明け星を砕きに
翠玉の森。草木は輝きを放ち、瑞々しい獣たちは人への警戒を出しもしない。宝石のような色彩は立ち入る者のいない楽園であることを示しており、そしてまた立ち入る者がいない事には理由がある。
森の奥には、魔人がいる。
魔人が呪い、人々を惑わせる。
そんな噂があった。
故に常人はそこに立ち入らず。そして噂を軽んじて立ち入った愚か者たちは皆一様に気を狂わせて戻った。
だからもって、その森に、人は居ない。
入り込もうとするものも、いなくなって久しい。
「…はッ、はぁッ…」
男がそこに逃げ込んだのは、だからだ。何かに追われ、その追手を振り切る為だけに森に足を踏み入れた存在。荒いだ短い息を繰り返し、そして尚、足取りは生に取り憑かれ、迷いは無かった。
「………」
ぼだぼだと、朝露に濡れた緑を赤く染め上げる足取りは、しかし中途で止まる。それは、意思に関わらず、ただ一歩も歩く余力も自分には無いと悟ったから。
男の巨大な人影は、そうして膝をつき蹲る。
その、瞬間。忽然と姿は消えて失せた。
違う。男の姿は変化したのだ。
見上げるような男の上背は、地を這う獣に。
漆黒の狼の、姿に。
(……)
その、始終を眺める者がいた。
恐れは、その眼に在った。
だがそれでも竦みはせず、それを、狼を観ていた。
それが敵か、味方か。害を成すか、吉兆か。
銀縁の眼鏡の奥から、ただじっと。
狼は目だけをぎょろりと動かし、ただ意識を失って倒れた。どれにせよ戦うことはもう出来なかった。
ならば目の前の者が、この、森の魔人が。自らの死だというならただそれでも仕方が無いと思った。
しかし少女は意を決して狼に向けて杖を振るう。そうしてざわめいた蔦は彼を小屋に招き入れた。
その狼は自らを喰らう存在ではない、と。
…払いすぎた代償は無い。
ならば喪失は、出会いの対価だった。
運命を掌る星を壊す、出会いの。
…
……
出会いから、幾時が経つ。
「おおーい」
くああ。
大きなあくびを、その声に呼ばれてする。
巨躯の男だった。
黒づくめの服を着て、あぐらをかいて座るその大きさはそれでも常人が見上げるよう。長めの髪を後ろに流し、前髪は目元を隠す。陰気で威圧的で、幽霊のような男。
あくびと共に、身体に止まった小鳥が一斉に飛び立った。男が名残惜しげにそれに手を伸ばした、瞬間のこと。
「おおい!何を惚けてる、馬鹿犬!」
先の呼んでいた声が、今度はけたたましい音になり彼を呼ぶ。男はうんざりと、微睡みの速度でその声に振り向いた。
「…そう、大声で呼ばなくても聞こえてる。俺を馬鹿犬などと言い間違える頭では判らんかもしれんが」
「おお。随分饒舌だこと。
ここに来た時の無口なお前が懐かしいよ」
声の主は、鈴を転がすような女性の声。
いいや、もっと正確には変声期前の少女の声。
銀縁の眼鏡の奥に覗くエメラルドグリーンの眼と、それに似合う灰色の髪は、肩まで無造作に伸ばしてある。後れ毛をさするように首を鳴らしているその格好は、身軽な半袖だ。
そしてその、整った顔立ちの奥底に、どうしようもない意地の悪さと、ねじくれた光が宿っている。
「だな。誰かさんのお陰ですっかり憎まれ口が上手くなってしまった」
「へえ?随分とひどい奴がいるもんだな。
僕の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいもんだ」
そう、くつくつと笑ってから。しゃがんだままの男に少女は手を差し伸べた。男はしかしそれを取ることなくむっつりと自力で立ち上がる。
「で、なんだ。呼び立てておいて、前みたいに用は別に無いなんてぬかしたら噛み付くぞ」
「用はあるよ。僕にとってもお前にとっても大事な用事さ、カリナ」
またぞろ何かのおつかいか。それともお前の護衛か、と。カリナと呼ばれた大男はそう返事をしようとして、そうしてから彼女の眼を見る。そしてぴくりと体を震わせて。それらを言うことをやめた。
「ようやく、か」
代わりにその短い言葉を、満足そうに口にした。
ようやく。その言葉のみで、少女も頷いた。
「ああ。ようやくさ。ようやく、『準備』は終わった。これまで色々、押し付けてすまなかったね。だけどそういう細々したお使いも雌伏も、もう終い。そうしてようやくだ。僕の人生は、ようやく始まるんだ」
「いや、それは訂正しろ。その言葉は……」
「!」
がぁん、がぁん、がぁん。
容赦の無い爆発音と火薬の匂いが会話を劈く。三発の銃声は、襲撃と殺意を露わにしていた。そしてそれを、片手で握り受け止めた男のまた、異常性をも示していた。
掌の内で回転して出来た銃弾の傷をべろりと太い舌で舐め取ってから、男は即座に脚に力を込める。すぅ、と深く息が吸われる音がした。
「…あんたへの来客のようだぞ、ルーチェ。
歓迎しなくていいのか?」
「礼儀知らずに歓迎は必要ないだろう。
追い出してしまってくれよ、カリナ」
「了解した」
どん。
その言葉が契機になったように、黒い風が駆ける。男は、カリナは背を極限まで沈めて、先に捕えた銃弾よりも疾く駆けた。
そうして刺客の元に着いた。しかして瞬間には次の元へ。ちぎり取られた喉を抑える敵を背に、更に次の刺客へ。
撃て撃て、と。
決して少なくない数の刺客が慌てたように幾度も銃を撃ち込む。が、パニックの最中のそれが当たるはずはない。
いや、正確には、ある者の銃弾はその大柄なカリナの身体を捉えたのだ。だがそれは全てすり抜けた。何故か?それを知った者は皆一様に、喉元を千切り失い果てた。
死ぬ寸前に見えた景色。
ぐるる、ぐぉう。
巨大な男が、黒狼に姿を変え喉笛を鳴らす姿。
そして、その血濡れた牙の色だった。
…
……
「水を差された気分だよ、ったく。記念すべき旅立ちの日くらいは空気を読んでほしいもんだ」
「なに。むしろ丁度いいだろう。
俺たちのこの旅の、狼煙にするにはな」
「お、いいねぇ。ポジティブに行くかい」
ルーチェと呼ばれた少女は、大きな荷を背負いはじめる。機能性を損なわない大きな荷物と、活発な装衣に、それらとは全く不釣り合いなような大きな、大きな杖。華美で過剰で、だからこそ魔術的な物。
「ああ、それと。さっき、何を訂正しろって?」
「あぁ…いや。大した事では、ない。
ただ一つ、変えてほしい所があっただけだ」
「へえ。どのように?」
「…僕の人生はこれから始まる、という所を。
『僕たち』の人生はここから始まるんだ、とな」
「ふふ、なるほど。なら、そのように」
そうして改めて、それを口にしようとした瞬間。カリナは跪き、先に怪我をした掌の血を用いて額に印を描いた。そういう準備をする姿を、ルーチェは辟易するように眺めた。
「…それ、毎回やるのか?まったく、律儀なものだ」
「我が一族の、なんだ。守らねばならない約束のようなものだ。だから、邪険にしないでくれると助かる」
「それがもうお前しか…カリナしか生き残ってない、滅びた一族の約定だとしても?」
「だからこそだ。分からないかもしれないが」
「…いいや、わかるよ。残ったものこそ大切にしたい気持ちはね。…今お前に、意味のない事をやめろと言うのは、子以外の全てを失った母にその子も捨ててしまえ、と言うようなものだ」
「…その例えは俺にはよくわからないが…」
悟ったように語る少女を、何をさかしらげに、と衒う大人は居ない。代わりに響く音は、ぱちぱちと燃え盛る木の音。そして代わりに続く言葉は、誰にも捧げる当てのない、狼の約定と、制約のみ。
「さあ、誓約を。
俺は、俺の復讐にあんたを利用する。そして…」
「ああ。代わりにお前は僕の復讐に、力を貸す。
僕の運命への復讐に。『八つ星』の破壊に、だ」
「そうだ。俺の人生は、一度終わった。
あの時、あの日に。だから、俺の…」
「いいや。
俺たちの人生は、今から始まるんだ」
ごう。
風が吹いて一際大きく燃え上がる家宅。二度と戻らない為にと、刺客の人間の脂を燃料に燃やし尽くされていく緑玉の森は、ひどく痛々しい。
警戒心を忘れた獣達はその身を焼き焦がして死んでいく。魔人たちにとってその光景はつまり、望ましいものだった。
ルーチェが、杖を振るう。
瞬間、見えない手に押し除けられるように、炎の手と茨蔓は一斉に視界を開けて道を作った。
「棘と炎熱の道か。僕らの旅の始まりには丁度いいなぁ?まさしく、ぴったりだ。くだらなく、厭世的で、無意味で破滅的な、復讐の旅路に」
ぎしり、ルーチェが笑う。
カリナはそれを見てにこりともせず。
ただ静かに狼の姿になった。そうして口を開ける。
「さあ、やろう。
その為になら俺はあんたの。魔人の、狗になろう」
「ならば僕は、お前の導き手になってやる」
どすり。
黒狼の背に乗る魔女。
一瞬、非難の目を向けて、しかし首を横に振るう。
そうして、炭を背にして走り出した。
その燃え消える黒色をも、ただ振り払うように。
「行こう。明け星を砕きに」
そうして黒影が駆けた。闇に向かって、駆ける。
…
……
かくして彼らの人生は再び始まった。
彼らが望む復讐は、異なるもの。
魔人、ルーチェは英雄の持つ星を砕くことを望み。
そして半狼、カリナは故郷の仇を食い千切る為に。
魔人と狼は、運命を呪い出す。




