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おれが徴兵         :約6000文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/06/13

 昼過ぎ。自宅の団地の薄汚れた通路に立ち、おれは部屋のドアに鍵を差し込んだ。その瞬間、ふと手が止まった。ほんのわずかだったが、胸の奥にひっかかるような説明しがたい違和感を覚えたのだ。

 おれは鍵を握ったまま目を閉じ、耳を澄ませた――風が吹いた。団地の敷地に植えられた木々の葉が揺れ、さわさわと乾いた音を立てている。どこかで鳥が鳴き、少し離れた場所から別の鳥が応えるようにさえずりが重なった。遠くから、からからと自転車の走る音がかすかに聞こえてきた。いつもと変わらない穏やかな午後だ。

 気のせいか……。

 おれは小さく息を吐き、目を開けて鍵を回した。カチャリ、と軽い手応えが指先に伝わった。だが、その小さな音は横手から近づいてくる複数の足音に上書きされた。

 おれは反射的に顔を向けた。


「どうも。――さんですね」

「お迎えに参りました」


 二人組の男がこちらへ歩いてきて、にこやかに声をかけてきた。黒いスラックスに簡素なジャンパー姿。胸元には名札らしきものが下がっている。市役所か何かの職員に見えた。


「え、えっと、お……お迎え……?」


 喉が引っかかり、おれは軽く咳払いをしてから訊ねた。

 なんだ、この感じは。嫌な予感がする……。まさか、いや……だが、いや、ありえない。


「徴兵です」


 片方の男があっさりと言い、まるで宅配便の受領書でも渡すかのような気軽さで赤い紙を差し出してきた。

 ちょうへい……チョウヘイ、徴兵……? ちょ、ちょ、徴兵……?

 おれが、おれがおれがおれが? いや、馬鹿な、嘘だ嘘、ない、ない。そんなこと――。


「ありえないでしょお!」


 気づけば、おれは声を張り上げていた。怒鳴り声が廊下にびりりと響き、柵の向こうの木から鳥がちちちっと鳴いて飛び立った。

 しかし二人はまるで動じなかった。張りついたような笑みを浮かべたまま静かにこちらを見ている。まるで給湯器の点検か何かの案内をしているかのような落ち着きぶりだった。

 だが点検なんかじゃない。こ、こいつらは、おれを徴兵、徴兵するために来たのだ……! この愛国者であるおれを!


「あ……す、すみません。ちょっと声を荒げてしまって。今のは忘れてください。ははは、いやあ、光栄です」


 おれは慌てて笑顔を取り繕い、軽く頭を下げた。


「どうも」

「下にトラックが停まっておりますので、そのままお乗りください」


「え、ええ、どうも、でも――」


「次は309号室だな」

「この先ですね」


「あ、あの!」


 二人は電子端末を指でなぞり、次の対象者を確認すると、そのまま歩き出そうとした。

 おれは慌てて一歩踏み出し、手を伸ばして呼び止めた。


「え、えっと、ご冗談ですよね……?」


「冗談?」


 二人は揃ってわずかに首を傾げ、瞬きをした。


「だって、愛国心のない人から順に戦地へ送られるんですよ。それは過去の大戦でも、政府を批判した国会議員が高齢にもかかわらず徴兵され、戦死した例があることから明らかです」


 話しているうちに、少しずつ頭が冷えてきた。そうとも、おれが選ばれるはずがないのだ。おれは毎日のようにSNSで愛国心を語ってきた。反政府の疑いがある企業や著名人を見つけては叩き、ニュースサイトで政治記事をチェックしては必ず政府を支持するコメントを書き込んだ。

 こんなに国を思っている男は他にいない。その自負がある。そうだ。おれが選ばれるはずがない。


「私のような愛国者は最後でしょう。他の方からどうぞ。ええ、私は結構ですから先へ進んでください」


「なるほど」

「愛国心。素晴らしいですね」


 二人は感心したように何度も頷いた。

 どうやら理解してもらえたようだ。おれはほっと息をつき、一歩脇へどいて頷いた。


「トラックは団地の入口に停まっていますので」

「職員も立っていますから、すぐ分かると思います」


「え、いや、ちょっと!」


 二人は「じゃ、次行こうか」と小さく頷き合い、そのまま何事もなかったかのように歩き出そうとした。おれは慌てて前へ回り込み、進路を塞いだ。


「どうされましたか?」

「何かご不明な点がありましたら、トラック前の職員にお尋ねください」


「いや、おれの、あ、私の話を聞いていましたか……?」


 おれは引きつりながらも必死に笑みを浮かべた。


「私のような愛国者を戦地へ送るというのは、なんというか、その……愚行ですよ、愚行」


「はあ、政府の決定を愚行と」


「いやいや、そうは言っていませんよ!」


 おれは慌てて両手をぶんぶん振った。

 戦争が始まってから、もう何年にもなる。最初の頃はどこか遠い国の出来事のようだった――いや、実際に遠かった。テレビの向こう側で知らない都市が燃え、聞き慣れない地名がテロップで流れた。専門家たちは机上で手を組んで深刻そうな顔で語り、アナウンサーは神妙な声で戦況を伝えていたが、現実味はほとんどなかった。

 だが、それはじわじわと日常へ侵食してきた。

 気づけばスーパーの棚から商品が消え始め、夜になると街灯が間引かれ、駅前では軍歌を流しながら演説する者が見かけられるようになった。街を歩く人々の表情もどこか硬くなり、空気そのものが張り詰めたものに変わっていった。

 情勢が悪化していることくらい、おれのような一般市民にも明らかであった。そして本当に大丈夫なのかと思い始めた頃に、徴兵制度が始まった。

 最初は軍事訓練経験者や志願者が中心だった。勇壮な音楽に乗せて、整列する兵士たちの映像が何度もテレビで流された。毎日のように特集が組まれ、司会者は英雄たちを送り出すような口調で称賛した。

 しかし、それでも足りなかったらしく、やがて二十代の連中が招集された。その次は三十代と続き、四十代、五十代と順に戦地へ送られていった。

 それでもあの頃は「駅前が静かになったし、いいな」などと思う余裕があった。アナウンサーの髪が白くなっていくのを、むしろ面白がって眺めていた。


「愛国者が国からいなくなったら、それはもう、その……損失ですよ、損失。まずは囚人や政府に歯向かう者を優先的に送り込むべきでしょう」


 おれは胸の前で腕を組み、うんうんと頷いた。二人は首を傾げた。


「えっと、まず、ご自身を愛国者だと?」


「もちろんですとも」


「でも、最初の募集のときには行かなかったわけですよね?」


「ええ、それはまあ……私はもう年ですからね。若い連中に任せるべきでしょう」


 おれは咳払いをして喉を整えた。


「もちろん、侵攻を受けて家族や大切な人を守らなければならなくなったら話は別です。軍人でなくても体を張る覚悟はしておりますよ。戦って死ぬか、命乞いして結局死ぬか、そのどちらかになるでしょう。むろん、私は前者です。ですが今は国内に留まり、戦況を見守りつつ人々を鼓舞する役割を果たすべきでしょう。私のような人間が後ろに控えているというだけで、前線の兵士たちも勇気づけられるはずですから」


「ああ、年齢制限ならとっくに撤廃されましたよ」

「ご存じなかったんですか? でも大丈夫です。国のために尽くせますよ。では」


「い、いや、ちょっと!」


「あのー、我々も仕事がありますので」

「ご不明な点は下の職員へお願いします」


 二人はにっこりと笑った。


「い、いや、ですからね。その……関節が悪くてですね。股関節が特に痛くて……歩くだけでも結構つらいんですよ、これが。だから、お役には立てないなあと。いやあ、無念です」


「簡単な手術で改善できますから大丈夫ですよ」

「痛み止めも支給されますので」


「いやあ、その、特別な技能もありませんし、入隊してもできることはないですよ」


「皆さん、そう仰います」

「ですが問題ありませんので」


「あ、あ、あの、ベランダに旗が飾ってあるんですよ」


「旗?」


「ええ、国旗です。部屋の中にも貼ってありましてね。おたくはどうですか? 貼ってます? 大きいのが一枚、小さいのが……ええと何枚だったかなあ。ちょっと思い出せないんですけど、あ、これも問題じゃないかな。うん。記憶力がなくて命令を覚えられないかもなあ。……え、えっとそれで、いやあ、実にいいですよ。まさに太陽。部屋が明るくなるんですよ、これが。はははは!」


 おれは笑った。笑いながら必死に次の言葉を探していた。


「あっ、そうだ! 隣の部屋の男がね、どうも非国民みたいなんですよ。夜な夜な政府批判みたいなことを言っているようでしてね、壁の向こうから聞こえてくるんですよ。ねとねとと本当に気味が悪い声でしてねえ。なんかこう、虫がうようよ蠢いているみたいな感じでしてね。いや、まったくけしからんと前々から思っていたんですよ。ああいう連中こそね――」


「隣ですと……ああ、年齢的にはまだ先ですね」

「おめでとうございます。下のトラックへどうぞ。皆さん向かわれていますので」


「い、いや、ですからね! 私は愛国者なんですよ。愛国者!」


 おれは自分の胸をばんばん叩いた。


「ほら、戦争が始まる前に政府の電話調査があったでしょう。『有事の際、戦地へ赴く意思がありますか?』みたいな質問をされましてね、私は真っ先に『行く』と答えました!」


「……じゃあ、いいじゃないですか?」


「え、いや、だからね!」


 おれは額の汗を袖で拭った。


「そういう話じゃないんですよ。この国にふさわしくない人間から順に戦地へ送っていけば、一挙両得で国のためになるわけですよ。反抗的な連中とか、社会に不満ばかり言っている連中とか……。そうすれば国が浄化されるし、人員も確保できるわけじゃないですか。いやあ、思いついた人がいないのかなあ。あっ、作戦本部に助言してもいいですよ。軍事顧問としてね。実はね、以前から戦争のシミュレーションをよくやっていたんですよ。スーパーのチラシを折って紙の戦艦を作って並べてね、あの、補給線を断つことが重要なんですよねえ。いやあ、役に立つ日が来るとはなあ。私はここにいますから、いつでも意見を聞きに来てくださって構いませんからね。ぜひ、上にお伝えください」


「すごいですね。では、下へどうぞ」

「ご希望でしたら荷物は後でお送りします。まあ、届く前に前線へ向かわれると思いますけど」


「いや、で、ですからね、その……お米が最近また高くなりましたよねえ」


「米?」


「ええ、トイレットペーパーも全然買えなくて。どうも買い占めている連中がいるみたいなんですよねえ。私は以前、こうなることを予測して買いだめしておきましたけど。いやあ、政府は何をしているんですかね。ガソリンやら何やら明らかに物資が不足しているというのに、十分確保できているだなんて言われてもねえ。ちゃんと状況が見えているんですかね。大事なのはね、ええと……ヒアリングですからね。もっと国民の声をね……聞くべきというか……まあ、そういう感じでね……。いやあ、ね……困りますよねえ……。うん……えー、ですからね、その……お疲れさまでした!」


 おれはずりずりと後ずさりしながらドアににじり寄った。そしてドアノブを握ると同時に一気にひねった。ドアが開いた瞬間、その隙間に身体を滑り込ませるように飛び込んだ。

 その勢いのままドアを叩き閉めると鍵を回し、さらにチェーンまで掛けた。


「――さーん?」

「もしもーし」


 すぐにドアがノックされた。

 おれは目をぎゅっと閉じ、後ずさりした。足がもつれて危うく転びかけたが、腰をひねって壁に手をつき、どうにか体勢を立て直した。


「……まあいいか。あとは執行部の仕事だ」

「もう呼びました。次に行きましょう」


 連中の足音が遠ざかっていった。

 おれは肺の奥に溜まっていた息を一気に吐き出した。しばらくその場に立ち尽くし、やがて震える手で靴を脱ぎ捨てると、ばたばたと廊下を進んだ。

 そのまま冷蔵庫の前まで行くと、乱暴に扉を開けた。棚から醤油のボトルをひったくるように掴み取り、蓋を外して床に放り投げた。

 おれは両手でボトルを持ち上げ、大きく口を開いた――が、できない。黒い液体が口のすぐ上でゆらゆらと揺れている。唾を飲み込み、喉を鳴らしたが、次の瞬間には喉がきゅっと締まったように感じた。

 こんなもの、飲めるわけがない。それに、仮に飲んだところで本当に徴兵を免れられるのか。いいや、きっと無理だ。胃を洗浄され、そのまま前線送りになるだけだ。 

 おれはゆっくりとボトルを下ろし、流し台の上に置いた。

 手に残っていた重みが徐々に消えていく。それと一緒に身体の感覚まで薄れていった。視線を落とすと、指先が小刻みに震えていた。

 おれは深く長いため息をついた。

 部屋に静けさが戻った。すると、テレビがつけっぱなしだったことに気づいた。ああ、最初の違和感はこれだったのだ。

 おれはふらふらとテレビの前まで歩いた。画面の中では女性大統領が壇上に立ち、演説をしていた。


『さまざまなご意見がございますが、ドネル星との軍事衝突は、もはや停戦を訴える段階ではありません。今後も徴兵対象年齢を引き上げ、百歳代、百十歳代、百二十歳代と順に前線へ向かっていただきます。この国の――いえ、この星の住民として、誇りを持って戦い抜いてくださると信じています。かつて地球人同士で争っていた時代。一つの国家へ統合される以前の大戦で散った先人たちのように。未来の地球人のために戦いましょう。……戦いましょう! 戦って戦って戦って戦い抜くのです! 敵は! すべて! ジェノサイド!』


 おれは泣いた。テレビに縋りつき、声を上げて嗚咽した。スピーカーから鳴り響く拍手と歓声を浴びながら、子供のようにおいおいと泣いた。

 人工関節、人工臓器、人工皮膚――身体の大半を人工物に置き換えて生きることが当たり前となった現代。百年以上生きることなど珍しくもない時代だった。年長者が偉いのは常識であり、年下は年上を敬うのが公然のマナー。

 戦争が始まったばかりの頃は、地球の軍事力を見せつけるときが来たのだと、おれは満足げに頷いた。

 二十代、三十代の若者たちが戦地へ送られていた頃は、若いうちの苦労はいい経験になるだろうとほくそ笑んでいた。

 三十代、四十代と対象年齢が広がった頃は、「何を不甲斐ない。さっさとやっつけてしまえ」と憤っていた。

 五十代、六十代、七十代、八十代、九十代――みんな行ってしまった。

 おれもついこの前、百二十代の仲間入りを果たしたばかりだった。ようやく下の世代が増えてきて威張れると思っていたのに、今、街には自分より若い者がほとんどいない。そのうえ、この仕打ちはあまりにもむごいじゃないか……。


 テレビの音と自分の嗚咽が混ざり合う中、ドアを激しく叩く音が響き始めた。

 やがて、ドアが開く気配がした。無理やりこじ開けたのか、それとも管理人から合鍵を借りたのか。いずれにせよ、廊下から複数の足音が近づいてくる。

 連中が部屋に入ってきた。

 何か喋っているが、おれには聞こえなかった。おれはただ泣きわめき、伸びてくる腕を必死に振り払い、テレビにしがみつき続けた。


 画面の中では三百歳の大統領が微笑み、周囲を取り囲む高齢の議員たちから惜しみない称賛を浴びていた。

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