表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

「婚約破棄、お受けいたします」——地味な板前見習いは老舗料亭の一人娘でした。レシピを奪おうとした元婚約者様、著作権と土地の権利書をご存知ですか?

作者: マイコ

「お前との婚約は破棄する」


金曜の夜、満席の店内にその言葉が響き渡った。


(あ、来た来た。ようやくこの展開か)


私、柊真白は包丁を置いて顔を上げた。カウンター越しに立つ黒沢大輝——私の婚約者であり、この居酒屋「月うさぎ」の店長を名乗る男が、勝ち誇った顔でこちらを見下ろしている。


「……お客様の前で、ですか?」


「ああ、そうだ。お前みたいな地味で料理の才能もない女とは結婚できない。俺には本当に愛する人ができたんだ」


大輝の視線が厨房の奥へ向かう。そこには巻き髪をふわりと揺らし、ブランドロゴが目立つエプロンをつけた藤堂美咲が立っていた。


入店してまだ三ヶ月の新人バイト。接客中もスマホをいじり、仕込みはサボり、でも大輝の前では猫撫で声を出す女。


「大輝さぁん、真白さんかわいそう〜」


美咲がわざとらしく声を上げる。その目は全然かわいそうだなんて思っていない。むしろ「ざまあみろ」と雄弁に語っていた。


(いや、その演技力で女優目指したほうがいいんじゃない? え、目指してない? そう……)


「俺たち、本気で愛し合ってるんだ」


大輝が美咲の肩を抱き寄せる。常連客たちが凍りついたようにこちらを見ていた。いつも隅のカウンター席で静かに酒を飲んでいる白髪の老紳士——鷹村さんも、箸を止めてこちらを見ている。


「それで、真白。これにサインしろ」


大輝がカウンターに紙を叩きつけた。


退職届。


「お前はクビだ。明日から来なくていい。ああ、それと——」


大輝が厨房の棚から一冊のノートを取り出した。


私のレシピノート。三年間、毎日書き続けた創作料理の記録。母から受け継いだ出汁の取り方から始まり、この店のメニューの八割は私が考案したものだ。


「これは置いていけ。俺が考えたレシピなんだからな」


(……は?)


「美咲と二人で新しい店を出すんだ。このレシピがあれば問題ない」


(いやいやいやいや。ちょっと待って? それ、私が三年かけて書いたやつなんだけど? 君、出汁の取り方すら知らないよね? この前「顆粒でいいじゃん」って言ってたよね?)


「……」


「何だよ、その目は。文句があるなら言ってみろ」


大輝が顎を上げる。その顔には確信があった。私が泣きながら縋りつくか、黙って出ていくか。そのどちらかだと思っている顔。


三年間、ずっとこうだった。


私の料理を自分の手柄にし、私を「地味で才能がない」と貶め、それでも私が黙って従うと思っていた。


——甘いんだよ。


私は静かに息を吸った。


「婚約破棄、お受けいたします」


「……は?」


「ですが、いくつか確認させてください」


束ねていた髪を解く。化粧気のない顔を上げて、真っ直ぐに大輝を見据えた。


「え……」


美咲が小さく声を漏らす。常連客の誰かが息を呑んだ。


(あれ、なんで皆そんな顔してるの? 私、そんな変な顔してた?)


「ま、真白……? お前、そんな顔だったか……?」


「失礼ですね。三年も一緒にいて気づかなかったんですか?」


私は大輝の手からレシピノートを取り返した。


「さて、確認事項ですが——」


ノートを開き、最初のページを見せる。


「このノートの全ページには、私の署名入りの日付が記載されています。そして——」


エプロンのポケットからスマートフォンを取り出し、一枚の画像を表示させた。


「この公正証書のコピー、ご存知ですか?」


「こ、公正証書……?」


「ええ。このレシピノートの著作権が私にあることを証明する書類です。原本は弁護士の氷室蓮——私の幼馴染に預けてあります」


大輝の顔から血の気が引いていく。


「無断使用された場合は、法的措置を取らせていただきますね」


にっこり笑って、私はノートを胸に抱えた。


「そ、そんな……嘘だ……」


「嘘だと思うなら、どうぞ使ってみてください。氷室法律事務所から内容証明が届きますので」


美咲が大輝の腕を掴んだ。


「だ、大輝さん、どういうこと? レシピは大輝さんが考えたんじゃ——」


「う、うるさい!」


大輝が美咲を振り払う。その顔は真っ赤になっていた。


「い、いいさ! レシピなんかなくても、俺の腕があれば——」


「あら、そうですか」


私は退職届を手に取り、ゆっくりとサインをした。


「では、もう一つ確認事項が」


「な、何だよ……」


「この店の土地と建物、誰の所有かご存知ですか?」


「……は?」


「黒沢さん、あなたは賃借人ですよね。家賃を毎月どこに振り込んでいるか、確認されたことは?」


大輝の顔が凍りついた。


「ま、まさか……」


「ええ。所有者は——私の父、柊清一郎です」


店内がざわめく。「柊」の名前を知っている人がいたのだろう。老舗料亭「柊」。知る人ぞ知る、業界では有名な名店。


「あなたが婚約破棄をされるのは自由ですが、この土地建物は来月末までに明け渡していただきます。契約書の第七条、ご確認ください」


「そ、そんな……待ってくれ……俺は……」


「待ちません」


私は静かに、でもはっきりと言い切った。


「三年間、あなたに付き合う必要があったのは修行のためです。もう十分学びましたので」


エプロンを外し、きれいに畳んでカウンターに置く。


「退去届、書いていただけますか?」


大輝は何も言えずに立ち尽くしていた。美咲は青い顔で後ずさりしている。


「お、お前……何者なんだ……」


「申し遅れました」


私は三年ぶりに、母から受け継いだ笑顔を浮かべた。


「柊料亭の一人娘、柊真白と申します。以後お見知りおきを——いえ、もうお会いすることはないでしょうけれど」


カウンターの隅で、鷹村さんが小さく笑った気がした。


(あ、やば。ちょっとカッコつけすぎたかも。いやでも、三年我慢したんだからこれくらい許されるよね?)


「では、三年間お世話になりました」


私は荷物をまとめ、店を出る準備をした。


「ま、待て! 真白! 話し合おう! 俺が悪かった!」


「結構です」


振り返らずに答える。


「私、もう次の予定がありますので」


スマートフォンが震えた。画面には「蓮」の文字。


『店の前にいる。終わったか?』


(相変わらず仕事が早いなぁ、幼馴染は)


「さようなら、黒沢さん。どうぞ美咲さんとお幸せに」


私は笑顔で店を出た。


外には黒いコートの長身の男が立っていた。銀縁眼鏡の奥、切れ長の目が微かに緩む。


「遅かったな」


「三年もかかっちゃった」


「知ってる。ずっと見てた」


氷室蓮——私の幼馴染にして、敏腕弁護士。そして、レシピノートの公正証書を預かってくれた恩人。


「次は何をする?」


蓮が当然のように聞いてきた。


「決まってるでしょ」


私は冷たい夜風の中、小さく笑った。


「自分の店を開く。——『白月』って名前、どうかな」


蓮の目が、眼鏡の奥で静かに輝いた。


「いい名前だ。予約第一号は俺がもらう」


「はいはい、毎日来るつもりでしょ」


「当然だ」


——これは、私が自分の足で歩き始める物語。


婚約破棄? 上等だよ。


(だって私、ずっとこの日を待ってたんだから)



◇ ◇ ◇



婚約破棄から三日後。


私は実家の料亭「柊」の離れで、改装計画の図面と睨めっこしていた。


「真白様、お客様がお見えです」


女将見習いの子が告げる。


「お客様? 今日は誰とも約束して——」


「鷹村総一郎様、とおっしゃっておいでです」


——え。


あの「月うさぎ」の常連客の老紳士?


「……お通しして」


数分後、白髪に白髭、上質だが派手さのない服を着た老人が現れた。穏やかな笑みを浮かべて、ゆっくりと頭を下げる。


「突然の訪問、失礼いたします。先日は見事な啖呵を聞かせていただいた」


「あ、いえ、あの、恥ずかしいところを……」


「恥ずかしい? とんでもない」


鷹村さんが目を細めた。


「三年間、あの男の下で耐え続けた忍耐力。周到に準備された証拠の数々。そして何より——あの状況でも乱れなかった、あなたの料理人としての矜持」


「……鷹村さん?」


「失礼。自己紹介がまだでしたな」


老人は懐から一枚の名刺を取り出した。


『グルメ評論家 白鷹 鷹村総一郎』


——白鷹。


(……嘘でしょ?)


業界で知らない人はいない。彼が褒めた店は必ず繁盛し、彼が批判した店は閉店に追い込まれる。


「しら、たか……さん……」


「十年前、あなたのお母上の料理を食べたことがある」


鷹村さん——白鷹は、遠い目をした。


「柊雪乃。天才という言葉が陳腐に思えるほどの料理人だった。——あなたの料理には、彼女と同じ香りがする」


私は言葉を失った。


「あの居酒屋で、あなたの料理だけを目当てに通い続けた。店長の男が作るものは食べるに値しなかったが、あなたの小鉢、あなたの出汁、あなたの煮物——どれも一級品だった」


「……知って、いらしたんですか」


「もちろん。本物は隠しても光る」


白鷹は穏やかに笑った。


「新しい店を開くと聞いた。——『白月』」


「どうして……」


「氷室弁護士とは、少々縁があってね」


(蓮……! なんで言うの……!)


「開店の暁には、私のコラムで紹介させていただきたい」


「え……」


「条件がある」


白鷹の目が鋭くなった。


「あなた自身の料理を出すこと。お母上の模倣ではなく、柊真白としての味を」


心臓が跳ねた。


母の味を継ぐこと。それだけを考えて料理を学んできた。でも——


『あなたの舌は私の宝物。いつか、あなただけの味を見つけなさい』


母の最期の言葉が蘇る。


「……わかりました」


私は頭を下げた。


「必ず、私だけの料理をお見せします」


「楽しみにしている」


白鷹は満足そうに頷いた。


「それと——」


立ち上がりながら、彼は意味ありげな笑みを浮かべた。


「氷室くんは、いい男だよ」


「……は?」


「では、また」


(い、今のどういう意味……?)


老人は飄々と去っていった。


残された私は、しばらく固まったままだった。


——その夜。


「白鷹が来たって?」


蓮が電話越しに驚いた声を出した。珍しく感情が表に出ている。


「なんで蓮、白鷹さんと知り合いなの……」


「父さんの関係。昔、法律問題で相談されたことがある」


「そう……」


「真白」


「ん?」


「白鷹が動いたってことは、本気で期待されてるってことだ。——やれるな?」


電話越しでも、蓮の真剣な声が伝わってくる。


(……なんか、すごく近くにいる感じがする)


「当然」


私は窓の外、月を見上げながら答えた。


「三年間、ずっと準備してきたんだから」


「……俺もずっと、見てきた」


小さな呟きが聞こえた気がした。


「蓮? 何か言った?」


「いや。——おやすみ、真白」


電話が切れる。


(……なんだったんだろ、今の)


心臓が少しだけ早く打っていることに、私は気づかないふりをした。



◇ ◇ ◇



「白月」開店まであと一週間。


離れの改装は順調に進んでいた。カウンター八席だけの、小さな完全予約制の店。母が愛した和の意匠を取り入れながら、私なりのモダンさを加えた内装。


「真白」


父の声に振り返る。


柊清一郎。白髪交じりの髪を丁寧に整え、和服が似合う品格のある男性。寡黙で厳格——と思われがちだが、実際は娘を溺愛する親バカである。


(こっそり「月うさぎ」の土地建物を買ってたのもこの人だしね……)


「何、父さん」


「これを」


父が差し出したのは、古びた桐の箱だった。


「……これ」


「雪乃が使っていた包丁だ。お前に渡すようにと、遺言があった」


箱を開ける。


銀色の刃が、静かに光を放っていた。


「母さんの……」


「十五で修行に出ると言った時、まだ早いと思った」


父は窓の外を見つめた。


「だが——お前は雪乃と同じ目をしていた。自分の道を行くと決めた、あの目を」


「……」


「三年間、よく耐えた」


父の手が、私の頭に乗せられた。


「もう、誰かの下で働く必要はない。——柊真白として、羽ばたけ」


涙が込み上げてきた。


三年間、ずっと一人で戦ってきたと思っていた。でも、違った。父はずっと見守ってくれていた。蓮も、白鷹さんも。


「……ありがとう、父さん」


「礼はいい。——蓮くんを、いつ連れてくる?」


「は?」


「あの子とは幼い頃から知っているが、最近の目つきは尋常ではないぞ。お前を見る目が」


「え、ちょ、何言って——」


「私は構わん。むしろ歓迎だ」


「だから何の話——」


父は珍しく笑みを浮かべて、静かに去っていった。


(……なんなの、最近の周りの人たち)


包丁を握る。


母の温もりが、まだ残っている気がした。


『いつか、あなただけの味を見つけなさい』


「——見つけるよ、母さん」


窓から差し込む夕日が、包丁の刃に反射した。


新しい物語が、始まろうとしていた。



◇ ◇ ◇



「白月」開店初日。


完全予約制の八席は、すでに三ヶ月先まで埋まっていた。白鷹の名前は出していない。それでも、口コミだけでこれだ。


(蓮が片っ端から予約入れてるの、半分くらい占めてない……?)


最初の客を迎える。


「いらっしゃいませ」


カウンターの向こうに立つ。母から受け継いだ包丁を握る。


——今日から、私は「柊真白」として歩き始める。


誰かの下で働く見習いじゃない。誰かに才能を奪われる地味な女じゃない。


私は、私の料理を作る。


「本日のおまかせ、始めさせていただきます」


最初の一品は、母直伝の出汁を使った椀物。


でも、そこに加えたのは私だけのアレンジ。三年間、あの居酒屋で試行錯誤した経験。大輝に馬鹿にされながらも、毎日ノートに書き続けた創作の数々。


全部、この一椀に込めた。


客が一口啜る。


「……美味い」


目を見開いて、もう一口。


「これは……柊料亭の味に、何か新しいものが……」


(——やった)


心の中でガッツポーズ。外面は涼しい顔で「ありがとうございます」と微笑む。


(三年間、無駄じゃなかった)


カウンターの隅に、見慣れた姿があった。


銀縁眼鏡、きっちりとしたスーツ、切れ長の目。


氷室蓮。予約第一号を宣言した通り、開店初日に来ている。


「……」


彼は黙って椀物を啜った。


そして、小さく笑った。


「合格だ」


「何様のつもり」


「お前の料理を一番長く食べてきた人間として」


蓮の目が、眼鏡の奥で柔らかく光った。


「——最高だよ、真白」


心臓が跳ねた。


(な、なんで今日に限ってそういうこと言うの……!)


「あ、ありがと……」


顔が熱い。カウンター越しに視線が絡む。


「真白」


「な、何」


「今度、二人で食事に行かないか」


「……は?」


「客としてじゃなく」


蓮の目が真剣だった。


「俺は——」


その時、店の電話が鳴った。


「ちょ、ちょっと待って——!」


(タイミング……!)


電話に出る。


「はい、白月です」


『真白ちゃん……俺だ』


——この声。


「……黒沢さん?」


蓮の目が鋭くなった。


『頼む、話を聞いてくれ。俺、全部失ったんだ。美咲にも逃げられて、店も営業停止になって——やり直してくれないか』


(……はぁ)


「お断りします」


『待ってくれ! 俺はお前のことを——』


「黒沢さん」


静かに、でもはっきりと言い切った。


「私、今とても幸せなので」


電話越しに息を呑む音が聞こえた。


「お気持ちだけ頂戴しておきますね。——お元気で」


電話を切る。


振り返ると、蓮が複雑な顔をしていた。


「……あの男か」


「うん。営業停止になったんだって」


「知ってる。衛生管理の問題だ。——俺が匿名で通報した」


「……蓮」


「何か文句あるか」


「ない」


思わず笑ってしまった。


「ありがとう」


「……礼を言われることじゃない。あいつがお前にしたこと、全部見てきた。俺はずっと——」


蓮が言葉を切る。


「……ずっと?」


「何でもない」


眼鏡を押し上げて、視線を逸らす蓮。耳が少し赤い。


(……かわいいな、この幼馴染)


ふと、母の言葉を思い出した。


『いつか、あなただけの味を見つけなさい』


——見つけたよ、母さん。


私だけの料理と、私だけの場所と。


そして多分——私だけの、大切な人。


「蓮」


「何だ」


「さっきの続き、聞かせて」


蓮が目を見開いた。


「今度、二人で食事に行こう。——客としてじゃなく」


蓮の顔が、ゆっくりと綻んだ。


「……ああ」


カウンター越しに、視線が絡み合う。


月明かりが、小さな店を静かに照らしていた。


——これは、私が自分の足で歩き始める物語。


婚約破棄から始まった、私だけの幸せへの道。


まだ始まったばかりだ。


(でも、きっと——最高の味になる)


私は笑って、次の料理に取りかかった。


「白月」の夜は、まだ始まったばかり。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ