「婚約破棄、お受けいたします」——地味な板前見習いは老舗料亭の一人娘でした。レシピを奪おうとした元婚約者様、著作権と土地の権利書をご存知ですか?
「お前との婚約は破棄する」
金曜の夜、満席の店内にその言葉が響き渡った。
(あ、来た来た。ようやくこの展開か)
私、柊真白は包丁を置いて顔を上げた。カウンター越しに立つ黒沢大輝——私の婚約者であり、この居酒屋「月うさぎ」の店長を名乗る男が、勝ち誇った顔でこちらを見下ろしている。
「……お客様の前で、ですか?」
「ああ、そうだ。お前みたいな地味で料理の才能もない女とは結婚できない。俺には本当に愛する人ができたんだ」
大輝の視線が厨房の奥へ向かう。そこには巻き髪をふわりと揺らし、ブランドロゴが目立つエプロンをつけた藤堂美咲が立っていた。
入店してまだ三ヶ月の新人バイト。接客中もスマホをいじり、仕込みはサボり、でも大輝の前では猫撫で声を出す女。
「大輝さぁん、真白さんかわいそう〜」
美咲がわざとらしく声を上げる。その目は全然かわいそうだなんて思っていない。むしろ「ざまあみろ」と雄弁に語っていた。
(いや、その演技力で女優目指したほうがいいんじゃない? え、目指してない? そう……)
「俺たち、本気で愛し合ってるんだ」
大輝が美咲の肩を抱き寄せる。常連客たちが凍りついたようにこちらを見ていた。いつも隅のカウンター席で静かに酒を飲んでいる白髪の老紳士——鷹村さんも、箸を止めてこちらを見ている。
「それで、真白。これにサインしろ」
大輝がカウンターに紙を叩きつけた。
退職届。
「お前はクビだ。明日から来なくていい。ああ、それと——」
大輝が厨房の棚から一冊のノートを取り出した。
私のレシピノート。三年間、毎日書き続けた創作料理の記録。母から受け継いだ出汁の取り方から始まり、この店のメニューの八割は私が考案したものだ。
「これは置いていけ。俺が考えたレシピなんだからな」
(……は?)
「美咲と二人で新しい店を出すんだ。このレシピがあれば問題ない」
(いやいやいやいや。ちょっと待って? それ、私が三年かけて書いたやつなんだけど? 君、出汁の取り方すら知らないよね? この前「顆粒でいいじゃん」って言ってたよね?)
「……」
「何だよ、その目は。文句があるなら言ってみろ」
大輝が顎を上げる。その顔には確信があった。私が泣きながら縋りつくか、黙って出ていくか。そのどちらかだと思っている顔。
三年間、ずっとこうだった。
私の料理を自分の手柄にし、私を「地味で才能がない」と貶め、それでも私が黙って従うと思っていた。
——甘いんだよ。
私は静かに息を吸った。
「婚約破棄、お受けいたします」
「……は?」
「ですが、いくつか確認させてください」
束ねていた髪を解く。化粧気のない顔を上げて、真っ直ぐに大輝を見据えた。
「え……」
美咲が小さく声を漏らす。常連客の誰かが息を呑んだ。
(あれ、なんで皆そんな顔してるの? 私、そんな変な顔してた?)
「ま、真白……? お前、そんな顔だったか……?」
「失礼ですね。三年も一緒にいて気づかなかったんですか?」
私は大輝の手からレシピノートを取り返した。
「さて、確認事項ですが——」
ノートを開き、最初のページを見せる。
「このノートの全ページには、私の署名入りの日付が記載されています。そして——」
エプロンのポケットからスマートフォンを取り出し、一枚の画像を表示させた。
「この公正証書のコピー、ご存知ですか?」
「こ、公正証書……?」
「ええ。このレシピノートの著作権が私にあることを証明する書類です。原本は弁護士の氷室蓮——私の幼馴染に預けてあります」
大輝の顔から血の気が引いていく。
「無断使用された場合は、法的措置を取らせていただきますね」
にっこり笑って、私はノートを胸に抱えた。
「そ、そんな……嘘だ……」
「嘘だと思うなら、どうぞ使ってみてください。氷室法律事務所から内容証明が届きますので」
美咲が大輝の腕を掴んだ。
「だ、大輝さん、どういうこと? レシピは大輝さんが考えたんじゃ——」
「う、うるさい!」
大輝が美咲を振り払う。その顔は真っ赤になっていた。
「い、いいさ! レシピなんかなくても、俺の腕があれば——」
「あら、そうですか」
私は退職届を手に取り、ゆっくりとサインをした。
「では、もう一つ確認事項が」
「な、何だよ……」
「この店の土地と建物、誰の所有かご存知ですか?」
「……は?」
「黒沢さん、あなたは賃借人ですよね。家賃を毎月どこに振り込んでいるか、確認されたことは?」
大輝の顔が凍りついた。
「ま、まさか……」
「ええ。所有者は——私の父、柊清一郎です」
店内がざわめく。「柊」の名前を知っている人がいたのだろう。老舗料亭「柊」。知る人ぞ知る、業界では有名な名店。
「あなたが婚約破棄をされるのは自由ですが、この土地建物は来月末までに明け渡していただきます。契約書の第七条、ご確認ください」
「そ、そんな……待ってくれ……俺は……」
「待ちません」
私は静かに、でもはっきりと言い切った。
「三年間、あなたに付き合う必要があったのは修行のためです。もう十分学びましたので」
エプロンを外し、きれいに畳んでカウンターに置く。
「退去届、書いていただけますか?」
大輝は何も言えずに立ち尽くしていた。美咲は青い顔で後ずさりしている。
「お、お前……何者なんだ……」
「申し遅れました」
私は三年ぶりに、母から受け継いだ笑顔を浮かべた。
「柊料亭の一人娘、柊真白と申します。以後お見知りおきを——いえ、もうお会いすることはないでしょうけれど」
カウンターの隅で、鷹村さんが小さく笑った気がした。
(あ、やば。ちょっとカッコつけすぎたかも。いやでも、三年我慢したんだからこれくらい許されるよね?)
「では、三年間お世話になりました」
私は荷物をまとめ、店を出る準備をした。
「ま、待て! 真白! 話し合おう! 俺が悪かった!」
「結構です」
振り返らずに答える。
「私、もう次の予定がありますので」
スマートフォンが震えた。画面には「蓮」の文字。
『店の前にいる。終わったか?』
(相変わらず仕事が早いなぁ、幼馴染は)
「さようなら、黒沢さん。どうぞ美咲さんとお幸せに」
私は笑顔で店を出た。
外には黒いコートの長身の男が立っていた。銀縁眼鏡の奥、切れ長の目が微かに緩む。
「遅かったな」
「三年もかかっちゃった」
「知ってる。ずっと見てた」
氷室蓮——私の幼馴染にして、敏腕弁護士。そして、レシピノートの公正証書を預かってくれた恩人。
「次は何をする?」
蓮が当然のように聞いてきた。
「決まってるでしょ」
私は冷たい夜風の中、小さく笑った。
「自分の店を開く。——『白月』って名前、どうかな」
蓮の目が、眼鏡の奥で静かに輝いた。
「いい名前だ。予約第一号は俺がもらう」
「はいはい、毎日来るつもりでしょ」
「当然だ」
——これは、私が自分の足で歩き始める物語。
婚約破棄? 上等だよ。
(だって私、ずっとこの日を待ってたんだから)
◇ ◇ ◇
婚約破棄から三日後。
私は実家の料亭「柊」の離れで、改装計画の図面と睨めっこしていた。
「真白様、お客様がお見えです」
女将見習いの子が告げる。
「お客様? 今日は誰とも約束して——」
「鷹村総一郎様、とおっしゃっておいでです」
——え。
あの「月うさぎ」の常連客の老紳士?
「……お通しして」
数分後、白髪に白髭、上質だが派手さのない服を着た老人が現れた。穏やかな笑みを浮かべて、ゆっくりと頭を下げる。
「突然の訪問、失礼いたします。先日は見事な啖呵を聞かせていただいた」
「あ、いえ、あの、恥ずかしいところを……」
「恥ずかしい? とんでもない」
鷹村さんが目を細めた。
「三年間、あの男の下で耐え続けた忍耐力。周到に準備された証拠の数々。そして何より——あの状況でも乱れなかった、あなたの料理人としての矜持」
「……鷹村さん?」
「失礼。自己紹介がまだでしたな」
老人は懐から一枚の名刺を取り出した。
『グルメ評論家 白鷹 鷹村総一郎』
——白鷹。
(……嘘でしょ?)
業界で知らない人はいない。彼が褒めた店は必ず繁盛し、彼が批判した店は閉店に追い込まれる。
「しら、たか……さん……」
「十年前、あなたのお母上の料理を食べたことがある」
鷹村さん——白鷹は、遠い目をした。
「柊雪乃。天才という言葉が陳腐に思えるほどの料理人だった。——あなたの料理には、彼女と同じ香りがする」
私は言葉を失った。
「あの居酒屋で、あなたの料理だけを目当てに通い続けた。店長の男が作るものは食べるに値しなかったが、あなたの小鉢、あなたの出汁、あなたの煮物——どれも一級品だった」
「……知って、いらしたんですか」
「もちろん。本物は隠しても光る」
白鷹は穏やかに笑った。
「新しい店を開くと聞いた。——『白月』」
「どうして……」
「氷室弁護士とは、少々縁があってね」
(蓮……! なんで言うの……!)
「開店の暁には、私のコラムで紹介させていただきたい」
「え……」
「条件がある」
白鷹の目が鋭くなった。
「あなた自身の料理を出すこと。お母上の模倣ではなく、柊真白としての味を」
心臓が跳ねた。
母の味を継ぐこと。それだけを考えて料理を学んできた。でも——
『あなたの舌は私の宝物。いつか、あなただけの味を見つけなさい』
母の最期の言葉が蘇る。
「……わかりました」
私は頭を下げた。
「必ず、私だけの料理をお見せします」
「楽しみにしている」
白鷹は満足そうに頷いた。
「それと——」
立ち上がりながら、彼は意味ありげな笑みを浮かべた。
「氷室くんは、いい男だよ」
「……は?」
「では、また」
(い、今のどういう意味……?)
老人は飄々と去っていった。
残された私は、しばらく固まったままだった。
——その夜。
「白鷹が来たって?」
蓮が電話越しに驚いた声を出した。珍しく感情が表に出ている。
「なんで蓮、白鷹さんと知り合いなの……」
「父さんの関係。昔、法律問題で相談されたことがある」
「そう……」
「真白」
「ん?」
「白鷹が動いたってことは、本気で期待されてるってことだ。——やれるな?」
電話越しでも、蓮の真剣な声が伝わってくる。
(……なんか、すごく近くにいる感じがする)
「当然」
私は窓の外、月を見上げながら答えた。
「三年間、ずっと準備してきたんだから」
「……俺もずっと、見てきた」
小さな呟きが聞こえた気がした。
「蓮? 何か言った?」
「いや。——おやすみ、真白」
電話が切れる。
(……なんだったんだろ、今の)
心臓が少しだけ早く打っていることに、私は気づかないふりをした。
◇ ◇ ◇
「白月」開店まであと一週間。
離れの改装は順調に進んでいた。カウンター八席だけの、小さな完全予約制の店。母が愛した和の意匠を取り入れながら、私なりのモダンさを加えた内装。
「真白」
父の声に振り返る。
柊清一郎。白髪交じりの髪を丁寧に整え、和服が似合う品格のある男性。寡黙で厳格——と思われがちだが、実際は娘を溺愛する親バカである。
(こっそり「月うさぎ」の土地建物を買ってたのもこの人だしね……)
「何、父さん」
「これを」
父が差し出したのは、古びた桐の箱だった。
「……これ」
「雪乃が使っていた包丁だ。お前に渡すようにと、遺言があった」
箱を開ける。
銀色の刃が、静かに光を放っていた。
「母さんの……」
「十五で修行に出ると言った時、まだ早いと思った」
父は窓の外を見つめた。
「だが——お前は雪乃と同じ目をしていた。自分の道を行くと決めた、あの目を」
「……」
「三年間、よく耐えた」
父の手が、私の頭に乗せられた。
「もう、誰かの下で働く必要はない。——柊真白として、羽ばたけ」
涙が込み上げてきた。
三年間、ずっと一人で戦ってきたと思っていた。でも、違った。父はずっと見守ってくれていた。蓮も、白鷹さんも。
「……ありがとう、父さん」
「礼はいい。——蓮くんを、いつ連れてくる?」
「は?」
「あの子とは幼い頃から知っているが、最近の目つきは尋常ではないぞ。お前を見る目が」
「え、ちょ、何言って——」
「私は構わん。むしろ歓迎だ」
「だから何の話——」
父は珍しく笑みを浮かべて、静かに去っていった。
(……なんなの、最近の周りの人たち)
包丁を握る。
母の温もりが、まだ残っている気がした。
『いつか、あなただけの味を見つけなさい』
「——見つけるよ、母さん」
窓から差し込む夕日が、包丁の刃に反射した。
新しい物語が、始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
「白月」開店初日。
完全予約制の八席は、すでに三ヶ月先まで埋まっていた。白鷹の名前は出していない。それでも、口コミだけでこれだ。
(蓮が片っ端から予約入れてるの、半分くらい占めてない……?)
最初の客を迎える。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうに立つ。母から受け継いだ包丁を握る。
——今日から、私は「柊真白」として歩き始める。
誰かの下で働く見習いじゃない。誰かに才能を奪われる地味な女じゃない。
私は、私の料理を作る。
「本日のおまかせ、始めさせていただきます」
最初の一品は、母直伝の出汁を使った椀物。
でも、そこに加えたのは私だけのアレンジ。三年間、あの居酒屋で試行錯誤した経験。大輝に馬鹿にされながらも、毎日ノートに書き続けた創作の数々。
全部、この一椀に込めた。
客が一口啜る。
「……美味い」
目を見開いて、もう一口。
「これは……柊料亭の味に、何か新しいものが……」
(——やった)
心の中でガッツポーズ。外面は涼しい顔で「ありがとうございます」と微笑む。
(三年間、無駄じゃなかった)
カウンターの隅に、見慣れた姿があった。
銀縁眼鏡、きっちりとしたスーツ、切れ長の目。
氷室蓮。予約第一号を宣言した通り、開店初日に来ている。
「……」
彼は黙って椀物を啜った。
そして、小さく笑った。
「合格だ」
「何様のつもり」
「お前の料理を一番長く食べてきた人間として」
蓮の目が、眼鏡の奥で柔らかく光った。
「——最高だよ、真白」
心臓が跳ねた。
(な、なんで今日に限ってそういうこと言うの……!)
「あ、ありがと……」
顔が熱い。カウンター越しに視線が絡む。
「真白」
「な、何」
「今度、二人で食事に行かないか」
「……は?」
「客としてじゃなく」
蓮の目が真剣だった。
「俺は——」
その時、店の電話が鳴った。
「ちょ、ちょっと待って——!」
(タイミング……!)
電話に出る。
「はい、白月です」
『真白ちゃん……俺だ』
——この声。
「……黒沢さん?」
蓮の目が鋭くなった。
『頼む、話を聞いてくれ。俺、全部失ったんだ。美咲にも逃げられて、店も営業停止になって——やり直してくれないか』
(……はぁ)
「お断りします」
『待ってくれ! 俺はお前のことを——』
「黒沢さん」
静かに、でもはっきりと言い切った。
「私、今とても幸せなので」
電話越しに息を呑む音が聞こえた。
「お気持ちだけ頂戴しておきますね。——お元気で」
電話を切る。
振り返ると、蓮が複雑な顔をしていた。
「……あの男か」
「うん。営業停止になったんだって」
「知ってる。衛生管理の問題だ。——俺が匿名で通報した」
「……蓮」
「何か文句あるか」
「ない」
思わず笑ってしまった。
「ありがとう」
「……礼を言われることじゃない。あいつがお前にしたこと、全部見てきた。俺はずっと——」
蓮が言葉を切る。
「……ずっと?」
「何でもない」
眼鏡を押し上げて、視線を逸らす蓮。耳が少し赤い。
(……かわいいな、この幼馴染)
ふと、母の言葉を思い出した。
『いつか、あなただけの味を見つけなさい』
——見つけたよ、母さん。
私だけの料理と、私だけの場所と。
そして多分——私だけの、大切な人。
「蓮」
「何だ」
「さっきの続き、聞かせて」
蓮が目を見開いた。
「今度、二人で食事に行こう。——客としてじゃなく」
蓮の顔が、ゆっくりと綻んだ。
「……ああ」
カウンター越しに、視線が絡み合う。
月明かりが、小さな店を静かに照らしていた。
——これは、私が自分の足で歩き始める物語。
婚約破棄から始まった、私だけの幸せへの道。
まだ始まったばかりだ。
(でも、きっと——最高の味になる)
私は笑って、次の料理に取りかかった。
「白月」の夜は、まだ始まったばかり。




