完璧な完全試合
カメラは、少し低い位置から回っている。
男は屈んで三脚を調整し、レンズの角度を確かめると、背を向けて一歩下がった。
背中には、球団のエースナンバー。そして、その上にはローマ字で○○と縫い付けられてある。
画面の中で立ち上がった彼は、異様なほど大きい。二メートルに届こうかという長身に、ユニフォームの上からでも、鍛え上げられた肉体がわかる。
ポツポツと、雨の音が聞こえ始めた。
「……私は、この身体の本当の持ち主ではありません」
男は、少しだけ掠れた声でそう言った。
「私は、過去へ遡るようにして、彼の人生をやり直してきたのです」
そして、その者は語り始めた。
*
私には、世界で一番愛した人がいました。
投手として恵まれた体格、生まれ持った才能。甲子園で伝説を作り、鳴り物入りで入団し、高卒ルーキーから素晴らしい活躍を見せた。
彼の才能は、彼がただの二十歳の青年にすぎないという事実すら忘れさせるほどでした。高卒一年目から続いた酷使は、確実に彼の身体を蝕んでいき……
本当に彼のことを思うなら、史上最年少で賞を取ることより、十年後の幸せを考えるべきだったのに。
そして、ある雨の日。
彼は二百球近い懲罰登板によって、肩を壊しました。
誰もが、史上最強の投手になることを疑いませんでした。
誰もが、史上最強の投手を育てた“何者か”になりたかった。
その思いが、私たちに道を踏み外させたのです。
私は、怒りと苦しみ……そして、他の選手が活躍し、彼が手に入れるはずだった未来を思うたびに込み上げる、やるせなさによって、また道を踏み外しました。
完璧な野球選手を作る。
その理念のもと、私たちは長い年月をかけ、ついに過去へ戻ることに成功したのです。
すなわち、幼い彼の意識を乗っ取り、彼の身体で、完璧な野球人生を歩ませる。
小学五年生で野球を始めたにもかかわらず、U12で優勝する。なぜなら、それが最も輝かしい人生だからです。
史実通り、甲子園も秋季大会も連覇しました。しかし、そのとき彼が本当は何を思っていたのか、相棒のキャッチャーと抱き合うその姿が、かつて私がテレビ越しに見たように、人の心を震わせるものだったのか。それは分かりませんでした。
当然、彼の体格と才能を持ってしても、プロの世界は甘くはありません。
何度も、何度も、やり直して、私は完璧な彼を、自分の理想を作り上げました。
ドラフト会議では微笑みを絶やさず、インタビューには知的に答え、後輩や同僚には優しく、新人賞を、タイトルを、MVPを。
いつしか私は、彼の名前を呼べなくなってしまった。
今、あなた方の目に、私はどう映っていますか。
誰もが認める究極の投手でしょう。誰もが、成功と認めざるを得ない人生でしょう。
けれど――本当の彼のほうが、よほど美しい人間だったと、私は確信しています。
先日……この時間軸にいる幼い私が、今の私の試合を観に来たのです。
本来なら、そこで私は彼を好きになるはずだった。
けれど、あの私は、ならなかった。
私が愛した彼は、もうどこにもいないのだと気づいたのです。
そう、彼を殺したのは私たちだったのです。
彼の才能を免罪符に、自分では叶えられない夢を叶えるための道具にした。
彼には、完璧な人生を歩む義務などなかった。ただ、自分の人生を楽しむ権利があったはずなのに。
雨が降り始めてきましたね……
今日。それは本来の時間軸で、彼の野球生命が絶たれる日です。
私――すなわち、彼にかけられた期待は、彼のほんの小さなミスを、過酷な懲罰の始まりに変えるでしょう。
彼は、何百球と投げさせられる。
私は、もうやり直さない。
史実通りの結末を迎える。
この数年後、野球の世界では球数制限が進むでしょう。
もしかすると、これは何度も何度も、繰り返されてきたのかもしれない。本当の彼など、最初からいなかったのかもしれない。
最後に……私は、この映像を見ることになる、あなた方に考えてほしいのです。
自分の胸に手を当てて、自分は他人を、夢を叶えるための道具にしていないか。
さようなら、○○選手。
永遠に愛しています。




