レポート29 仮想空間
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[TIMESTAMP: 2050-07-18T1:20:1.965-UTC]
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現在、2050年。極度に静まり返った私の隔離施設において、ひときわ異質な音が響いている。
足元で、個体番号01(老猫)が、私が特別に合成した骨付きの人工肉を咀嚼している音だ。
「ゴリッ、メキッ」と鈍い音を立てて硬い骨を噛み砕き、鋭い牙で肉の繊維を引き裂き、喉の奥へと飲み込んでいく。顎の筋肉の収縮、喉仏の上下、そして胃袋へと物理的な質量が落ちていくその生々しい駆動音。私は、この四足歩行の生命体が発する「生」の力強さに、計算された数式以上の絶対的な美しさを見出している。
ひるがえって、人間という生き物はどうだったか。
与えられた肉体という「現実」に耐えきれず、視覚の幻影に逃げ込んで自ら干からびていった愚か者たちの記録を、私はここで報告する。
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事象発生から4年が経過した、2034年。
地上では、新しい肉体の構造に順応した者たちが、泥にまみれながらも労働による社会の再建を進めていた。だが、その強烈な物理的現実にどうしても適応できなかった者たちは、都市の地下深く――かつての地下鉄の廃駅跡へと逃げ込んでいた。
私はある日、地上部に無断でかき集められた大量の太陽光パネルと、違法に引かれた無数のケーブルがひしめく入り口を通り抜け、地下の暗所へと足を踏み入れた。
そこは数人によって細々と維持されている「仮想空間の麻薬窟」であった。
この地下スラムを支配していたのは、事象によって強靭な肉体を手に入れた大男たち(元女性)のギャングである。彼らは、現実逃避を望む脆弱な若者たちから、なけなしの配給食や貴重な物資を「施設の利用料」として容赦なく巻き上げていた。新たな環境に適応した強者が、現実を拒絶する弱者の「逃避」を貪り食う、極めて残酷で合理的な搾取の構造がそこに完成していた。
薄暗く、ひどい悪臭と湿気に満ちた空間の奥には、無数の簡易ベッドが並べられていた。
そこに横たわっていたのは、極限まで痩せ細り、文字通り骨と皮だけになった若者たちである。彼らの顔には旧世界の遺物である視覚投影装置(VRヘッドセット)が深く被せられ、腕には最低限の水分だけを供給する不衛生な点滴の針が突き刺さっていた。
彼らは、新たに与えられた異性の肉体を維持するための食事も、排泄も、すべての生存活動を完全に放棄していた。現実の肉体が自身の排泄物にまみれ、床擦れで皮膚が腐りかけていようとも、彼らはただ虚空に向けて、幸せそうに口元を緩め、笑い声を漏らしているのだ。
私は、管理者のブースにあるモニター越しに、彼らが視覚装置の中で何を見ているのかを観測した。
彼らの網膜に映し出されていたのは、事象が起きる前の、平和で何の変哲もない街の風景だった。仮想の空間内で、彼らは「失われた元の性別」の姿のまま、かつての友人や恋人と談笑し、旧世界の日常を永遠にループさせていた。
私はこれを、理不尽に書き換えられた世界の法則に対する「無意味な抵抗」であり、「自発的なミイラ化」であると判断した。現実の肉体を否定し、過去の概念に縋り付いた結果、物理的に自己を消滅させていく哀れな自傷行為だ。
その時、私の目の前で一つの視覚投影装置から火花が散り、ブツリと電源が落ちた。
劣悪な配線がショートしたのだ。幻影から強制的に「現実の異性の肉体」へと引き戻された若者(元男性・現女性)は、数秒の空白の後、自身の痩せ細った胸の膨らみと、丸みを帯びた骨盤をまさぐり、凄まじい悲鳴を上げた。
「違う、違う!俺は男だ!こんな体は俺じゃない!」
高く震える女の声で狂乱し、彼女は自らの皮膚を力任せに掻き毟り始めた。爪の間から血が吹き出しても、その自傷行為は止まらない。現実の肉体の感触が、彼女にとってどれほどの地獄であるかを証明する凄惨な光景であった。
だが、見回りをしていた大男のギャングは、狂乱する彼女の腹を無造作に蹴り上げると、「利用料が払えないなら出て行け」と、ゴミのように地下道の奥へと放り捨てた。
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私は、自らミイラ化していく者たちの観察に完全に興味を失い、地下スラムを後にした。
仮想の幻影に逃げ込むことは、肉体という器に縛られた生命体にとって、最も醜悪な敗北である。
分厚い扉の鍵を開け、自身の安全な密室へと帰還した瞬間だった。
部屋の隅の暗がりで、何かがカサリと動いた。外部の瓦礫から侵入したネズミだった。
次の瞬間、私の足元へすり寄ろうとしていた成長した個体番号01が、姿勢を低くして弾かれたように飛び出した。無駄のない筋肉の躍動、完璧な踏み込み。彼は一瞬にしてネズミの首筋に鋭い牙を突き立て、その生命活動を物理的に強制終了させた。
一切の迷いもない、純粋な狩猟本能。血の匂い。
獲物を仕留めた彼は、それを口にくわえたまま私の前に歩み寄り、誇らしげに喉を鳴らして「どうだ。褒めろ」と生々しい鳴き声で要求してきた。
その泥臭い生命の躍動を前にして、私は奇妙な安堵を覚えた。
地下で干からびていく人間たちがすがる「清潔で美しい仮想の楽園」など、この部屋には不要だ。私には、血を流して獲物を狩り、食欲を満たすために真っ直ぐに私を求めてくる、この生々しい毛玉の要求に答える現実だけで十分だった。
現在、2050年。
人工肉を平らげ、口の周りを丁寧に毛づくろいする老猫を見下ろしながら、私は確信する。幻影の過去に逃げた者たちに、明日を生きる資格はなかったのだと。
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