*第1話 さざなみ
軒端に射す陽は等しくあれど
笑み交はす声あり 噎び泣く声あり
天道は無私と云ふなれど
こぼるる露の玉は何処も同じきに
受くる掌の幸薄きは何の因果ぞ
空の青さのみぞ 変わらぬは哀し
時は室町応永二十八年(1421年)、将軍足利 義持公の御代。
安房国の南端白浜の庄に生を受けし、いと麗しき女子。
一帯を治める豪族神余光弘の家来、山崎重信と妻小夜の長女は、
その名を玉梓と付けられた。
「玉梓」には「大切な言葉を伝える使者」と言う意味があり、
転じて恋文の代名詞となっている。
曰く、名は体を表すと申す。
なんとも情緒豊かな名で呼ばれた少女が振り向くと、
全ての花は色褪せて、ただ一輪の輝きに誰もが心を震わせた。
下っ端の半農武士である重信の暮らしは貧しく、
山砦の門番をするだけの奉公では食べて行けない。
自給自足の畑仕事と浜の漁師の手伝いで生計を立てていた。
それでも夫婦仲睦まじく笑顔の絶えない日々を過ごしていた。
「弥平よ、鈴音殿の具合はどうじゃ?」
同じく門番を務める木戸弥平とは家族ぐるみの付き合いだ。
奥方が風邪で寝込んでいると聞き、磯で採れたアワビを差し入れたのだ。
「おぅ、すっかり良くなった。肝汁が効いたわい」
「アワビの肝は精が付くでの」
「鈴音も感謝しとった、礼を言うぞ」
「なんのなんの、これしきの事じゃ」
弥平は砦を挟んで反対側の山里に住んでいる。
時折互いに訪れては山海の幸を楽しむ。
「おぉ、そうじゃ!忘れておった。鹿を仕留めての。
いくらか包んで藤次郎に持たせた。
もう着いておる頃じゃろう」
「それはありがたい!藤次郎殿と会うのは三月ぶりじゃて玉梓も嬉しかろう」
「それ、その事じゃがな。玉梓殿をあやつの嫁にと思うておるのじゃが」
「ふむ、ワシもそろそろ話をせねばと思案しておったところじゃ」
弥平の次男藤次郎は来年の夏に十五歳となり成人する。
玉梓は十三、どちらも適齢期だ。
「異存が無ければ進めたい」
「異存などあろうかい、宜しなに頼む」
「ふぅ~、さても一安心じゃ」
「そうも言うておられんぞ、近頃は公方様の近辺が騒がしいそうな」
「やれやれ・・・戦にならねば良いが」
「お館様は何方に付くじゃろうかのぅ」
「そりゃ公方様じゃろう」
「いやいや、この御時世わからんぞ」
鎌倉公方とは関東一円を統治する幕府の長官で、
足利将軍家の一族が務める。
当代の公方は足利持氏である。
代々世襲で継いでいるため、地方大名のような性格が強い。
その補佐役として幕府直属の関東管領が配属されている。
要するに監視役だ。
現職は上杉憲実、こちらもまた世襲の大名である。
同じ地域に二つの大名。
揉めない筈が無い。
幕府は何故その様な差配をしたのだろうか?
権力を手にした者が一番用心するのは部下の反逆だ。
強大な敵と対峙するよりも、寝首を掻かれる方をこそ恐れる。
互いに争わせ疲弊させる事で、力を持ち過ぎぬ様に図る。
例えそれで世が乱れようとも構わない。
雲上の我が身の安寧を願うのである。
人の上に立ち天子の声を聞きながらも、その本性は餓鬼畜生へと
落ち果てるのだ。
***
さざ波が白砂を洗う浜の先に野崎の岬が見える。
半島の最南端、時折波間に浮かび上がるのは海女さんたちだ。
逞しき漁師の女房は、夫に負けじ劣らじの偉丈婦である。
「やはり海は良いな!」
「ふふ、私は山里の方が好きです」
「嫌なのか?海が」
「いいえ、そうではありません。もちろん大好きですとも。
でもそれよりも、もっと山が好きなのです」
鹿肉を届けた後、二人で浜を歩いている。
藤次郎の影に自分の影をそっと重ねて頬を染める玉梓。
「へぇ~そうなのか、退屈なだけだと思うがなぁ。山の何処が良いのだ?」
「なにより潮気が無いのは嬉しゅうございます」
「なるほど、そなたの様な柔肌に潮風は辛かろうな」
「辛いと言う程ではありませんけれど・・・」
生まれも育ちも海辺の村の、磯の香りに包まれて来た。
いまさら潮風がどうのこうのである筈も無い。
さりとて貴方が住む所だからとは言えぬ乙女玉梓である。
「ん?あれは砦の者かな?」
五騎の騎馬武者がこちらに近づいて来る。
身なりの良さは、かなり高位の者らしい。
砦の者では無さそうだ、だとしたら滝田の城仕えか?
それにしても奇異な、鞍も付けずに馬に乗るとは、
まるでやくざ者の様ではないか。
邪魔せぬようにと進路から外れて控える。
そのまま通り過ぎるかと思ったが、二人の前で馬脚が止まった。
「村の者か?」
「いえ、私は山里から使いで来た者に御座います」
あまり関わりたくは無いなと藤次郎は思い、玉梓の事は黙っていた。
しかし武者の目は彼女を捉えていた。
「左様か、そこな娘は?」
「こ、この娘は、その・・・」
「村の者に御座います」
藤次郎を庇う様に進み出て頭を下げる。
絡みつく視線にざわざわと身が震える。
恐ろしい・・・
「娘、名は何と申す」
「玉梓と申しまする」
「ほう、良い名だ。武家の娘か?」
「はい、家人の末席に御座います」
「うむうむ、善きかな善きかな。娘、村長の家まで案内せよ」
そう言い放つと武者は下馬し、玉梓の手を引き彼女を馬に乗せようとした。
藤次郎などには、もはや一瞥もしない。
「お、お待ち下され!」
「ん?なんじゃ!」
「いったい貴方様はどなたで御座いましょうか?」
「小賢しいやつじゃのぅ、まぁ良いわ。
小僧が知らぬのも当然じゃな。
ワシは金碗八郎と申す、神余家の直臣じゃ」
さすがに名前くらいは知っている。
お館様の側近中の側近。
そんなお偉いさんが何故こんな所に?
「こ、これはご無礼致しました!」
思わず後ずさり膝をつき背中を丸める藤次郎。
やっかいな連中に出会ってしまった。
逆らえば身内にも類が及ぶ。
しかし彼女だけは守らねば!
「あ、案内致します!ささ、参りましょう!」
「ん?さようかさようか、では参ろう」
「藤次郎様、母に事の次第をお伝え願います」
そう言い残し、玉梓は馬上に抱えられて行ってしまった。