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婚約を破棄して断罪イベントをしなくちゃならない王子の話

「はぁ………」


 質素ではあるが、高貴な雰囲気の装飾が施された執務室で、ルシアン・リール・ソルスティスは深くため息をついた。明日に迫る高等教育卒業パーティー。そこで彼は、公爵令嬢アスタシアとの婚約を破棄し、聖女セシリアとの婚約を発表するという、人生の岐路に立たされていた。

 世間一般の認識では、ルシアンは我儘で傲慢な第三王子として知られている。しかし、それは表向きの顔に過ぎなかった。彼の真の目的は、尊敬する兄である第一王子に王位を継承させること。そして、自身は権力争いの渦中からいち早く身を引くこと。そのために、彼は嫌われ役を演じ続けてきたのだ。


「もっとこう……手紙とかで済ませられないものだろうか」


 憔悴した表情で、ルシアンは近侍のフィンに弱音を吐いた。フィンは二つ年上の幼馴染であり、幼い頃からルシアンの世話を見てきた。常に冷静沈着な彼は、主君の頼れる右腕だった。


「いけません、王子。これは必要なイベントなのです」


 フィンは眼鏡の位置を指で直し、きっぱりと言った。この無能王子として権力争いから離脱するという大胆な作戦は、二人が綿密に練り上げてきたものだった。


「いくら僕が無能王子として戦線離脱する作戦とはいえ、幼馴染でもあるアスタシアを傷つけるのは辛すぎるよ」


 ルシアンは机に突っ伏し、まるで子供のように駄々をこねた。アスタシアは見た目はキツそうで規律を大切にするが、心優しい令嬢で、ルシアンも彼女の人柄を深く尊敬していた。


「いいですか、王子。これはアスタシア様にとっても大事なイベントなのです。彼女たちのストーリーはここから始まるのですから」


「お前、何言ってるの?」


 フィンは時折、ルシアンには理解できない、まるで別の世界の言葉を話すことがあった。


「確かに傲慢な演技はずっとしてきたよ、兄上たちのためになると思ってたし、王国に仇なす無能貴族を炙り出すのにも使えると思ったし。ただこれはダメだ。僕の本来の性格、知ってるだろう?」


 ルシアンは縋るような眼差しでフィンを見つめた。彼の本質は、誰よりも優しく、繊細な心の持ち主だった。


「いいえ、王子。これは必要なイベントだと何度もご忠告します」


 フィンは微かに鼻を鳴らし、いつもの冷静な声音で繰り返した。彼の言葉には、微塵の揺らぎもなかった。

 ルシアンは、友であり、忠臣であるフィンの固い決意を前に、深く溜息をつくことしかできなかった。


「手紙はダメっていうのなら、せめて人のいない校舎裏とか、そういうところで静かに彼女を説得できないだろうか」


 ルシアンは両手を広げ、具体的な場所を提案した。人前でアスタシアを傷つけるのは、どうしても耐えられなかった。


「それに、聡明なアスタシアのことだ。セシリアのことや状況も僕がきちんと説明すれば、きっと理解してくれるはずだ」



 ルシアンの妄想劇場・開幕 ———————————


 ル「……アスタシア、済まない。君との婚約を、どうか破棄させてほしいんだ」


 ア「まぁ、ルシアン様……一体、どういうおつもりで?わたくしとの婚約を解消するなど、王家の体面に関わりますわ」


 ル「実は……近いうちに、僕は閑職に追いやられることになるだろう。君のような才女を、そんな未来に巻き込むわけにはいかないんだ」


 ア「……ルシアン様。わたくしのことを、そこまで……ありがとうございます」


 妄想劇場・終幕 ———————————



「申し訳ありませんが、そんなチンケな妄想通りにはならないでしょうね」


 冷ややかな声が、ルシアンの甘い夢を打ち砕いた。嘲弄の色を滲ませた瞳でルシアンを見下ろしている。


「チンケ…いや、別にこんな単純に事が運ぶとは思っちゃいないさ。だが、礼儀を尽くすのは悪いことじゃないだろう?」


 フィンの意地の悪い物言いに、ルシアンは内心で舌打ちしつつ、あくまで穏やかな口調で言い訳する。


「それに、そんな都合の良い展開がセシリア様の耳に入ったら、彼女も心の底からあなたに寄り添うことはできなくなるでしょうね」


 セシリアは、街の片隅で育った、どこにでもいるような少女だった。それが、高等学校に入学してから、突如として聖女としての才能を開花させたのだ。飾り気のない、素朴な雰囲気は、貴族社会では異質なものだった。彼女は卒業後、国にとって重要な役割を担う大聖教会に身を置くことになり、ルシアンもまた、彼女と婚約することでその近くで公務に就くことになるだろう。一方、アスタシアの実家であるグラナート公爵家は、代々有能な人材を輩出してきた名門だ。今後、仕事で関わる可能性も十分にあり得る。そんな状況で、気まずい空気のまま顔を合わせることなど、ルシアンには想像もできなかった。


「そうだ、アスタシアには違う許嫁を……」


 ルシアンが新たな提案を口にしかけた瞬間、フィンが鋭く言葉を遮った。


「いけません、王子。それは無粋というものです」


「うわついた様な理由で婚約破棄するのは無粋じゃないのかよ!」


 ルシアンは思わず声を荒げた。フィンの理屈は、いつもどこかズレているように感じた。


「王子、あなたはこれから国の重大な政に関わることが増えていくでしょう。その中には、人の生き死にに大きく作用することも決めていかなければならないでしょう」


 フィンの言葉は、いつになく重みを帯びていた。冷静な彼の眼差しが、ルシアンを射抜く。


「それに、悪役王子としてこのイベントは避けては通れないのです!」


「誰が悪役王子だよ!」


 ルシアンは、自嘲気味にそう突っ込んだ。自分が演じている役割を、改めて突きつけられた気がした。本当は誰よりも心優しい王子であることを、フィンは知っているはずなのに。それでも、彼は非情なまでに現実を突きつけてくる。


「私は王子が二人に対して、とても気を遣ってることを知っていますよ」


 そう言うと、フィンは泰然とした様子で胸元から一冊の小さな、見慣れた装丁の本を取り出した。


「それ、僕の秘密の日記じゃないか!いつの間に持ち出したんだよ!」


 ルシアンは目を丸くし、椅子から飛び上がらんばかりに驚愕した。まさか、こんな時に、誰にも見せていないはずの秘密の記録が持ち出されるとは。


「いいえ、これは私の写本です」

 パラパラと日記帳を捲りながらフィンは言った。

「私、王子のことならなんでも知っています。ええ、本当に、なんでも。ホクロの数から好みの女性の髪型まで、湯上がりに出される牛乳が実は嫌いだとか、なんでも知っています。なので、秘密の金庫のパスワードなんて、私にとってはただの数字の羅列に過ぎません」


 フィンは涼しい顔で言い放った。その言葉に、ルシアンは背筋が凍るような感覚を覚えた。


「お前、本当に僕の味方なの……?ていうか、牛乳出してくるのお前じゃん……?」


 ルシアンは顔面蒼白になり、混乱の色を隠せない。


「お二人が周りから冷たい目で見られないように、裏では工作員まで使って様々な手を回していましたよね。見事なお手前でありました。王子の片腕として、そのご苦労を知っているだけに、嬉しいやら悲しいやら……複雑な気持ちであります」


 フィンはハンカチを取り出し、大袈裟に目元を押さえてみせた。その演技じみた様子に、ルシアンは呆れ顔になる。


「お前の気持ちはどうでもいいんだよ」


 ルシアンは脱力しながらそう呟いた。


「ひどい振られ方をしたアスタシア様は、間違いなく周囲の有力者たちから悲哀の目で見られるでしょう。もちろん、聡明で気丈なアスタシア様はそのような憐憫など必要としないでしょうけれどね。彼女はきっと、あの場からご自身の屋敷には戻らず、自らの足で新たな道を歩み始めることになるでしょう」


 フィンは自信に満ちた表情で、まるで物語の筋書きを語るかのように言った。その口調には、周到に練られた計画への自負が滲み出ている。


「そこで、いくつかの分岐点をちゃんと用意しておきました。彼女が傷心の中、最初に通るであろう道には、この国でも指折りの豪腕商人、豪奢王バザールが偶然通りかかるように手配済みです。アスタシア様は、その美貌に隠された豪胆さもお持ちのお方。きっと、王子から贈られた、今となっては不要になった貴金属などを叩き売って、当座の資金とするかもしれません。そして、その並外れた交渉術と度胸がバザールの目に留まり、トントン拍子に彼の右腕として頭角を現すやもしれません。別のルートを選んだ場合には、隣国の、これまた眉目秀麗、文武両道の誉れ高い第一王子、アルフレッド殿下が、優雅な白馬の馬車で通りかかるように、完璧に調整済みです」


「また、よくわからない調整能力を発揮するじゃん……」


 ルシアンは、もはや驚く気力も湧かず、ただただ呆れたように呟いた。フィンの、まるで運命さえも操るかのような手腕は、いつだって彼の理解を超えていた。


「まぁ、アスタシアが幸せになるように計らってくれたのは、それは感謝するけど……その後の僕が、どれだけ居た堪れない思いをするかなんて、少しも考えてないわけ?」


 ルシアンは、自分の将来の身を案じて訴えた。婚約破棄という形でアスタシアを傷つけた後、彼女が新たな幸せを掴むのを目の当たりにするのは、彼にとって耐え難い苦痛となるだろう。それなのに、フィンはまるで他人事のように、アスタシアの未来のことばかりを語っている。ルシアンは、友人のあまりのドライさに、軽い絶望感を覚えていた。


「その点はお任せください。確かに、しばらくの間は『残念な王子』として世間から見られることになるでしょう。王位争奪戦からも、また一歩後退することになります。しかし、ご安心ください。婚約破棄という衝撃的なイベントでありながらも、王子に好印象が残るよう、周到に算段しております。それが、こちらです」


 フィンは、いつものように涼しい顔でそう言うと、またもや胸元から何かを取り出した。まるで、魔法のポケットでも内蔵しているのではないかと思えるほど、彼の胸からは様々な物が出てくる。


「お前の胸ポケット、一体どうなってるの?まぁ、それは置いておいて……これは……?」


 ルシアンは、訝しげな表情でフィンが差し出したものを見つめた。それは、どこにでもありそうな、ごく普通の丸い饅頭だった。


「婚約破棄記念饅頭です」


 フィンは、こともなげにそう言った。饅頭の表面には、見間違えようのない文字が焼き印されていた。『婚約破棄』と。


「お前、俺に対しては随分と雑じゃん……!こんな縁起でもない饅頭で、一体何が変わるっていうんだよ!」


 ルシアンは、半ば呆れ、半ば怒りの混じった声で叫んだ。アスタシアの未来をあれこれと画策する割には、自分の扱いがあまりにもぞんざいではないか。


「まぁ、このお饅頭は冗談として……」


 フィンはそう言って、手際よく湯を注ぎ、立ち上る芳醇な香りの紅茶を、添えられたバカらしい饅頭と共にルシアンの前に差し出した。


「……え、これ、冗談だったのか……よかった……」


 ルシアンはホッと胸を撫で下ろし、温かい紅茶を一口啜った。


「ルシアン様がこれまで執り行ってきた公務は、【完璧】の一言に尽きます。有無を言わせぬほど、完璧です。セシリア様の愛もまた、紛れもない本物でしょう。ただ……上に立つ者として、【残念である】という印象だけを、敢えて残してきたのです」


 フィンはそう言いながら、胸元から別の、使い込まれた様子のメモ帳を取り出し、パラパラと頁を繰った。


「ちょうど、近々聖教会付きの【高級伝令士官】の席が空く見込みです。ここを狙いましょう。ルシアン様の実績と、セシリア様の役職あれば、間違いなく受け入れられるはずです」


 数多の職業が書き連ねられたメモ帳を吟味し、フィンは自信ありげにそう告げた。その言葉には、ルシアンの未来を切り開く確かな光が宿っているようだった。


「セシリアには、本当に申し訳ないな……国の役に立つかどうか、なんて理由で婚約してしまって……」


 ルシアンは、どこか寂しげな眼差しで窓の外の景色をぼんやりと眺めた。春の柔らかな陽光が差し込む中、彼の心には一抹の陰りが漂っていた。


「もし、本当の僕の気持ちにセシリアが気づいてしまったら……それこそ、僕の方が婚約破棄されるかもしれないな」


 ルシアンは、遠い空を見上げながら、ぽつりと呟いた。青く広がる空の向こうには、彼の想像もつかない未来が広がっている。


「そうなったら、いくら高貴の出とはいえ、高級伝令官は解任されてしまって、もしかしたら王国追放、なんていう憂き目に遭うかもしれない」


 彼は頭を軽く抑えながら、自嘲気味に言った。全てが計画通りに進むとは限らない。最悪の事態も想定しておかなければならない。


「そうですね、その場合は何か新しいことでも始めましょうか。王子は今まで、多くの書物を読み耽ってきました。それらの書物を活かして、地方を回る移動図書館なんていかがでしょうか。あるいは、王子がお好きな音楽で人々を魅了するのも良いかもしれません」


 フィンは、いつもの冷静な微笑みを浮かべながら、突拍子もない提案をした。しかし、その言葉には、主君への深い信頼と、どんな状況でも共に歩もうとする覚悟が感じられた。


「旅する図書館兼、巡業音楽家か……確かに、悪くないかもしれないな」


 ルシアンは、フィンの提案に少しだけ心が動いた。全ての権力争いの泥沼から抜け出し、自由に生きる。それは、彼が心の奥底で諦めつつもずっと夢見ていたことなのかもしれない。


「それに、何があっても、私は王子について行きます」


 フィンの言葉は、いつもの冷静なトーンでありながら、確固たる決意と優しさを宿していた。それは、長年の付き合いの中で、ルシアンが何度も感じてきた、揺るぎない忠誠心だった。


「それについては信用しているよ」


 もし、本当に全てを失うような事態になったとしても、隣には必ずフィンがいる。その事実が、彼の心にわずかながらも温かい光を灯していた。


「じゃあ、明日に備えて行くとするか」


 重い空気の中、ルシアンは静かに立ち上がった。明日、待ち受けるであろう波乱を前に、今はただ、覚悟を決めるしかなかった。


「はい、王子」


 フィンは、主の背中を見つめながら、恭しく頭を下げた。

 明日の卒業パーティー。それは、ルシアンにとって、長きにわたる策略の最終局面であり、同時に、予期せぬ未来への出発点となるかもしれない。アスタシアの涙、周囲の嘲笑、そして、その先に待つかもしれない新たな道。不安と憂鬱が彼の胸を締め付ける一方で、微かな希望の光も灯っていた。これから起こる三者三様の運命の歯車は、ゆっくりと、しかし確実に回り始めたのだった。


おしまい

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