9. 「おめでとうございます」
翌朝、私はいつもより早く身支度を整えた。
昨夜の冷気が残る玄関ホールで、ランドルフに使者の連絡先を尋ねる。
「クラリス様、本当によろしいのですか」
長く仕えてくれた執事の、沈んだ声。
私は振り返らなかった。
「……受け入れます」
自分の声が、驚くほど冷静に響いた。
ランドルフは何かを言いかけ、けれど最後には
「……承知いたしました」
と、深く重い承諾を返した。
私は扉を開ける。突き刺すような冷たい朝の空気が、頬を叩く。
光はまだ白く、低い。遠くで一羽の鳥が、鋭く鳴いた。
望んでいた未来ではない。
描いていた物語でもない。
それでも。
私は、新しい物語へと足を踏み出した。
☆
婚姻の手続きというものは、驚くほどにあっけなく、そして無機質なものだった。
場所は王宮の片隅にある、狭苦しい事務室。窓が一つに、使い込まれた机が二つ、椅子が四つ。
立ち会ったのは、事務作業に追われ疲弊した表情の官吏が二人。
私とレオが淡々と書類に署名をし、判を押す。
たったそれだけの儀式で、私たちは「夫婦」と言うものになった。
色鮮やかな花もなければ、祝福の音楽もない。愛を誓う言葉さえ交わされない。
官吏の一人が、顔も上げずに
「おめでとうございます」
と口にした。その声には氷のような冷たさが宿っていて、ただマニュアルに従って発せられただけの音の羅列に聞こえた。
「ありがとうございます」
応じる私の声も、たぶん同じような温度だったはずだ。
隣に立つレオは、お祝いの言葉に眉一つ動かさず、何も言わなかった。
☆
翌朝、目を覚まして最初に感じたのは、昨日までと何も変わらない静寂だった。
屋敷の天井の色も、窓から差し込む光の角度も、廊下の向こうから聞こえてくる生活の音も。私の部屋は私の部屋のままで、引き出しの奥にはあの指輪が眠っている。
ただ一つ、屋敷の別の部屋に、昨日まではいなかった他人が一人増えた。
変わったのは、本当にそれだけだった。
ベッドから起き上がり、窓を勢いよく開け放つ。
入り込んできた冬の空気は刃のように鋭く、頬を切り裂くような冷たさに眠気が一瞬で吹き飛んだ。吐き出す息は真っ白で、風に煽られてはすぐに消えていく。
空は、抜けるような青。
雲一つない、透き通った冬の朝だ。
遠くの木立がざわめき、荒れた畑の先には領地を区切る古い石垣が白く浮かび上がっている。
(綺麗な朝……)
そう思った直後、心に冷めた声が響く。
(でも、綺麗な朝だからといって、何かが解決したわけじゃない)
着替えを済ませ、廊下に出た。
その瞬間、自分のものではない足音が聞こえてきた。重く、正確なリズムを刻む軍靴の響き。
私は反射的に足を止めた。
角を曲がったところで、レオと鉢合わせる。
彼はすでに、いつでも外へ飛び出せるような身なりを整えていた。黒い上着に、使い込まれた革ベルト。腰に剣こそ下げていないものの、その身のこなしは軍人そのものだ。
短く刈り込まれた髪に乱れはなく、寝起きの気配など微塵も感じさせない。
「おはようございます」
「ああ」
挨拶は、それで終わりだった。
彼は私の横を無造作に通り過ぎようとした。
私はその背中に、とっさに声をかける。




