小さな命 繋がるをてのひら
冷たい雨が降りしきる秋の午後。病院の小さな診察室の窓から外を見つめていた花井美咲は、何度目かわからないため息をついた。
まだ高校生の彼女は、心臓に先天性の病を抱え、生まれてからずっと闘病生活を送っている。入退院を繰り返し、学校の行事や友人たちとの思い出も限られていた。そんな日常が彼女には当たり前だった。
「美咲ちゃん、今日から新しいお友達が同じ病棟に入るのよ」
担当看護師の田中がそう告げると、いつもは無表情な美咲の目に、少しだけ好奇心の色が浮かんだ。
その「新しいお友達」とは、幼い男の子だった。名前は大地、まだ5歳。くりくりの黒い目が印象的な少年だ。大地もまた、重い病気で長期入院を余儀なくされていた。
田中が病室に案内すると、大地は緊張した様子で、ベッドの端に小さく座っていた。美咲がぎこちなく話しかけた。
「こんにちは。私は美咲。あなたの名前は?」
「……大地。」
蚊の鳴くような声で答えた彼に、美咲は優しく微笑んだ。
その日の夜、病棟の廊下を歩いていると、美咲は再び大地を見かけた。彼は窓の外をじっと見つめていた。
「何を見てるの?」
驚いたように振り返る大地。その顔には、涙の跡があった。
「お母さん……家に帰れるかな……」
小さな声でそうつぶやいた彼に、美咲の胸がぎゅっと締めつけられた。自分の体験を思い出したのだ。
「大地くん、聞いて。ここで過ごす時間は確かに大変だけど、でもね、それでも私たちの命はここにある。それが、すごいことなんだよ。」
大地はきょとんと美咲を見つめたが、彼女の手が自分の手を優しく包み込むと、少しだけ頷いた。
美咲と大地はそれから少しずつ距離を縮めていく。絵本を読んだり、一緒に折り紙をしたり。美咲は、彼と過ごす時間が不思議と自分の心を癒していることに気づいていた。
そんな生活が数ヶ月たった。
冬の訪れとともに、病棟の窓には冷たい風が吹き付ける。入院生活にも慣れた大地は、美咲と過ごす時間を心から楽しむようになっていた。美咲にとっても、大地との会話や遊びは、これまで抱えていた孤独を忘れさせてくれる大切なひとときだった。
しかし、その穏やかな日々は突然崩れ去る。
ある日、病院の廊下で美咲は医師たちの話を耳にした。
「大地くんの手術、成功率は五分五分だ。時間がない。」
「でも、手術しないと……」
動揺を隠せない美咲。大地はその小さな体で、想像以上の苦しみに直面しているのだと改めて実感した。
その夜、病室で美咲は大地に話しかけた。
「大地くん、先生たちが言ってたよ。もうすぐ手術だって。」
大地は俯いたまま、絵本を握りしめていた。
「……怖いよ、美咲ねえちゃん。痛いのも嫌だけど、もし失敗したら……僕、消えちゃうの?」
その言葉に、美咲の胸が締めつけられる。自分だって、何度も同じ不安に押しつぶされそうになった。けれど、その度に誰かが手を差し伸べてくれた。だから今度は自分の番だと思った。
「大地くん、命ってね、痛みも怖さも全部含めて、すごく特別なものなんだよ。だから、みんな必死になって守ろうとするの。私たちも、一緒にがんばろう。大地くんは一人じゃないよ。」
美咲の言葉に、大地はぽろぽろと涙を流した。それでも彼女の手を握り返し、小さな声で「うん」と答えた。
手術の日が近づく中、美咲自身もまた、心臓の状態が悪化していた。息切れがひどくなり、簡単な動作すら苦痛を伴う。それでも彼女は笑顔を忘れなかった。大地のために強くあろうと決めたのだ。
そしてついに、大地の手術の日が訪れる。病室を出る前、大地は美咲に折り紙で作った小さな鶴を渡した。
「ねえちゃん、これ……僕ががんばるって証拠だよ。だから、手術終わったらまた一緒に遊ぼうね。」
その言葉を聞いた美咲は、大きく頷いた。
「約束だよ、大地くん。待ってるから。」
大地が手術室へ運ばれていく姿を見送る美咲。廊下に響く彼の小さな声が、彼女の心に深く刻まれた。
数時間後、医師から伝えられたのは「成功」という言葉だった。だがその頃、美咲は自分の病室のベッドで意識を失っていた。
「美咲さん! 心拍が乱れています!」
看護師たちの声が響く。自分の体の限界が近いことを、美咲はどこかで理解していた。それでも彼女の心には、大地が元気になるという希望が灯っていた。
「大地くん……がんばったね……」
小さな命が繋がり続けることを願いながら、美咲は静かに目を閉じた。
大地が手術を終えて目を覚ましたのは、冷たい冬の朝だった。
母親が涙ながらに語る言葉で、自分が手術を乗り越えたことを知った大地は、安堵と同時に、美咲のことを思い出した。
「美咲ねえちゃん、どうしてる?」
小さな声でそう尋ねると、母は優しく微笑みながら答えた。
「きっと美咲ちゃんもがんばってるわ。今はゆっくり休んで、また会いに行こうね。」
けれど、母の微笑みの裏に隠された悲しみを、大地は敏感に感じ取っていた。
数日後、大地は車椅子に乗りながら美咲の病室を訪れた。けれど、そこに美咲の姿はなかった。代わりに、彼女の好きだったスケッチブックと、机の上に折られたたくさんの鶴が目に入った。
そばにいた看護師が、静かに話しかける。
「美咲さんは……昨晩、天国に旅立たれたの。」
その言葉を聞いた瞬間、大地の胸に重い痛みが走った。
「そんなの、嘘だ……美咲ねえちゃんと、また遊ぶって約束したのに……!」
看護師は大地の手をそっと握りしめ、言葉を続けた。
「美咲さんは最後の最後まで、大地くんのことを気にかけていたわ。『大地くんはきっと立派に成長する』って、そう信じていたの。」
机の上には、美咲が大地に向けて残した最後の手紙があった。
「大地くんへ」
君と出会えたことは、私にとって奇跡のような出来事でした。病気と闘う日々の中で、君の笑顔や言葉にたくさん救われました。ありがとう。
君はきっと、これからたくさんの困難に出会うかもしれない。でも、その時は思い出してね。命は、どんなに小さくても尊くて、強いんだってことを。君の中には、その命が輝いているんだから。
私は遠くから君を見守っています。君が笑顔で歩いていけるように、ずっとずっと祈っています。
だから、前を向いてね。
美咲
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その手紙を読んだ大地は、涙をこらえることができなかった。けれど、その中にこそ、美咲の強さと優しさが詰まっていることを感じた。
数年後
春の暖かい日差しが降り注ぐ公園で、一人の少年が空を見上げていた。大地はあの日以来、美咲との約束を胸に生きてきた。彼女の思いを忘れず、病気と闘う子どもたちを助ける仕事に就きたいと夢見ている。
「姉ちゃん、僕、頑張ってるよ。」
彼は胸の中で静かにそうつぶやいた。
空を見上げると、そこには折り鶴が風に乗って舞い上がるように見えた。まるで美咲が微笑みながら見守ってくれているようだった。
美咲の命は消えてしまったけれど、その思いは確かに大地の中で生き続けていた。
命は消えることがあっても、その思いが繋がっていくことで、未来は創られる。小さな手のひらで繋がった命の重みは、永遠に色褪せることはない