色が変わる。

線となり僕の全てを繋いでいたはずなのに、ところどころ腐食して欠落していく。全て思い出したはずだったのに。点だけだ。点が。点が僕を惑わす。

思い出したはずの、僕があの男の人を襲った理由が薄れていく。ぼんやりと浮かぶ。目の前にあった巨体。

「分からないのに否定したの?」

恐る恐る顔を上げると、優しい声色を発したくせに鋭い眼つきで僕を睨みつける警官がいた。僕の内部をまた探る。

僕まで知らないようなところまで、深く深く抉り取って切り刻んで調べるような、そんな目だ。

「分からないのに否定したの?」

首を振る。何度も、何度も。もう何も分からない。何故男の人を殺そうとしたのかも、何故あの場所にいたのかも。

自分がその手を真っ赤に染めていたことは何も怖くないのに、確かに目の前の警官には怯えていた。視線が巻きついて僕の首をきつく締めあげる。

早く言え。全部吐け。そう言っているよう。そうでなければお前を殺す。そうも言っているよう。それは肉体的でなくとも、僕を確実に壊すだろう。

「通り魔じゃないってどういうこと?」

「あ、綾李は…」

閉口を繰り返す。開けて言葉を発しようとしても、途中でつっかえて出てこようとしない。

「瀬戸綾李は?」

「綾李は……」

言ってしまえば僕はそれを受け入れたことになる。僕は否定するために生きてきた。綾李がどういなくなったのか、どう僕の前から消えたのか。

いや、もうすでに分かっていたのかもしれない。現実は変えようもないことなど、初めから。

だから僕は今こうして記憶をなくす事態に陥っているのだろう。失くしたくて失くしたわけじゃない、何もかも。

「…殺されました。」

警官が短くため息を吐く。そして再び机を指先で叩き始めた。警官がどんどん冷えていく合図だと思った。

僕が慌てて言おうとすると、それを遮って先に警官が話した。

「殺されたのは分かってる。通り魔じゃないっていう、それを聞いてるんだ。」

視界の全てが真っ赤になった。急に頭に血が上ってせいだ。机の下、きつく手首を握って耐える。殴りかかってやりたい。殺してやりたい。

ぞんざいな言い方は、綾李の死を侮蔑しているような響きを持っていた。それでいて蔑むことすら考えていないような、空っぽの気さえ纏っていた。

「…主任、あの…」

後ろにいた別の警官が、主任と呼ばれた僕の目の前に座る警官をたしなめるように言うが、警官は相変わらず冷たい目をしていた。

力を込めた手に浮かぶ血管とは別の、細かく張り巡らされた血管達がぶちぶちと破裂していくように苛立つ。

狭い空間での問答は、ストレス以外の何物でもない。その上思い出したくないことが僕の頭を浮遊する。最悪の気分。

「…通り魔じゃないんです…、狙われたんです………綾李は」

「誰に。」

警官が僕と同じくらいまでに苛立っていることは、雑になってきたその口調に現れている。

僕が頭を振る少しの時間だって、捜査には勿体ない無駄な時間なんだと言いたげな目をしている。

そのくせに声色だけは優しげにしようとする、それでも隠し切れていない沸騰した感情が表面ではどうにも不自然だ。

「分から…ない」

警官が立ちあがった。驚いて身を引く僕の横に立つと、顔を覗きこもうとする。拒否するようにさらに俯くと、すぐ近くであのため息が聞こえた。

「君の言っていることは、何一つ辻褄が合っていない。」

ひんやりとした空気が流れ込んだ。しかし反対に僕の頬は熱くなる。小さい頃、友達に馬鹿にされても何も言い返せなかったことを思い出す。

より強く、手のひらに爪が食い込むくらいに握りしめた。指先は不安定に震える。

「違うというならそれなりの理由は用意できないか? …こっちは捜査をしているんだ。餓鬼の相手をしているわけじゃない。」

「主任っ」

もう一度別の警官が声を発したとき、明らかに空気が変わった。

「何を遠慮する必要がある!」

警官が怒鳴った。もう絶対に顔を上げられなくなり、耐えるために全てに力を込める。目も痛いほど瞑って、我慢するため歯を食い縛る。

漏れてしまいそうな声を押し殺して、息だけは苦しく吐き出す。

「行方不明者だからって優しく接しろっていうのか! 子供相手にしてるわけじゃないんだって、言ったよな!? 聞いてなかったのか、お前!」

「で、でも、でもですねっ」

僕のことを気にしているのか、なかなか続きは言わない。そう思っていたら、耳打ちをしたつもりか、聞き取りにくい小声で言う。

「やっと話してくれる気になったんですよ」

しかし聞こえてしまった。泳がせて洗いざらい吐き出させるつもりだったか。縋ろうとしていたつもりなんてないが、それでも聞きたくなかった。

「……気を使う必要がないだろっ」

再び警官が吠える。手のひらの感覚はどんどん薄れる。痺れて、痛みも感じない。もううんざりだ。

僕が全て話せばそれで済むだけのこと。しかし点となってもう思い出せないのだ。きっと、次のきっかけがあるまでは。

微かに分かるのは、綾李が死んだのは通り魔のせいじゃないということ。しかし犯人ははっきり思い出せないということ。

その像だけは、ぼんやりと頭の中に浮かんだ。

「仮にも殺人未遂の現行犯だ、こいつは!!」

視界に在るもの全てが、真っ白に溶けだしたようだった。小さな叫び声とともに、景色が激しく揺れた。そして目の前には警官の顔があった。

警官の掴む僕の髪の毛は無理矢理に引っ張られ、皮膚を引き剥がされるほどの痛みが忍び寄るように起こる。

「主任、暴力は…」

急に離されたかと思うと、力任せに下を向かされた。手は確かに離れたが、机に強く額を打ち付ける。顔面の肉を震わす鈍い音と、少しずつ壊れる音。

ため息じゃなかった。僕に聞かせることを目的としている、大きな舌打ちだった。

「夜は寒くて食事は不味いぞ。罪を償うと思って噛みしめろ。」

頭を上げることが出来ず、未だ鈍痛が襲う額をぴったりとくっつけたままの僕に、早口で言う吐き捨てるような言葉。激しい音を立ててドアが閉まった。

残った警官の手が僕に触れる。肩が生温かい。振り払う気にも、抵抗する気にもなれない。

「あ、あの、大丈夫、かな」

声をかけられて揺すられても、くっついたままの額が擦れて痛いだけだった。なおも顔を上げない僕の肩を掴んで起こしあげる。

脳味噌ごと揺らされたようにぐらりと動いた。世界の溶けだす様がこんなにも気味の悪い物だとは知らなかった。

背もたれに身体を預けると、俯いたままの頭を両手で包んで上を向かされた。心配そうな顔をした警官だった。

「は、腫れて、る」

警官の顔色が悪くなった。うろたえる。警官が事情聴取中に参考人に、いや、容疑者に怪我を負わせるなんて大問題だろう。

しかし僕には訴える気なんてさらさら無い。

犯罪者。故に遠慮する必要がなかったのだ。手荒な真似をして、そうでもして吐かせなければならなかったのだ。

僕が話せばこんなことにならなかった。自業自得だ。それに、何か行動をしたところであの警官に全て揉み消されてしまうのだろう。

「すいません…僕が話さなかったせいですね。」

だいぶ落ち込んだ。

「い、いや、記憶がないんだろ? 思い出せないなら、まあ、仕方ないよ。」

たどたどしい喋り方に少しだけ安心して、身を委ねたい気分になった。しかし僕はすぐに“寒いところ”に送られるのだろう。甘えは許されない。

身を固くして、警官の誘導を待った。

「じゃあ、行こうか?」

遠慮がちに僕の脇に腕を通して立たせる。成すがままで僕は立ち上がり、歩調を合わせてくれる警官について歩いた。


 音を立てて鍵が閉められ、現実の世界とは遮断されたように感じた。

今僕が入れられた入口をただぼんやりと眺めていると、だんだん体温が失われていくのが分かった。いや、心の温度が、とでも言うべきか。

「…おい。」

低く鼓膜を震わすその声に反応して振り返る。灰色の作業着のような服を着た男性が、僕を睨みつけていた。

背骨を大きく曲げて座っている。開いた足と足の間からその目を僕に向ける。頭の位置は僕よりも低いのに、何故か見下されているようだった。

「さっきから…何度呼ばせる気だ。」

「え……あ、すいません…。」

呻き声のような息を発し、面倒のオーラを纏って立ち上がる。ゆらりと揺れるその細い身体は、僕より幾分大きかった。

鋭く色のない目をしている。薄っぺらい唇と、不健康に白い肌。恐怖心を掻き立てられ、ざわつく心を抑えきれずに後ずさる。

ひんやりとした床を伝って、さらに冷えた壁に触れた。ああ、確かに寒い。夜はさらに冷え込むだろう。

「逃げてんじゃねぇよ。」

「…え、いや、逃げてません。」

「じゃあ何で後ずさる。」

本能が危険を知らせていたわけではない。ただその見た目から全体から放つ常人とは違う異様な空気を拒んだだけなのだ。

胸倉を掴まれ、強い力が加えられた。殴られると思って目を瞑る。恐る恐る息を吐いて、目を開けた。僕の顔をじっと見つめるだけの男がいた。

「な、なんですか。」

無感動な目を向けたまま離され、固く冷たい床に身が沈む。睨みつける勇気なんてないが、持てる力で見つめ返した。

動きを見せなかった目が、微かに細められた。予想していなかった表情に、虹彩が急に開いた。

「万引きか?」

「はい?」

万引き…?

「お前みたいな餓鬼の犯罪なんて、せいぜい万引き程度だろ。それともちょっとハードル上げて痴漢か?」

「そんなことで、ここに入れられるんですか?」

男の言葉にどこか侮蔑や挑発を感じた。

それは僕に“犯罪者としてのこころ”が宿っているそのままの証拠である気がして、純粋さをむき出しに自分を買い被ってみた。

そんな僕に気づいてか、男は鼻で笑う。

「やっぱり餓鬼だな。」

僕だって今年で二十五歳になる。目の前の男だって僕と同じくらいか、せいぜい一つか二つ年上なくらいだろう。

僕の挙動が子供らしいとでも言いたいのだろうか。少しかちんときた。

これ以上相手にする必要はないし、相手は犯罪者なのだ。下手に刺激するのは危険だろう。目を逸らし、未だ胸倉を掴む手を振り払った。

格子の向こう側、ここと同様にコンクリートで固められた廊下をじっと見つめていると、視界に男の顔がアップで入り込んだ。

「な、なんですか!」

「お前、犯罪者だから相手にしなくていいかって思っただろ。」

勢いよく反対側を向いた。心臓が冷えている。こんな場所にいたら頭がおかしくなりそうだ。自分の罪だって自覚していないのに、

すでに自覚し受け入れているであろう獣と一緒にいなければならないなんて。

精神を保つため、あえて鋭い眼つきを作った。コンクリート、コンクリート、コンクリート。それと、あとは窓くらい。

景色が思い切り歪んでしまえばいい。何もかも都合よく忘れてしまいたい。

急に、首筋に生温かい息がかかった。思わず全身の力が抜ける。

「な、何するんですか」

次には鎖骨のすぐ下に、深く爪が突き付けられた。弛緩していた筋肉が強張って、息がつまった。

「い、いたっ! やめろ、痛い!」

「お前なんかすぐに殺せる。」

「は…?」

真っ黒な目の奥の奥、根付いたそれは殺意よりも憎悪だった。怖さなんて何処かに消えてしまい、ただ黒を伝って冷えた静かな負の感情が流れ込む。

長い間蓄積された呪詛の固形物が、ぐずぐずに腐って男の内部に蔓延っているようだった。

小さい頃から人の気持ちを感じてしまいやすい僕は、さらに負の感情を受け取ることに長けていて、今だって全て取りこんでしまった。

男は紛れもなく本気だ。それも自分では制御できないほど占領された感情で、意志と関係なく動くのだろう。

「僕だって、できます。」

自然に吐いてでたのは、男を挑発するだけの言葉だった。訝しげな目をしっかり見据え、もう一度言う。

「僕だって殺せます。」

「餓鬼が。」

「僕は自分の倍はある巨体の男を、刃物でめった刺しにしました。殺人未遂です。」

動揺などそこにはなく、疑って全て見抜いてやろうとしているのだろう。そんな目をしていた。

「…らしいです。」

「らしいって、他人事みたいだな。」

「記憶がないんです。」

「じゃあ通報されたか現行犯か、ざまあねえな。」

どっちも間違いではなかった。否定せずに黙っていると、男は頭をがしがしと掻いてから離れた。場所が場所なだけに不潔さを感じて身を引く。

ひんやりとしたコンクリートの壁がさらに背中を刺し、細かい針で刺すような痛みと錯覚する。

僕が眉を顰めたことから察してか、男も嫌な顔をした。刑務所じゃ、毎日風呂になんて入らせてもらえないのだろう。

仕方ないことなのだ。僕だってきっとこの男のようになる。今は何ともなくたって、この男のように肉の無さそうな腕に、憎みを垂れ流す瞳になる。

男が僕をじっと見つめる。引きずり込まれそうな真っ黒に冷や汗を感じ、目を逸らすとただ壁をぼんやりと眺めていた。

「名前は?」

「え…」

「俺は篠原幹太だけど、お前は?」

さっきよりも距離を置いた男、篠原が探るように見つめ聞いた。答えていいものか迷うが、同じ部屋で生活する者なのだ。

「…浅井修也。」

男の目がまたさっきのように細められる。そして口元が歪に形を変えた。にんまりと、皮肉めいた笑みを浮かべる。

「浅井修也か、そうか。」

まるで僕を知っていたかのような口ぶりだ。僕の方はこの男を知らない。篠原を知らない。

こんなに影を吐き出す男ならば、一度見ていれば覚えているはずなのだ。僕は知らない。しかし男は、篠原は知っているのかもしれない。

背筋を大量の蟲が這いあがったかの如く悪寒が走り、荒げそうになる息を呑みこんだ。

気持ち悪い。


 浅井修也の二日目の取り調べだった。道上の目の前に腰を下ろした浅井の顔には、昨日のような怯えはなかった。

ただ顔色を悪く、疲れきっている表情を前面に感じさせていた。そんな浅井を一瞥し、道上は淡々と話だした。

「君の恋人、瀬戸綾李が通り魔に殺害された。後に君は失踪する。そして君は、男に馬乗りになり殺害しようとしているところを発見された。」

浅井は返事をしなかった。それどころか頷くこともなく、ぼんやりと何処かを見ていた。いや、見ていたという表現は当てはまらないだろう。

あてもなくただ視線を漂わせている。実は何も映っていない、何も考えていない。そんな印象を与える空っぽの表情になっていた。

「瀬戸綾李は、通り魔に殺害された。」

道上は浅井の表情を窺いながらもう一度そう言った。しかし浅井は相変わらずの“無”で、言葉は何も聞こえていないようであった。

「昨日は否定しただろう?」

道上の問いかけに、伏し目となる。答えようとしない。充血した目を潤ませ、恋人の死について否定した青年はいなかった。

「嘘は見抜かれると分かったようだな。」

小さくつぶやいた。一瞬、浅井は目を上げたが、反抗する兆しは見られない。ただ「そうですね」と小さく早口で漏らす。

道上は顔を上げると浅井を睨みつけた。しかしそんな目は視界に入らないように、何度も空間を動き回る。一体何が映っているのか。

「馬鹿にしてるのか。」

「してません。」力の抜けた、囁きのようであった。

机が小刻みに上下する。道上の貧乏揺すりのせいだ。

「そんなに刑務所の夜は答えたか。」

次の質問には少しだけ反応を示した。顔を上げるが、しかし焦点は目の前の人物に合わせない。ただ続きを聞こうとしているようには見えた。

「篠原は殺人犯だからな。一緒にいたら気がおかしくも」

「主任っ」

岡部は慌てて道上の次の言葉を止めた。しかし浅井は興味を持っているようで、表情は崩さないもののこちらに視線を向けている。

「気になるか?」

「はい、同じ部屋の人なので。」

端的な口調に感情は含まれない。そこにあるのは常識的な人間としての興味だけ。

あんなに弱弱しく怯えていた青年は、いつの間にか冷たさを纏った無機質な人間と変貌を遂げていた。

それは行方不明者から殺人未遂犯へ変わったその瞬間を比喩的に表しているようでもあった。

「篠原は自分の恋人を殺したんだ。それも、何度も何度も首や顔を包丁で、原型を留めないほどに刺して殺したんだ。」

いかに残忍な手口であったか。それは捜査に加わっていた岡部にはよく分かっていた。今の道上の言葉でその映像が鮮明に浮かぶ。

本当の血の海の中で、何色だったか分からないワンピースを着てカーディガンを羽織った女性。

生前の写真には浜辺で撮った笑顔の彼女が映っていた。なかなか顔立ちの整った、美しい女性であった。

しかし真っ直ぐに通った高い鼻も、ルージュで彩られぽってりと誘う唇も、まるで人形のようにくっきりとした瞳も、全ては肉の塊と化していた。

何度も刃物が突いたその場所はもはや人間とはかけ離れた姿で、煮え立つ肉の踊る、そう、獣に喰い荒らされた果実だ。

女の血は飛沫となって彩った。ベッドもソファもカーテンや壁、そして照明をも。

テーブルの上には指輪が置かれていた。箱に納められたそれは、おそらく結婚指輪だったのだろう。

しかしそれも赤く染まり、不気味に光っていた。噎せ返るような匂いの充満した部屋で発見された男は、放心状態でそこに崩れていた。

泣き腫らした目が空虚を見つめ、注意して見ると光っているのは紛れもなく涙だった。

「ああ。」

道上が鼻で笑った。岡部は惨劇から現実へと急に引き戻される。足元が不安定で、一度壁に手をついた。

「逮捕されたときのお前と篠原、目が似てるよ。そっくりだ。」

振り返る。何を言い出すか。岡部は慌てて止めようとした。しかし浅井はその目を開き、静かに道上を見つめていた。無感情、無感動な、今は恐ろしい目だ。

「その目、今まで欲望を隠して生きてきましたって言いたげな目。」

馬鹿にする口調は加速する。しかし浅井は黙ってその目を向けていた。決して閉じることはしない。これ以上貶されないための防護策を使わない。

道上は既に快感を感じ始めていた。目の前の無反応な人間を甚振ることで得る、本能に植え付けられたサディズムが渦となり浅井を責め立てる。

裏側では泣いているかもしれない。実は傷だらけのそれをなおも“隠して”いるのかもしれない。爆発的な捻じ曲がった愉快。

「不幸なのは自分だけだと思ってやがる。」

歪んだ口元が、犯罪者となった人間たちのそれと瓜二つであることに気づかない。しかし浅井は感じ取ったのだろう。

黙って見つめる。自分を虚仮にする人間の、自分からは見えない醜さを裏側で嘲笑う。岡部は居たたまれなくなり止めようと決心した。

しかし手が動かず、足が出ない。浅井の刺して突き入る視線がそうさせていた。自分が見られているわけではないのに、縛りつけられる。

動くな、邪魔するな、そう命じているよう。道上の失態を、失言を抉り出そうとする。

しかし道上の次の言葉は、興奮が脳の判断を待たずに言う言葉ではなかった。

「瀬戸綾李は通り魔じゃなくて、お前に殺されたんじゃないのか?」

もっと言えば良かった。お前は犯罪者だ。醜い。篠原と同じだ。存在価値の無い人間だ。そう罵ればよかった。

浅井が俯いて、机を大きく叩いて立ち上がっていた。覗きこむような視線は憎しみに満ち、それは確かに道上に向いていた。

「………」

浅井はゆらりと動くと、椅子に座った。電池が切れてしまったかのように力無く、足も手も溶けだしたように垂れ下っている。

誰にも見えないところで、浅井は目を開けていた。目を。犯罪者と同じ目を。


 篠原は壁に寄り掛かって目を閉じていた。僕が部屋の前にくると、静かに目を開けた。

その視線はやんわりと僕の首を握る。僕の息を止める。静かな朝日の中で死んでいくように、苦しくて残酷だ。そんな感じがした。

金属の擦れる音で鍵が開けられ、早く入るよう促される。一歩踏み入れて、また一歩。身体が収まるとすぐに扉は閉まった。

「何も分からない、覚えていないのに事情聴取か。」

そう呟くと、僕から目を逸らした。そう言うよりも、視界から外してやった、そう言いたげだ。

なかなか座れなかった。男をただ見つめていた。この男が恋人をぐちゃぐちゃに殺した。分かるさ。しかしそんなに起伏の激しい人間だろうか。

昨日はあんな風に僕を脅してきた。でも恋人に対する憎しみは違うだろう。愛していたんじゃないのか。

こんなに冷え切った態度で殺したわけじゃないだろう?_ふと綾李の顔が浮かんだ。さっきよりもずっと苦しい。

「恋人に裏切られたんですか?」

篠原の目が何を映すか。僕には図りかねた。壁を見つめるその顔がふっと歪んで、微かに笑った。僕はもう動揺しない。この男と僕は同じだ。

「自分のことか?」

「顔が崩れるまで刺すなんて、そんなに憎かったんですか?」

コンクリートを掻く指先が震えていた。苦悩に瞼を固くし、口の中で歯を食い縛る。静かな空間に、男が口を開く音だけが聞こえた。

「刑事に聞いたか。」

頷いた僕を見ていたか見ていなかったか、男はため息を吐いてその膝に顔を埋めた。

「僕と篠原さんの目が同じだって言っていました。」

僕の頭の中を回るのは、さっきの警官が言っていた言葉。他人の欠如した部分にはよく気がつくのに、自分の欠けてできた歪みには気付かない。

そんな悪意に満ちた人間だ。少なくとも僕の前での彼はそうであった。

「今まで欲望を隠して生きてきましたって言いたげな、不幸なのは自分だけだと思っている目だそうです。」

僕はそんな目をしていただろうか。何も考えられないほどに混ざり合った中身で、周りは真っ白に見えていた。

そんな風な視界は騙し絵の存在で、人には消極性を自慢しているかのような目に見えたのだろうか。

コンクリートを跳ねまわる声は、篠原の水分を全く含まない笑い声だ。顔を上げると、その目だった。

「…俺とお前は違う。」

どこか悲しげな色を浮かべたまま、ゆるりと弧を描く。


 「おい、起きてるか。」

隣で粗末な布団を敷いて横たわっている浅井に声をかけた。浅井は俺と反対側を向いたまま、ぴくりとも動かない。

「おい。」

もう一度呼びかける。一定の穏やかな呼吸。しかし奴が起きていることは分かっていた。なるべくなら俺と関わりたくないと思っているのだろう。

こいつが記憶を失くしているのならば、それは本能的に。もし戻ったとしても俺のことなんか知らないはずだ。

それでも失ってしまった今、それは直感となって伝わっているのではないか。俺に、この男に関わってはいけないと。

しかし寝たふりを決め込むその態度には腹が立ち、布団から出した足を静かに振り上げると、浅井の太ももに落とした。

「………っ!」

肩が跳ねた。確かに起きている反応を見せた。

「無視してんじゃねえ。」

「…寝てました。」

「起きてたのは分かってるんだよ。嘘吐いたってどうにもなんねえぞ。」

浅井はずれた布団を肩までかけ直した。俺の方は決して向かない。さっきは刑事から聞いた話をして、わざわざ俺に歩み寄ってきたくせに。

「……何なんですか。夜中なのに。」

「ちょっと話そうや。」

「看守さんが来たら怒られますよ。」

浅井が枕に半分顔を埋めたとき、真っ暗闇で髪の毛が枕へさらさらと落ちていくのを見た。やはりこんな餓鬼が人を殺したとは思えない。

こんな綺麗な顔をした餓鬼が。


 しかし俺は知っていた。

こんなに弱弱しい表情をして、何か起きたら真っ先に折れてしまいそうな頼りない身体で、こいつは何人もの人間を殺しているということを。

記憶を失くしているのだから、自分がその手で人を殺め、その手を何度も血で濡らしたことなど知らないのだろう。

俺は恋人の顔を何度も何度も刺して、その血が全て出てしまうくらいに刺して、婚約指輪さえ血塗れにした。

その原因が今までの積み重ねだったとしても、きっかけが自分であることも知らないだろう。

「……篠原さん?」

「お前、本当に何も覚えていないのか?」

試すような口調で聞いた。浅井は黙ったまま、その態勢を変えようとしなかった。目を開けているのだろう。こんな殺人者と同じ目だと言われた目を。

しかし俺とこいつは何もかもが違っていた。俺は女を憎んで殺した。愛していたとしても、許せずに憎悪に任せて殺した。

こいつは違うだろう。単に愛していたのだろう。それが餓鬼の簡単な感情だとしても、その全てを捧げ愛していたのだろう。

息を吸い込む音に続いて、少し震える声がコンクリートの部屋で反響する。

「篠原さんは、僕の何を知っているんですか。」

感づいているのなら踏み込んでこい。浅井は一歩手前で立ち止まっていた。まだ俺を疑っているよう。

しかし俺が浅井を知っていることくらいなら、もう気付いているんだろう。

「僕の過去を、僕が知らないことを、知っているんですか。」

「俺は…」

「言わなくていい。やめてください。」

拒絶の言葉を早口で吐いて、布団を頭から被った。

浅井がどんな思いでいるのか、少しだって理解してやれないだろうけど、俺が知っていることを話す必要はあるはずなのだ。

「浅井」

呼びかけにはもう応答しない。動かない布団の下、どれだけの衝動が浅井の中で爆発していることか。

「まだ起きているのか。」

重い声が外から聞こえた。振り返ると看守がいた。謝ると、自分も頭から布団をかぶる。


 浅井修也の取り調べを行うまでには微妙な時間があった。だからと言って別件の取り調べを行うほどの時間もないようだ。

仕方ないので机の上にある散らかった資料を片付けていると、もう要らないだろう大量の資料が無造作に放置されていた。

これでは作業効率が悪いだろうと、資料を重ねて窓側の机に持っていこうとしり。すると足元を見ていなかったせいか、机につま先をぶつけた。

「あ、あっ」

机が大きく揺れて、目の前の資料も床へと舞っていった。前のめりになって世界が回ったように見えた瞬間、慌てて机の角に手を叩きつける。

「いっ…だっ!」

つま先がじんじんと痛む。ぶつかった道上の机にあった本や資料は散々に崩れた。

怒られることは分かっていたので見て見ぬふりをすると、足元に散らばった資料を掻き集めた。

「…今の音、何だ?」

窓の方を向いていた道上は今まで見ていたファイルを閉じると、俺を振り返った。しまった。

笑ってやり過ごそうとすると、道上は目を真ん丸くしたまま机の上を見る。そして丸かった目が大きく開かれた。怒鳴る声を予想して、肩をすくめる。

「あ!! お前、何して…っ!!」

「すいませんでした!」

焦ったように表情を変えながら、本やファイルを元の場所に戻していく。ふと俺の方を向くと、睨みつけた。

その決して表面を固めたりしない姿は、普段の道上のものだった。最近俺は見失っていた。本来の道上の姿を。

事件に感情移入しやすい道上だが、今回は酷い。

あんな風に浅井を貶し、傷つけるような暴言を平気で吐く姿は、刑事として見れたものではなかった。

しばらく“いつも通りの”道上を見つめていると、俺がこの数日間に見ていたものは嘘だったのではないかと不思議な気分になる。

「ああ、もう! めんどくせえな…。」

道上の手が机を叩きつける。

「岡部、お前責任もってここ片付けておけよ。」

「ええーっ…」

「えー、じゃねえんだよ。責任もて、責任。」

ちらとその机の上に目を向ければ、そこは酷い有様だった。集めた資料を手に立ち上がると、その現場に向き合う。

「俺、どれがどこにあったものか全然分からないですよ。」

さっきまでは俺にかまってくれていた道上だが、慌ただしくジャケットを羽織り始めた。

呆然と眺めていると、やはり忙しそうにして、こっちにも気持ちばかり目を向けただけであった。

「どこでもいいよ。綺麗にしとけ。」

ついさっき見ていたファイルをかばんに入れると、ひったくる様に持って出て行こうとする。班の連中も、不思議そうに道上を見ていた。

「あの、主任。どこ行くんですか。」

「ああ、ちょっと。外回りしてこないと、でな。」

「でもこれから浅井の取り調べ…」

「それは岡部、やれるだろ。無理そうだったら誰かに頼め、な。」

これ以上の言葉は聞かない。そう言いたげに背中を向けるとさっさと部屋を後にする。

俺が慌てて発した「あの」なんて聞いていなかった。


 道上は何か見つけたに違いなかった。しかしそれは指示の出ていない事柄なのだろう。だから誰にも内容は言わずに出かけた。

もやもやしたものが心の中を支配した。捜査するならば、一人より二人の方が効率が良いはずだ。それなのに俺にも何も話してくれない。

道上を尊敬し、道上だって俺を信頼してくれていると思っていたのに。邪魔になるのだろうか。悔しい。

「…浅井修也の取り調べしてきますね。」

沈んだ気持ちのまま、俺も部屋を後にした。無機質な色に包まれた廊下はいつもより暗く、湿気が多く感じる。

何か嫌なことが起こりそうな、そんな気分だ。


 気が立っていたせいか、力任せのように好き勝手に言った。浅井は俺を恨めしそうに見ていた。

あのときは正常な気持ちでなく、やっぱり犯罪者の目だな、そのくらいにしか思わなかったが。


 篠原と同じ部屋になって夜を越えたその日、浅井の様子は激変していた。

瀬戸綾李の話をしたときに赤く充血して潤んでいた瞳は、色や光を失くしていた。ただ真っ黒に塗りつぶされた空洞のようであった。

初めは、一回目の取り調べの際にふるった暴力が原因だと思った。俺の態度に何か糸が切れてしまったとしても可笑しくはなかった。

しかしそうではない。そうではないような気がするのだ。

篠原の話を持ちかけたとき、浅井が反応したのは単なる野次馬的な興味だろうか。他人の不幸が美味しい本能的なものだろうか。

あの時向けられた視線は、何か別なものがこもっているように見えた。

それは「愉快な猟奇的殺人に対する正常な感情」によるものでなく、「篠原幹太」事態に向けられたものなのではないか。

疑い始めてしまえばもう止まらない。逮捕時に調書にまとめられた篠原の職業は気になるものであった。

浅井との繋がりもないわけじゃなさそうだ。行方不明とされていた浅井の行方を、篠原は知っていたかもしれないのだ。

しかしこれはあくまで俺の推測であった。上から捜査の許可がおりるはずがない程、証拠が足りない話だ。

だからこそ、岡部を巻き込むわけにはいかず一人でここを訪れたのだ。こじんまりとした、篠原の元の職場であった。


 「ごめんください。」

慌てて出てきた女性職員に警察手帳を見せる。「お待ちしておりました。」女性職員は深々と頭を下げ、そう言った。

汚れたような茶色で、ところどころ穴のあいたソファに座った。すぐに社長の男が出てくると、何度も頭を下げて俺の向かいに座った。

女性職員はお茶を運んでくると、音を立てて慌てだしく湯呑を置き、一度も俺と目を合わせることなく小走りで席へと戻っていった。

目の前の男の頭は篠原が逮捕された頃よりも禿げ散らかしている。白髪もだいぶ増えたようだ。そう年月は経っていない。

しかし世間の風当たりや、損害は大きかったことを物語っていた。俯いたまま、やはり目を合わせない。

「先日、電話で伺ったことについてですが。」

「あ、ああ、はい、はい」

「これが篠原の逮捕時の押収品です。」

写真を差し出す。汗ばみ震える手は一度写真に触れるが、すぐに机へと戻した。ろくに見ていないだろうが、話を進めることにした。

「今回ここへ来たのは、私の推測が正しいか確かめるためです。」

社長は何度も頷く。額を伝う汗を手の甲で拭う。光が反射する、なんとも不快な光景だ。

「ここに映っているもの以外に何かあれば、教えて頂きたいのです。」

社長がふと顔を上げた瞬間、威圧するように見つめる。すぐに俯いて、「ああ、ああ」と何度か繰り返した。息をするのも苦しそうだ。

「あの、…これは、違うんです。篠原が逮捕される少し前に、入ったばかりの女性社員がいまして」

「前置きは要りませんよ。何かあるのならば、それを出してください。」

あと少し、あと少し。単なる推測が大きな事件へと発展する瞬間。胸が高鳴って、落ち着いてなどいられない。

「…………」

社長が黙ったままで、若い女性社員の方を向いた。

席に座ってキーボードをかたかたと打っていた女は、「あっ」と声を上げてこっちに寄ってきた。

ラフな格好で、尖った爪は濃い青や赤で彩られていた。女は促されて社長の隣に座った。

「あの…この、柏木が」

「柏木はるかです、こんにちは。」

若い女特有の、作ったような崩れた声でそう言った。引き攣りそうになる顔を微笑ませ、頷いた。

「柏木、昨日言ったことちゃんと話しなさい。」社長の小声ははっきりと俺の耳に入った。

「はーい。」

女が面倒臭そうに唇を尖らせて返事をした。自分を可愛いと思っているであろう態度が俺を苛立たせる。

こうすれば男は喜ぶとか、より自分が可愛く映るとか、そんなことはどうだって良かった。俺が欲しいのは予想を確信へと移させる証拠だ。

「USBメモリがありませんでした。」

「USBメモリ?」

それならいくつも押収品の中にあった。しかしどれも事件に関連してそうなものはなかった。

「あ、あの、篠原の持っていたUSBメモリです。」

女より先に社長がそう言った。

「何故提出して頂けなかったのでしょうか。」

「あの…それは」

「あたしが篠原さんから奪っちゃったからです。」

「奪った?」

俺は憤ったオーラを前面に押し出していたはずだ。しかし女はそれを撥ね退けるような悪気のない口調で言った。

灰色ばかりの空間に、ちらちらと踊る青や赤がうるさい。

「篠原さん、あたしがアタックしてるのに全然相手にしてくれなくて」

事件解決が早まっていたかもしれない証拠品のはずだ。

「しかも彼女にプロポーズするんだあ、なんて言い出すから、むかむかってして奪っちゃったんです。」

自分がここにこうして足を運んだ意味を見失いそうになる、その浮いた軽々しい言葉の羅列。

「そしたらその夜に篠原さん捕まっちゃったから、朝社長に聞いてびっくりしちゃって。」

気を抜けば女が相手だと忘れて怒鳴ってしまいそうになる。感情を殺すと、自然と声は震えて出た。

「それは今どこにあるんですか。」

「ちょっと前まではあたしが使わせてもらっていましたー。」

ちょっと前までは? 今は使っていないということか? 嫌な予感が頭の中を巡る。

「今は」

「あ、ないですー。」

ない?

「ない…とは。」

「他の可愛いUSBメモリ見つけちゃったんですよー。あたし飽きやすいんでー、篠原さんのUSBメモリもすぐに飽きちゃってー。」

へらへらと笑う。下らない理由を吐く。貧乏揺すり、震えも全て殺すと、こんなにも内側が破裂しそうになるのだと知った。

全身を掻きむしりたくなる不愉快さに襲われて、奥歯を噛みしめた。

「それに篠原さんって死刑になっちゃいそうだし、気持ち悪かったんで捨てちゃいました。」

ここにきて何も収穫はない。そう分かったが、まだどこかで縋りついていた。そのUSBメモリが、俺の望んだものかもしれなかった。

諦めきれずに、苛立ちを隠しつつ女に再度聞く。

「捨てたのはいつのことですか?」

「えー、ずっと前ですよ。一ヶ月とか、そのくらいかも。」

光が断ち切られた。頭を項垂れて思い切り落ち込んでしまいたい。しかし俺は目の前の女から目が離せなかった。

自分がどれだけ重大な罪を犯したのか、全く気付いていない。グロスで艶やかに縁取られた唇を突きだして、爪の先を何度も撫でる。

「内容さえ分かれば、もっと早くに事件が解決していたかもしれないんですよ。」

気付け。自分がいかに大きなことをしてしまったか。下らない理由で、どれだけの時間を無駄にさせたか。

しかし現実では女ではなく社長が顔色を悪くして、魚のように口を動かしていた。そして立ち上がると、勢いよく頭を下げる。

「すいませんでした! 教育が足りない証拠です、全て私のせいです!」

教育? そんなものは期待していない。篠原があんな事件を起こした時点で、教育なんてなっていないのだ。

それに個々の人格なんて、会社の教育で治せるものではない。しかしどうにも煮え立っていた。無責任なこいつらを傷つけてやりたくて仕方ない。

「こんな風だから…」

こんな風だから? 自分がまた何か言ってはいけないことを言いたがっていることに気付き、口をつぐむ。これ以上ここにいてはいけない。

「帰ります。」

「はい、はい」

何度も頭を下げる社長に背を向け、さっさと出口へと歩く。最初に出てきた女性も頭を下げていた。その手をスカートの上で握りしめて。

大きめの音をたててドアを閉めると、歯を食い縛って車に乗り込んだ。悔しくて悔しくてたまらなかった。

突きとめたと思ったのに、こうして阻むのは自分に関係ない世界で生きる馬鹿な奴だ。現実はいつだってそうなのだ。

帰って篠原に取り調べをしなければ。そうして女に盗まれたUSBメモリの内容を聞くしか道は残されていなかった。




 「知らねえな。」

篠原は俺をしっかり見つめて、口元を不気味に歪めながら答えた。


 浅井修也の取り調べが終わった直後、道上から電話がかかってきた。

外回りの最中に何かあったのかと慌てて電話に出ると、向こう側から聞こえてきた道上の声は苛立ちに塗れていた。

俺の態度によっては八つ当たりの対象にされかねないと思い、背筋を伸ばし応答した。

道上は篠原の職場に行って来たのだと言った。それはつまり、推測で動いたということ。上からの指示がない以上、良いとは言えない捜査である。

だから俺を連れて行かなかったのだ。処分を受ける場合があれば、自分だけでいいなんて思ったのだろうか。

それはとんだ見当外れだ。失望に近い気持ちを抱きつつも、吐き出さないよう口を閉じた。

「篠原のUSBメモリが押収品の中に無かったんだ。」

「USBメモリですか? それならいっぱいあった気がするんですが…」

資料として段ボールに保管されたそれを見る。リストのUSBメモリの横には四と記されていた。

「それ以外にもう一つあったんだ。」

「はあ…それは今どこにあるんですか?」

道上の探していたものはそのUSBメモリなんだろうか。篠原は今裁判を受けている。それは篠原の無罪を証明するものであったのだろうか。

「……」

電話の向こうで、何も言わずに眉間にしわを寄せる道上が見えた。無いのだ。なんらかの事情でそれはもう手に入れることが不可能なのだ。

そうであれば、内容は篠原に聞くしかないだろう。自分の無罪を証明するものなのであれば、進んで話すに違いない。

しかし話したところでそれは証拠になるだろうか。内容について篠原以外の人物に知るすべはないのだ。虚言とみなされる可能性もある。

「一応聞いてみますが、証拠になるかは分かりませんよ?」

「なるよ」

沈んだまま、しかし確証を持った芯のある声。

「俺の推測があっていればの話だけどな。」


 「知らねえな。」

篠原は俺を見つめて、口元を歪めながらそう答えた。

「知らないって…」

「そもそもそんなもの、持っていなかったな。」

それは内容が分かったからといって、篠原が救われるようなものではない。しかし何としてでも隠し通したいもの。

篠原が静かに目を閉じた。もう話す気はないとでも言いたげだ。その表情を見て、俺の方がため息を漏らしてしまう。

道上は今、篠原の職場からこっちに向かっているらしかった。だからそれまでは繋いでおかなければならない。

あとは道上に任せればいい。

「内容は?」

知っていることを前提に探る。篠原が目を開けた。俺なんて視界に入れず、ただ机を、それか組んだ自分の腕を見ていた。

「知らないって言ってんだろ。」

「知らないなんて顔してないよ。」

篠原は舌打ちをしてそっぽを向いた。

そういえば、やはり浅井は篠原に似ている。今の姿ではなく、逮捕された当時の篠原にだ。

俺たちが到着したときには黙って空間を見つめていたが、しかし恋人を殺害した直後にはさんざんに泣いたのだろう。

真っ赤な目で、開けられたままの口で、大人しく連れて行かれる後ろ姿は痛々しかった。

その後の取り調べでは威圧する刑事を恐れ、目をきつく瞑り必死に現実から目を背けようとした。

殺害現場にあった刃物について「殺すつもりで持っていった。」と言い、しかし「殺したくなかった。」とも言った。

その証拠と言えるだろうか、篠原は殺害現場に婚約指輪と思われるものを持ちこんでいた。

ピンクのハート型の石が埋め込まれたシルバーの指輪は、鮮血に染められ、とても綺麗とは言い難い物と化していたが。

篠原は賭けていたのだ。恋人が無実であればプロポーズを、確かにその手が罪で汚れていたら自らの手で浄化を、と。

浅井が来るずっと前、一人の部屋では恋人への懺悔を何度となく口にした。

夜は真っ暗闇で吠えた。恋人への積もり積もった憎悪を何度も叫んだ。看守に叱咤され、刑事を呼んで押さえつけ、目が覚めると泣き叫ぶ。

それは何度もあったことなのだ。精神病院へ送ることも検討されたが、時間が経つにつれ、篠原が暴れ出すことはなくなった。

それは裁判が始まった直後からであった。

浅井が変貌したのは急なことで、篠原のように暴れたりなんかはなさそうだ。しかしどうだろう。

あんな目をした彼は、立ち直れるのだろうか。

「主任が到着したら、俺と交代するから。」

「…道上か。」

「ああ。」

篠原の舌打ちが響いた。

「あいつは気に入らねえ。」

そんなことは知っていた。取り調べを受けたもので、道上に苦手意識を抱かないものはそうそういないだろう。

威圧する態度や、見下したような声。気さくに笑う普段の道上を知っている分、俺だって毎回見る人が変わった様子を信じられないでいる。

「君がちゃんと受け答えしてくれれば、主任だって君が嫌がることはしないよ。」

篠原は何も答えなかった。肘をついて、こちら側からはただの鏡に見えるマジックミラーを睨みつける。

俺も今向こう側に誰かがいるかもしれないなんて分からない。それがこんなに息苦しいものだとは考えたこともなかった。

道上が来るまでの間は想像していたより長い。

「篠原」

篠原は相変わらずマジックミラーを向いたままだ。

「…篠原」

世間話でもして繋ごうかと、話題も浮かばないままに声をかけた。しかし篠原はそっちを睨みつけたまま動かず、さらに重苦しくなっただけだった。




 刑事が出て行った。道上が来るまでの沈黙が辛かったのだろう。マジックミラーを睨みつけていた目を伏せ、USBメモリについての言い訳を考える。

あの日USBメモリは俺の手元になかった。いつもはペンケースの中に入れていたが、その日はなぜか無くなっていた。

気付いたのは恋人、日向子を殺す直前だ。日向子があるはずのUSBメモリがないことに気が付いたのだ。

つまり、あれさえいつも通りにあれば日向子は俺に殺されずに済んだのだ。今となっては結果論だが、きっとそうだった。

どこかで落とした可能性なんてほとんど無かった。仕事場で使うだけで、あとはずっとペンケースにしまっていたのだから。

押収品の中にも無かったということは、何者かに盗まれたということ。思い当たる節はいくつかあった。

まずは、そのUSBメモリの内容が自分にとって不都合となる人物。しかしその者に奪うことは可能だろうか。

そもそも自分についての詳細が記されていることさえ知らなかったかもしれない。

次に、USBメモリの内容をどうしても自分のも物にしたかった人物。しかし内容が表に出た形跡はない。

そうであれば、警察は今頃になってUSBメモリの存在に気づき、追っているはずもないのだから。

最後に、単に俺の気を引きたかった人物。自分に自信を持っている女は、俺のように簡単そうな人間が自分に振り向かないことに腹を立てただろう。

そうして内容については知らないまま、世間に公表することなく消したか、失くしてしまったか。下らない理由だが、一番可能性の高い話だ。

いや、しかしあの気の弱そうな刑事は「USBメモリはどこにあるか」なんて聞き方はしなかった。

在り処を探すことに手こずっているか、それがもう存在しないと掴んだのか、どちらかだろう。

気配を感じて目を開いたとき、俺の後ろで静かにドアが開いた。


 「交代だ。」

道上が俺に目を合わせず入ってきて、向かいに座った。全く隠されていない苛立ちが表面に滲み出て、また知らず知らずに威圧している。

「USBメモリの内容について詳しく話せ。」

ハンカチで汗を拭い、足は貧乏揺すりをしだす。机が小刻みに揺れ始めた。

「何のことか分からないな。」

「しらを切ろうとするな。」

「分からないものは分からない。」

道上の手の平が机を叩いた。揺れは依然止まらない。

「話したところでお前の罪が重くなるわけじゃないだろ?」

無理に作った笑顔は引き攣っている。こっちは無理にだって笑えない。

「お前のUSBメモリ、新入社員の柏木って女が盗ってたんだよ。それが存在した証拠だろうが。」

俺の読みは当たっていたようだ。やたらと腕や背中に触り、自分がいかに可愛いかをアピールしてきた柏木。

俺があの日プロポーズすると打ち明けて会社を出る際、あいつは俺のペンケースからUSBメモリを奪ったのだ。

他人事のように言うが、それが事件に発展するなんて思っていなかったのだろう。

「…素直に吐けよ。浅井のこと、知ってたんだろ。」

道上の目つきは抉るように鋭い。さすがの洞察力だった。

「今は話せない。」

「今話せ。」

「一回部屋に返してもらわないとな。」

道上は俺を睨みつける。蛇のような目が俺を捕らえる。しかしここで動じはしない。もう慣れっこなのだ。

逮捕されてから道上の取り調べを何度も受けて、恋人を失った、いや、自分で消してしまったショックから立ち直れない俺は道上を恐れていた。

その刃先から逃げるように自らの足で深い場所へと落ちていくような、そう誘導されているような恐怖がそこにはあった。

道上は自分の目が、態度がどれだけの人間を殺しているかなんて気付いてはいない。だからこそ、これからも犯し続けるのだろう。

俺のような死んだ人間を何人も生み出すのだろう。知らず知らずのうちに、その闇へと飲み込んでいく。

「明日じゃないと話せないな。」

折れてはいけない。隙を見せると切っ先はそこを目掛けて飛び込んでくる。俺は未だに防御の体勢をつくっていた。

心では恐れていない、慣れた、動じないなんて言って、本当はこの男に付け入る隙を与えるのが怖いのだ。これ以上死にたくなどないのだ。

「分かった。」

道上が折れたことで、途端に弛緩する。

「しかし、明日は必ず話すんだぞ。」

返事はしなかった。浅井に全てを話したあと、それを俺が伝えるべきか、浅井が自ら伝えるべきかは、俺が判断することではなかった。


 「もう死刑になることは分かっているのに、事情聴取ですか。」

部屋に戻って来た篠原を見上げて、蔑むような口調で笑った。しかし篠原はそれに大した反応を抱かず、黙って一歩を進める。

つまらなそうな顔を膝を抱えた腕の間に埋めて、それ以上篠原と対することを辞めた。篠原は浅井から少し離れた場所に座る。

コンクリートの冷たさがいつもより増して感じられ、二人の背中を刺した。

篠原が口を開くと、浅井はその顔をより一層隠した。

「お前、自分のこと分からないって言ったろ。」

「……はい。」

誰からも見えない隠された目は確かに開けられ、涙をためることもせずに灰色を見つめていた。

いつの間にか塗り替えられてしまいそうなほどに見つめていた。

「何もかも、覚えていません。」

静かに閉じた。

「知りたくないか?」

篠原の声にまた少し開けて、何度か瞬きをする。乾燥しているせいで瞼が張り付きそうだ。痒みが痛みのように襲う。

「篠原さんは、知っているんですね。」

「――――ああ。」

浅井が顔を上げる。逮捕直後の怯えた表情なんか全く似合わない、捻じれた笑顔を浮かべていた。

張り付けたようなそれは不自然で、いつ剥がれてもおかしくなさそうに見える。その下には何があるのか、本人にはよく分かっているようだ。

「それを証言してきたんですね。」

だるさを帯びた声を漏らし、上を向いた。頭が強くコンクリートの壁に打ちつけられ、鈍い音が響く。

浅井が徐々に狂い始めていることは傍から見てもよく分かる。だからこそ、だからこそ。篠原は浅井本人に伝えなければいけないと思うのだった。

「刑事には言ってない。」

「嘘でしょう。」

もう一度、肉のぶつかる音。

「別にいいんですよ、言ってくれたって。どうせ覚えていないんだから。」

浅井の頭の中に響いた骨の打ちつけられる音などは思考で掻き消され、気味の悪い音だけ部屋を巡る。

「刑事に言う前に、お前に伝えておくことにした。」

何度も何度も何度も何度もぶつかった後に、ゆっくりと頭が元の腕の中へ納まる。笑っていた。乾いた声で。喉を痛めながら。

「篠原さん、綺麗事みたいなの似合わないですよ。」

長いため息の後で、浅井が頭をもたげる。艶のあった髪はぼさぼさに乱れて、口元は三日月に曲がる。

その顔はだんだんと篠原に近づいてきていた。目だけではなく、その雰囲気まで全て。

「僕は、何人殺したんですか? この手で、どれだけ、どうやって殺したんですか?」

篠原の目が細められる。同情なんてものは一切ない。ただ、自らの告白で浅井が崩壊するのは避けたかった。

少しずつ、少しずつ自分に近づいてくるその姿。犯罪を犯したものが全てそうなるとは言えない。しかしある意味で正しい道だ。

また犯す。何度でも犯す。反省なんてする暇もなくまた犯す。目が物語るのだ。僕は殺すんだ、と。

「四人だ。」

「四人も…。」

浅井が手を離したことで膝はだらしなく開かれる。そしてその手を見つめた。

今は血も脂も付いていないまっさらな手が、染みついた液体で色を変えたとんでもなくおぞましい物に映った。

浅井の目が手をただただ見つめる。何も映っていないのに、目も瞬かせずにただ見つめる。

「一人目は一般の会社員の男だ。」

痛いほどに見開かれた目が指先を、手のひらを、隅々まで見つめる。

「行方不明のお前が彷徨い歩いて、途中で見つけた最初の獲物だ。」

情景など思い出せやしない。

「何の罪もないその男を、お前は包丁で刺して殺した。心臓と首元を、死後も強く刃を引いて殺した。」

血が飛び散る。顔にも、身体にも。手を汚した粘っこい血液が手首を伝った。

「当時は怨恨の線で捜査されていたから、お前は捜査線上に上がらなかったな。」

気付けば、浅井の息が荒くなり始めていた。犬のように激しい息が開けられた口から吐き出された。

「二人目は、殺害場所近辺の高校に通う男子生徒だ。」

ぼんやりと浮かぶのは、紺色の制服。そして緑色のネクタイだ。その画面に血がまた飛び散った。

指先が震えだす。知ってる、知ってる。僕は見た。浅井の心の中で繰り返される。覗きこむ男の身体と、汚していく血液。

「一人目の殺害後、お前は公園に住みついたホームレスに世話になっていた。」

爪に入りこんだ血液が取れない。いつの間にか浅井は手を擦り始めていた。引っ掻いて、爪と指の間の肉を抉るようにして。

眼球が震えるように動く。乾ききった口から激しく息を零し、皮膚を剥ぎ取るかの如く引っ掻いた。

「男子生徒はお前が世話になったホームレスの男性に虐待を加え」

「………もう、いい」

篠原は黙ってその狂った行いを見つめていた。手は真っ赤だ。爪の痕が何本も走って、蚯蚓腫れを起こした手だ。

それをさらに何度も何度も何度も。痛みなどもう感じていないように、自らに制裁をくらわす意でなく、逃げ場を作るために。

「お前がいない間にホームレスの男性を」

「もういい、もういい! 知らない! やめろ!!」

壊れたように痙攣する手をコンクリートの床に叩きつけた。細く走った傷跡から滲み出た血が、わずかに床へと零れた。

震える息を吐き出しながら、熱を持ったその手を開いてコンクリートに触れる。冷たさを求めるように触る。

「だいたい、証拠がないですよ。」

揺れる目のまま、落ち着いてなどいないのにそう言う。

「警察だってこんな若い僕を捕まえられないほど無能じゃないでしょう。」

揺れる目のまま、混乱の中で口元だけを笑みの形にする。

「それに、覚えてないみたいですよ。」

目を閉じて、篠原の様子を探る。浅井が怒鳴ってからは黙ったままの篠原が、呼吸だけを繰り返して見ていた。


 浅井を狂わせたくないと思っていた。しかし真実は知っておかなければいけないとも思っていた。

それはとんだ綺麗事であったと気づいた。

篠原が話すことによって、浅井はこうも壊れる。今この状況を作らなかったとしても、いつの日か真実を知った日浅井は崩れるのだろう。

痛々しく傷ついた手を冷やすようにくっつけて、目はきつく瞑ったままだ。瞼の裏に何が映っているか。

自分が殺した男たちの、その色が失せていく様を覚えていない。少しでも蘇らないのか。

自分の顔にも身体にも飛んだ鮮血も。戦慄して見つめる開ききった瞳も。全て遠くで見えているのだろう。

受け入れられないだけ。自分が抱いていた憎悪の強大さを。

「全てはあくまで俺の推測だぞ。」

何も見つめていないかのように曇ったまま、浅井の目が薄く開かれた。痙攣の止まった手、しかし皮のずるむけた手を、強い力でなぞる。

「僕がそうやって人を殺していった動機があるわけでもない。」

呟いた。

「動機なんかない。」

もう一度。頭を抱えると、長く息を吐き出した。

「動機ならあるだろ。」

篠原の声に息を止めて、瞬きを繰り返す。ない、と呟いた。殺人未遂後初めて瀬戸綾李の名前を聞いたとき、確かに浅井の中に線は出来た。

それが一瞬でも、自分で男たちを殺めた理由が繋がった。ぼんやりとかすんだ今も、篠原の言葉でどんどん蘇る。

怖くて怖くて否定する。あたかも自分は何も知らなかった。その状態を保とうとする。


 「お前の動機は、恋人の瀬戸綾李だ。」

「は……」

聞きたくない。

「瀬戸綾李は殺された、二月十六日、通り魔××××、×××××××に××××××に。」

「はは……何言ってるのか、分かりませんよ。」

「××××は×××も××××××の×××××××××。」

言葉のところどころに穴が開く。重要なところだけ聞き逃してやろうと、そう、線は途切れる。

「だから×××××××××××××××××だ×。通り魔××××××、瀬戸×李は×××××××××。」

「やめてください。」

根拠がない。聞くに堪えない。それでも絡みついてくる言葉の羅列が僕の首をゆっくりと締めあげていく。

「××××××は気付いたんだろ?×××な××××××××××××××気付×たん××××。」

知らない。知らない。気付いてなんかいない。僕は何も知らない。

「瀬戸綾×は××に×××××。それも××の×××知××××。」

「………知らない。」

全身にやんわりと絡みつき、指先にも耳にも髪の一本一本までに這っていく。これから訪れる恐怖に身を固くする。

「××、××××に×を××××。」

心臓が一際大きく跳ねた。

「×××××××との×××何度も××、×××××××××と×しな××××。」

どんどん力はこもり、皮膚を絞めつけていく。怖い。意識が飛びそうになる痛みを予測する。来ることはもう分かっている。

その瞬間さえも分かっている。しかしいざ目の前にすれば怖くて仕方ないのだ。必死に頭を抱えた。聞きたくない。

「×××」

これ以上聞きたくない。事実を受け入れたくなんてない。

「瀬戸綾李は浅井修也を愛していた。」

空気が破裂した。そう錯覚するような、熱風が僕目掛けて吹きかけてきたような、そんな風に空気が歪んで見えたのだ。


 「二月十四日はチョコレートを貰ったそうだな。お前と瀬戸綾李は本当に仲の良い恋人同士なのだと大学内でも有名だったと聞いたぞ。」

心臓が激しく跳ねまわった。食道を突きぬけようとしているみたいに、左胸が痛む。

「その直後に瀬戸綾李が殺されたんだ。お前は同情されただろう。」

「……もう、いいでしょう。」

僕は知らない。

「………許せなかったんだろうな。」

「そんなこと知らない!!」

掻き混ぜられた脳味噌は冷えて、暴れて僕の身体の内部を傷つけた心臓も大人しくなった。ただ息だけは壊れたように吐き出し続けた。

節々が痛む。風邪を引いてベッドの上、一人で目を開けていたときのよう。ああ。カーテンが開けられて、埃が宝石のように輝いた。

額にひんやりと。笑顔が覗きこんだ。目が細められて、愛おしさの溢れだす笑顔だ。

「…しかし、どうしてだ。」

もう会えない。

「どうして知らない人間ばかり殺したんだ。」

結末は予測できたくらいに臭いものだったのに。

「できない理由があったのか。」

僕が殺せばよかった。

「お前はどうして、その手で殺そうとしなかったんだ。」

僕が殺せばよかった。

僕と、綾李を。


 「篠原がさ、USBメモリの内容については浅井に聞けって言うんだよ。」

道上が浅井への取り調べを開始したとき、浅井はすでに憔悴しきった表情をしていた。真っ黒で少し濡れた目は、相変わらず空洞に見えた。

「ふざけてるよな…本当、やっぱりお前らどっかで繋がってたのか。」

「…………………………はい。」

呟いた浅井の声は、静かな室内にやけに通って聞こえた。道上が顔を顰める。篠原はあんなに拒んだのに、浅井はこんなにも早い段階で認めた。

気持ち悪くもあった。隠し通したい事実だったはずなのに、それとも浅井の無実を証明するものだったのだろうか。

「USBメモリの中身はなんだ。」

「…僕のことです。」

浅井は傷だらけの手を繰り返し擦っていた。時折目を細めて眺めた。ずっと零れない涙を溜めたまま、口元は苦しそうに噛みしめられる。

しばらくすると俯いたまま話始めた。

「僕は四人も殺していたそうです。」

岡部は息を呑む。あんなに怯えていた青年の姿は何処にもなくなった。淡々と事実を語ろうとする様を見ると、どこか吹っ切れた部分があるのか。

「四人……?」

「一般の会社員と、高校生と……」

指折り数える。まるで殺した人を人間と思っていないような扱いだ。しかしその掻き毟って血の滲んだ手は、嫌悪感からそうしたのではないのか。

折った指を見れば、爪の中も赤く染まっている。

「ああ…あと篠原さんに聞いたわけじゃないんですけど、酔っぱらって潰れていたおじさんと、コンビニから出てきた若い男もです。」

「お前…悪いと思わないのか。それだけの人間殺して、どうしてそう、落ち着いていられるんだ…!」

道上の手が机の上で震えていた。拳を握り、真っ赤だ。今にも殴りかかりそうなのに、やはり浅井は怯えてなどいない。

俯いて瞬きだけを繰り返す。ゆっくりと、瞼の裏の情景さえ受け入れるように。

「篠原さんには悪いと思っています。僕のせいで恋人を殺すことになったんですよね。恋人が他の雑誌記者と浮気した挙句、僕の情報が入ったUSBメモリを渡そうとしたらしいですから。生きてるのも辛そうで、悪いなって思いますよ。」

目を瞑った。

「でも、それ以外の人は悪いっていうより…気持ち悪いなって…」

「お前、ふざけるな!!」

「ああ、綾李は通り魔じゃなくて、大学内の男に殺されたんです。」

勢い余って立ち上がった道上だったが、浅井のその言葉に拳を下げる。黙って睨みつけた。

「綾李のことを好きだった男が、交際を断られて殺したんです。二月十六日に。」

「しかし、あの時現場を見た刑事は、故意な殺害ではないと」

浅井の口元が歪められる。表情など前髪で隠れてしまうほど俯いた。

「綾李を殺した男の父親は代議士だから警察内部で揉み消されたんだって、そう聞きました。」

ふっと揺れて、その重そうな頭をもたげる。

笑っていた。

「綾李は通り魔に殺されたって、そう塗り替えられたんですよ。」

瀬戸綾李の事件には、道上や岡部の班は捜査に関わっていなかった。調書を見て知っただけであった。

浅井の言っていることが信じられないわけではないが、受け入れ難くはあった。

情報を操作したとか、揉み消されたとか、そんな噂は一切耳に入ってこなかったのだ。

「おかしいですよね。テレビじゃ少子化対策がどうだ、母子家庭の支援だとか言ってる人間の子供が人を殺してるんですよ。」

まくし立てる。

「僕の大事な人を殺して、そんな罪も償えない息子庇って、自分は国民のこと考えていますっていい人面して」

まるで道上に訴えかけているようだ。道上は黙ってその顔を見つめていた。驚く様子もなく、黙って。

「人の命を消した人間なんか庇われる必要無いじゃないですか、おかしいですよ…。」

力を失って座り込むと、俯いて袖を伸ばし、その目元を抑える。嗚咽が漏れる。片方の手は何度も太腿へ振りおろされる。

単発的な音が何度も聞こえて、その間に道上は浅井の横に立った。まるであの日の光景だ。

しかし道上は怒鳴りはしない。静かな声で問うだけだ。

「それと、見ず知らずの人を殺したことは関係ないね。」

叩きつける手が動きを止め、強く握りしめられる。爪が白く見える。そして幾筋もの傷跡が浮かびあがる。

「君が憎かったのは、恋人を殺した男じゃないのか。」

短い声が漏れた。憎い、そう呟く。何度も。憎い。憎い。あいつが憎い。綾李を奪ったあいつが憎い。憎い。

「綾李を守りたかったから、殺せなかった。」

「どういうこと?」

「綾李が、綾李が死んでいく様子が流れるって」

息が荒くなる。

「自分が死んだ後でも、誰かがパソコンを開けば流れるって」

「脅されたのか?」

浅井が頷く。頭を抱えた。傷だらけの手が、浅井が痛々しい。憎いよりも先だった気持ちがあった。

愛しくてたまらないものを失った。壊さないよう、壊さないよう大事にしていたそれが存在しなくても、それでも力の限り守りたかった。

もう抱きしめることのできない、腕の中に感じられないその感触を、自分の腕で守りたかった。

「綾李が苦しんでるところなんか、誰にも見られたくない」

力のこもった指が髪の毛に埋まって震えた。

「きっと僕に助けを求めてた」

修也、修也って。僕の大好きな甘い声と違って、聞いたこともないような必死な声で呼んでいたはずなのだ。

それなのに僕は気付いてやれなかった。愛してる、大切なんだとか言いながら、何食わぬ顔で友達と談笑していた。

綾李がどうなっているかも知らずに。欠片も考えずに。行動できたはずの僕はただ自分のことしか思っていなかった。

「僕が、見たくなかった」

声をあげて泣く。無表情だったのが嘘のように、後悔と憎悪に苛まれて。



 青年は六百六号室にいた。精神を患った犯罪者たちが収容される精神病院で、青年は毎日無表情で窓の外を眺めていた。

熱を出しては魘されて、恋人の名前を呼んだ。うわごとのように繰り返した。そして見上げて、そこに誰かがいるかのように微笑む。

 「え? 藤堂先生の代わりに俺が?」

「はい、藤堂先生は研修に行っていますので、夏川先生に診察をお願いしたいのですが。」

夏川と呼ばれた男は、出た腹のせいでボタンを閉められずにいた。嫌そうな顔で立ち上がると、看護師に並んで診察室へと向かう。

「その患者さんは俺が診察しても大丈夫なのかい?」

「え…ええ…まあ…」

カルテに挟まれた顔写真を見てため息を吐く。

「自分の恋人を殺した男に似た体形の男を、見つけては殺してた男の子だろ?」

太い指先で、眼鏡のフレームに触る。写真の青年は無表情だった。六百六号室にいるときと同じ顔をしていた。

「俺、肥満仲間の有野先生から聞いたけど」

ドアの前で立ち止まった。

「廊下ですれ違ったとき、糞豚、殺してやるって喚きたてられたそうじゃないか。」

看護師は視線を逸らしたままで、そっとドアを開けた。中には大人しく座った青年が見えた。両脇には男性の看護師が立っている。

いつ暴れ出しても取り押さえられるようにだった。俯いていた青年が顔を上げた。無表情だ。

しかし夏川が部屋に足を踏み入れた瞬間、その目を強く見開く。椅子を蹴飛ばして立ち上がる。

看護師が取り押さえても、その手を振り払おうともがく。

わけの分からない言葉をぶつけるように吐き出した。思いついた罵詈雑言をただ垂れ流しているように。

「ああああ…やっぱりこうなるじゃない…」

「豚、死ね! ぶっ殺す! 綾李を返せえええ!」

夏川は慌てて診察室の外に出る。激しい怒号はなおも続いていた。見境がつかなくなったように夏川を罵る。

「今日は診察できないね。」

「すいません……」

「でもおかしいね。」

カルテに視線を落とす。その一行を目で追う。それは何度も読んで、引っかかっていた一行だった。

「どうして今、犯人の男のこととか、何も覚えていないのかな。取り調べ中に全て思いだしたんじゃなかったのか?」


「殺人を犯す度に記憶を失くしていたっていうなら、おかしい話だよね。」

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