第1章:過労死からの転生
山本一、享年29。彼の人生は、まるで砂時計の砂が落ちるように、日々、ただひたすらに会社という名の巨大な歯車にすり減らされていった。最終的に、その砂はすべて落ちきり、彼は東京の雑踏の片隅で、静かに、しかし確実に息絶えた。死因は過労死。世間では「働き方改革」だの「ワークライフバランス」だの、耳障りの良い言葉が踊っていたが、彼の身には一切関係のない絵空事だった。
最後の記憶は、冷たい蛍光灯の下、積み上がった書類の山と、締め切りを告げる上司の怒鳴り声。そして、胸を締め付けるような激痛と、全身から力が抜けていく感覚。ああ、これでようやく眠れる。そんな、諦めにも似た安堵が、彼の意識を最後に包み込んだ。
次に目覚めた時、山本は混乱した。まず、天井がない。正確には、あるにはあるが、それは石造りの、やたらと高く、そして煤けたアーチ状の天井だった。窓からは、見慣れない、しかしどこか荘厳な光が差し込んでいる。埃っぽい空気と、カビの匂い。そして何よりも、体が軽い。まるで、何十年もの間背負っていた重荷が、一瞬にして消え去ったかのような感覚だ。
「あれ……?俺、死んだはずだよな?」
呟いた声は、驚くほどに低く、そして響いた。自分の声ではない。慌てて手を見る。そこにあったのは、節くれだった、しかし力強い男の手だった。爪は長く、皮膚は青白い。そして、指には見慣れない銀の指輪がはめられている。全身を確かめる。着ているのは、漆黒の豪華なローブ。胸元には禍々しい紋章が刺繍されている。鏡はないが、直感的に理解した。これは、俺の体じゃない。
立ち上がろうとすると、ローブの裾が床に擦れる。その音すら、やけに重々しい。部屋を見渡す。広大な空間に、古びた玉座が一つ。その周りには、蜘蛛の巣が張り巡らされ、床には瓦礫が散乱している。まるで、何百年も放置された廃墟のようだ。
「ここは、どこだ……?」
その時、頭の中に、洪水のように情報が流れ込んできた。それは、まるで誰かの記憶を無理やり押し込まれたかのような、強烈な感覚だった。
『我は、魔王ハジメウス・ザ・リフォーム。この魔王城の主であり、魔界を統べる者なり――だったはずなのだが、現状は見ての通り、見る影もない廃墟と化している』
魔王?ハジメウス・ザ・リフォーム?頭が痛い。情報が多すぎる。しかし、その記憶の断片は、彼の疑問に答えを与えてくれた。彼は、異世界に転生したのだ。しかも、魔王として。
だが、その魔王の記憶は、ひどく断片的で、そして何よりも「無気力」に満ちていた。かつては強大な力を持っていたらしいが、長年の怠惰と、配下のモンスターたちの無能さにより、魔王城は荒廃し、魔界の経済は崩壊寸前。魔王自身も、その状況に絶望し、ただ玉座に座ってぼんやりと日々を過ごしていたという。
「……これ、俺がいた会社と何が違うんだ?」
思わず口から出た言葉に、山本は苦笑した。過酷な労働環境、無気力な上司、生産性の低い部下、そして崩壊寸前の経営。まるで、あの「ブラック企業」の異世界版ではないか。
しかし、その瞬間、彼の心に、ある種の反骨精神が芽生えた。あの会社で、彼は何も変えられなかった。ただ、歯車の一部としてすり潰されるだけだった。だが、今は違う。彼は魔王だ。この世界の「ボス」なのだ。ならば、この状況を変えることができるはずだ。
「よし、決めた」
山本、いや、魔王ハジメウスは、玉座へと歩み寄った。埃を払い、ゆっくりと腰を下ろす。冷たい石の感触が、彼の決意をより強固なものにした。
「まずは、この魔王城を『ホワイト企業』にする」
彼の脳裏に、かつて夢見た理想の職場が鮮明に浮かび上がった。定時退社、残業ゼロ、有給消化率100%、明確な評価制度、そして何よりも、従業員が笑顔で働ける環境。そんな職場を、彼はこの異世界で、魔王として実現してみせる。
「ブラック企業で死んだ俺が、異世界でホワイト企業を作る魔王になる。……なんという皮肉だ」
彼は玉座に深く身を沈め、静かに目を閉じた。体中に満ちる、かつては感じたことのない魔力。それは、彼の新たな使命を後押しするかのように、脈打っていた。
その時、城の奥から、微かな物音が聞こえた。ガタガタと、何かを揺らすような音。そして、微かに聞こえる、いびきのような音。
「……まさか、従業員ゼロじゃなかったのか?」
魔王ハジメウスは、ゆっくりと目を開けた。彼の瞳には、かつての疲弊したサラリーマンの面影はもうない。そこには、新たな世界を、新たな「労働」の形を築き上げようとする、改革者の炎が宿っていた。
「さて、まずは『従業員』の意識改革から始めるか。定時退社は、魔王城の絶対原則だ」
彼は玉座から立ち上がり、音のする方へと歩き出した。その足取りは、かつての疲労困憊したサラリーマンとは似ても似つかない、力強く、そして確固たるものだった。魔王ハジメウス・ザ・リフォームの、残業ゼロ改革が、今、静かに幕を開けた。